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東京地方裁判所 昭和57年(特わ)3871号 判決

《本籍・住所省略》

会社役員 岡田茂

大正三年八月三日生

〈ほか一名〉

右岡田茂に対する商法違反、小島美知子に対する商法違反、所得税法違反各被告事件について、当裁判所は、検察官上田勇夫出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

一  被告人岡田茂を懲役三年六月に、被告小島美知子を懲役三年及び罰金七〇〇〇万円にそれぞれ処する。

二  被告小島美知子においてその罰金を完納することができないときは、金二〇万円を一日に換算した期間、同被告人を労役場に留置する。

三  訴訟費用中、証人渡辺真佐男、同滝沢義明、同石井一美、同小林通暁、同田中維武、同内田春樹、同宮崎喜三郎、同岡部明、同蔵口博、同岡野甲嗣、同根本邦彦、同土崎重夫、同細野耕二、同奥山清秀、同岩倉俊介、同榎本勝善、同杉田忠義、同関根良夫、同萩原秀彦、同藤村明苗、同粕谷誠一、同松田祐之、同岩関務、同志村好英、同黒川徹、同武田安民、同三輪達昌、同宇田真、同原敏治、同矢追秀一、同鈴木賢治、同姶良和伸、同斎藤親平、同小林昭三郎、同松本健太郎、同井上和雄、同天野治郎、同中山勝彦、同吉川政孝、同柳田満、同樫村武及び通訳人梁澤華に支給した分は被告人両名の連帯負担とし、証人永瀬昭治、同馬淵逸明、同石井幹男、同竹内正勝、同木島保、同五島基介、同渡邊進、同茂木治良に支給した分は被告人岡田茂の負担とする。

理由

第一章認定事実

第一節経歴及び本件(主として直輸入商品関係特別背任事件)の前提ないし背景を構成する事実

一  経歴

(一) 被告人岡田茂

被告人岡田茂は、京都市において商業図案家をしていた父権之助、母すがの長男として生まれ、出生後間もなく父が株式会社三越(以下単に「三越」という)の衣裳考案部の責任者として招へいされたのに伴い上京し、府立第四中学校を経て昭和一三年慶応大学文学部を卒業し、三越に入社した。被告人岡田は、大学在学中から商業広告・宣伝の分野に興味を示し、三田広告研究会に所属して活発に活動していたが、三越入社後も、一時応召した期間を除き、専ら同社の宣伝部関係の仕事に従事し、宣伝部主任の時代の昭和二五年秋には、戦後初めてといわれる有名女優を使ったファッションショーを催し、世間の注目を集めた。このファッションショーは当時の暗い世相下の人々に鮮烈な印象を与え、明るい夢をもたらすものとして高く評価され、三越に岡田ありとしてその名を内外に広め、さらに昭和二六年ころ発生した三越大争議では、宮崎喜三郎、杉田忠義らをして第二組合を作らせ、ストライキの切り崩しをはかるなどして争議を早期に収拾させる手腕を示した。昭和二九年本店宣伝部長に昇格し、さらに本店次長兼文書部長、同兼販売企画室長、同兼宣伝部長を歴任して、昭和四〇年四月取締役本店次長兼宣伝部長に就任し、昭和四一年九月三越挙げての初の外国展である大ナポレオン展を立案、企画し、自らフランスに赴き商品買付けを指揮するなどして実施し、大成功を収めた。その後昭和四三年三月ある事情から銀座支店長に転出させられたが、銀座界隈の顧客動向に着目し同店に斬新なヤング路線を導入して同店の業績を飛躍的に高め、その功績により翌四四年五月本店次長兼販売室長兼宣伝部長に復帰し、同年一〇月には常務取締役本店長、昭和四六年四月専務取締役本店長兼仕入部長兼関西仕入部長と順調に昇進し、昭和四七年四月一二日松田伊三雄の後を継いで代表取締役社長に就任した。被告人岡田の社長在任期間は昭和五七年九月二二日開催された取締役会において、代表取締役社長を解任されるまで、約一〇年五か月に及んでいる。

(二) 被告人竹久みち

被告人竹久みちこと小島美知子(以下同被告人名として「竹久」を用いる)は、都立第四高女を経て昭和二五年共立女子専門学校生活科を卒業し、一時ファッションモデルなどをしたのち、昭和二八年四月結婚して静岡県吉原市に居住し長女裕美子をもうけたが間もなく離婚し、実家において右裕美子を養育する傍ら、アクセサリーデザイナーとして自立することを目指し、昭和三〇年ころから文化学院デザイン科に通うなどして技能の習得に務める一方、都内銀座にアクセサリーの製作・販売を目的とする「ヌーベルアクセサリー研究所」を開設した。同学院卒業後右研究所を港区赤坂桧町に移転して「竹久みちアクセサリー研究所」と改称し、生徒を募集してアクセサリーの製作指導に当たるとともに、各種雑誌に投稿したりテレビに出演するなどして次第にその名を広め、アクセサリーデザイナーとしての地位を着実に固めていった。昭和三五年ころ「竹久みちアクセサリースクール」と改称して教室を港区乃木坂に移し、次いで昭和三八年ころ港区麻布市兵衛町にビルを建てて移り、さらに昭和四四年一〇月には渋谷区猿楽町に新築した七階建の竹久ビルに教室を移転させて「竹久みちアクセサリー学院」と改称するとともに、同学院のアクセサリー製作・販売部門を独立させ同年一一月一一日付で株式会社「アクセサリーたけひさ」を設立し、昭和四七年三月三〇日には衣類装飾品の貿易・販売を目的とする「オリエント交易株式会社」を設立した。この間、同被告人は、昭和三四年ころ米国ユナイテッド映画社製作の映画「ソロモンとシバの女王」の宣伝の一環として同題名にちなんだ創作アクセサリー展を三越本店において開き、この縁もあって昭和三七年ころには三越に取引口座の開設が許可されてオリジナルアクセサリーを納入するようになり、前記アクセサリーたけひさ設立後右取引口座は個人から同法人名義に切り替えられ、継続的にアクセサリーの納入を行っていた。そして、被告人岡田の社長就任直後の昭和四七年四月一六日前記オリエント交易の取引口座の開設も認められ、主として香港から取り入れた商品が同社を通じて三越に納入され、同口座が翌四八年一二月二七日付で廃止された後も、同社が外国から取り入れた商品は、後述するとおり、アクセサリーたけひさを経由して三越に納入されていた。

二  前提ないし背景事情

(一) 関係会社の概要

① 三越

三越は、延宝元年(一六七三年)三井高利が百貨店商法の原型ともいうべき「店前現銀無掛値」をうたって江戸日本橋本町に開業した呉服店「越後屋」を前身とし、明治三七年一二月六日合名会社三井呉服店の営業を引き継ぎ、株式会社三越呉服店として法人化されるとともに、近代的百貨店として販売及び経営の形態を整備、拡充し、昭和三年六月一日に現在の株式会社三越に商号変更されて以後、全国主要都市に支店を開設してナショナルチェーンとしての組織を確立し、昭和四六年以降海外にも店舗網を広げて今日に至っている。

三越は、営業目的として、百貨店業に加え、各種物品の卸売・輸出入業、各種興業、不動産の売買、旅行業等多種類の営業を定め、資本金は、昭和五七年六月三〇日現在で二一六億九一九七万五八〇〇円(昭和四七年三月一日時点で一二九億七六九六万四〇〇〇円)、本店を東京都中央区日本橋室町一丁目七番地四に置き、本店及び支店一四店舗(昭和四七年時一〇店舗)を中心に、三越エレガンス店、バラエティストア、小型売店等三一店舗、海外店八店舗及び駐在事務所二箇所を有するほか、多数の関連会社、提携店を擁し、従業員は総数約一万三〇〇〇人、売上高は昭和五七年二月期(期間一年)で五八四六億六〇〇〇万円(なお昭和四七年二月期及び八月期の合計は約二五五五億円)に達している。このように三越は、我が国の百貨店業界において、創業以来三〇〇年の歴史を持つ有数の老舗であり、資本金、従業員数、売場面積、売上高等の面からみても、最大規模を誇る代表的企業である。

三越の機構・職掌は、たびたび変遷を重ねているが、これを概括すれば、総務、業務、経理等の各部のある本社機構とその統轄下にある全国本支店などの機構に分かれる。昭和五一年五月に行われた組織変更前は、集中仕入方式を採る三越の仕入本部は本支店と同列の機構内に置かれていたが、右の組織変更により、本社機構中に仕入本部が組み入れられるとともに、営業総括室が新たに設置された。この営業統括室は、昭和五三年一一月ころ統括室に変わり、昭和五四年一一月ころ営業統括室として復活し、昭和五七年九月末廃止されることになるが、昭和五四年春以降仕入本部(同五七年三月中旬に商品本部と名称変更、以下たんに仕入本部ということがある。)をその管轄下に置いていた。その間、昭和五二年一〇月ころ海外商品の買付の計画・実施につき、バイヤーシステムが導入され、世界各国を地域担当別にして商品担当部長、同次長らがバイヤーに任命され、その後昭和五五年九月ころ、職務内容を明確化して海外基地の支配人、副支配人クラスにまで任命対象を広げ、海外商品に対する仕入権限を各部長からバイヤーに移行していった。このシステムは、昭和五六年八月ころ営業統括室に吸収され、次いで昭和五七年三月ころ商品本部に移り、同年一〇月廃止されている。

なお、三越の株主構成の特徴を指摘すれば次のとおりである。すなわち、

三越の昭和五七年二月二八日現在の発行済株式総数は約四億三三八四万株、株主総数は約五万六二二〇人であり、このうちいわゆる一般投資家たる個人が株主数の約九八パーセントを占め、株式数の約四〇パーセントを所有しているが、個人株主中には突出した大株主というべきものは存せず、保有株式数が上位の株主を構成している会社ないし団体の持株比率にしても、筆頭株主の三越厚生事業団で全体の八・八パーセントに過ぎず、二位以下十位までの株主は五・一九パーセントないし一・八四パーセントとなっている。他方、安定株主を構成する右三越厚生事業団をはじめ三越従業員持株会(持株第四位)、三越愛護会(同第一〇位)二幸愛護会、株式会社二幸、名古屋三越百貨店、三美商会等の三越関連の会社、団体は全体の一五・五パーセントの株式を保有しており、そのうち三越厚生事業団及び三越愛護会(持株比率合計一〇・六パーセント)の代表者は慣例で三越社長がなることになっているため、三越社長は両団体保有の株主権を自由に行使できるとともに、関連会社等の保有株式の権利の行使についても事実上支配し得る立場にあった(実際の株主総会においては、議決権行使の対象となる株式の九〇パーセント以上がこれら三越関連の会社、団体の保有する株式で占められている)。このように、三越では、株式所有の比率が分散していて、他の多くの百貨店にみられるようにオーナーという者が存在せず、三越の代表権を持つ者に株主権行使の権限を集中させる仕組みになっていたため、いったん三越の社長の座につけば、あたかもオーナー社長のごとく、他の取締役とは隔絶した強大な権限を保持し、縦横に行使することが可能であった。

② 三越の主要海外基地

1 香港三越(三越企業有限公司)

香港三越は、昭和四六年一一月香港において開設された駐在員事務所を発展させ、同四七年四月一八日設立された現地法人であり、被告人岡田の唱えた二極分化作戦という販売戦略に基づき、東南アジア諸地域における廉価なビーズハンドバッグ・アクセサリー等の雑貨類や衣料品等のいわゆる価格訴求商品及び毛皮製品、宝石類等の仕入基地として重要な機能を果たしてきたもので、取扱った輸出金額も年々増加し、昭和五一年度で約一二六〇万香港ドル、同五三年度で約五八〇〇万香港ドル、同五四年度で約八五〇〇万香港ドル、同五六年度で約一億六六〇〇万香港ドルに達していたが、これら取扱い商品の多くについて被告人竹久個人に多額のコミッションが支払われていたことは後述のとおりであり、このほかオリエント交易をインポーターとして介在させる準直商品といわれたものもあり、香港三越全輸出取扱高のうちこれらのいわゆる竹久絡み商品の占める割合は、昭和五三年度で既に五〇パーセントを超え、同五六年度では九〇パーセント近くになっていた。香港三越の陣容は、当初三越から出向した吉田晃一支配人と現地採用事務員の二人でスタートしたが、営業活動の拡大に伴い次第に充実し、奥山清秀、岩倉俊介の各支配人の時代を経て、百貨店部門が併設された昭和五六年八月ころには、香港三越専務藤村明苗を筆頭に、支配人萩原秀彦、副支配人関根良夫のほか、七名の者が貿易関係の業務に従事していた。

2 パリ三越(フランス三越株式会社)

パリ三越は、昭和四六年五月二八日パリに設立された三越最初の海外基地で、同年六月一七日第一号店舗を、次いで昭和四八年五月三日第二号店舗をそれぞれ開設し、主として日本人観光客を相手にフランスの有名ブランド商品を、他方フランス人には日本商品を販売していたが、昭和四七年四月二代目の支配人として赴任した松本健太郎の時代に、三越フランス展用の商品の買付を主体に貿易業務を始め、その後アクセサリー・ハンドバック等の雑貨類、婦人服・紳士服、貴金属、美術品等取扱商品を周辺の国まで広げてその範囲・量を拡大し、輸出取扱高は、昭和五一年度で約一一〇〇万フラン、同五三年度で約三七〇〇万フラン、同五六年度で約四八〇〇万フランと年々増加し、三越からの出向社員も総数一〇名前後となっていた。このようにパリ三越は、フランスのみならずヨーロッパにおける主要仕入基地として重要な機能を果たしていたものであるが、これらの商品についても、被告人竹久の経営するオリエント交易にコミッションを取得させるものや、同社をインポーターとして介在させる準直商品があったのみならず、この種商品が他のヨーロッパの基地と比較して多かったのも特徴的で、昭和四八年秋フランスの高級ファッションアクセサリーのファブリスをその対象としたのを手始めに、ポール・ルイ・オリエ、アルニス、セルッティ、ショーメイ等多くのブランド商品が取り込まれて行き、昭和五六年度においてはこれら竹久絡み商品はパリ三越の全輸出額の八〇パーセント以上を占めるに至っていた。

3 ローマ三越(イタリア三越株式会社)

ローマ三越は、昭和四八年一〇月二三日ローマに設立され、同五〇年六月一〇日店舗を開設し、他の海外基地と同様ブティック・貿易・旅行の三部門において事業を営み、年々業容を拡大して、三越からの出向社員も昭和五六年ころには約一三名になっていた。貿易業務は、昭和五一年一〇月実務に詳しい中山勝彦が赴任してから本格化し、取扱商品も皮革製品、雑貨、衣料、家具等全般にわたり、その輸出取扱高は昭和五一年度で約七億七〇〇〇万リラであったのが、同五三年度で約四〇億リラ、同五五年度で約六二億リラ、同五六年度で約八二億リラと急増し、パリ三越と並んでヨーロッパにおける主要な仕入基地として機能していたが、同時に、竹久絡み商品も昭和五三年ころから次第に増加して行き、昭和五五年以降は右取扱高の五〇パーセント以上を占めるに至っていた。

4 ドイツ三越(ドイツ三越有限会社)

ドイツ三越は、海外基地としては最も遅く昭和五三年六月二日デュッセルドルフに設立され、ブティックとして昭和五四年三月一四日デュッセルドルフ店を、昭和五六年一一月一七日同フランクフルト店をそれぞれ開設している。ドイツ三越が本格的にドイツ商品の輸出業務を始め、仕入れ基地としての機能を果たすようになったのは、担当の吉川政孝が赴任した昭和五四年ころからで、ドイツ及びその周辺の国を対象に毛皮製品、羽毛布団、衣類、雑貨等を取扱い、その輸出取扱高は、同年度で約八三万マルク、同五五年度で約六八六万マルク、同五六年度で約六九七万マルクとなっており、竹久絡みの商品の取扱高もそれに比例して増え、昭和五五、五六年度で六〇パーセント前後に達していた。

5 ロンドン三越(英国三越株式会社)

ロンドン三越は、昭和四九年一月二四日ロンドンに開設され、同五四年三月七日店舗を併設し、衣料品、銀製品等の仕入基地としての役割を果たしており、ドイツ三越設立前はドイツ商品の買付けにもあたっていた。その輸出取扱高は、昭和五三年度で約一二億四八〇〇万円、同五四年度で約一五億七一〇〇万円、同五五年度で約一二億二五〇〇万円、同五六年度で約一一億八三〇〇万円となっていたが、この基地で取扱った商品にも竹久絡み商品が多かったことは他の基地と同様である。

③ アクセサリーたけひさ

株式会社「アクセサリーたけひさ」(以下単に「アクセサリーたけひさ」という)は、前記のとおり、竹久みちアクセサリー学院の製作・販売部門を独立させ、昭和四四年一一月一一日被告人竹久により設立された会社で、資本金は二〇〇万円(昭和五二年九月四〇〇万円、同五三年六〇〇万円に増資)、営業目的をアクセサリー・室内装飾品のデザイン並びに製作・販売等と定め、事務所を渋谷区猿楽町所在の竹久ビルに置き、代表取締役には設立以来同被告人が就任している。なお、昭和五七年一月以降右学院の業務をアクセサリーたけひさに移管している。

アクセサリーたけひさは、竹久ビル一階にショールームと港区六本木にブティックを持ち、アクセサリー類と若干の衣類の販売を直接行っていたほか、初期のころは三越を主力にいくつかの百貨店等に自社オリジナルアクセサリーを納入していたが、次第に取引は三越に一本化されていった。同社から三越へ納入されるアクセサリーは買取方式が採られ、三越本店や銀座店に設置された陳列ケースで展示販売され、このほか三越等における特別の催しでも販売されていたが、三越に対する売上高は昭和四五年度で約二〇〇〇万円、昭和四六年度で約一〇〇〇万円程度に過ぎなかったところ、昭和四八年一二月末オリエント交易の三越に対する取引口座が廃止され、従来同社が輸入し三越へ納入していた種々の商品がすべてアクセサリーたけひさを通して三越へ納入されるといういわゆる準直方式が採られるようになってから、売上高が急激に増え、この準直商品がヨーロッパ商品を中心に拡大していったのに伴い増加の一途をたどり、納入された商品は三越各支店、各エレガンス店等で広範囲に販売されていった。アクセサリーたけひさの三越に対する売上高の推移をたどれば次のとおりである(百万円未満切捨、期間は概ね三月から翌年二月)

昭和四九年度 一億九二〇〇万円

五〇年度 二億七〇〇〇万円

五一年度 五億四九〇〇万円

五二年度 八億三九〇〇万円

五三年度 一七億一四〇〇万円

五四年度 二三億九二〇〇万円

五五年度 三八億六〇〇万円

五六年度 三〇億七三〇〇万円

右の取引額を三越に商品を納入している約二〇〇〇の業者の中でみると、その順位は昭和五一年度で第七一位、昭和五三年度で第一三位、昭和五五年度で第三位、昭和五六年度で第八位となっている(昭和五六年度の取引額が前年度より減少した主な原因は、後述のとおり、多くの商品の買付方法が準直方式からコミッション方式へ切り替えられ、オリエント交易・アクセサリーたけひさを経由して三越へ納入される商品が少なくなったためである)。

他方、アクセサリーたけひさの自社ブティックの売上高は、昭和五三年七月期から同五五年七月期までは各二〇〇〇万円前後、昭和五六年七月期で約二七七〇万円、昭和五七年七月期で約一六八〇万円であり、同社の総売上高に占める割合は一パーセント弱ないし二パーセント程度に過ぎず、これにショールームの若干の売上を加算して考慮しても、アクセサリーたけひさの売上はそのほとんどを三越への売上に依存していたということができる。

なお、アクセサリーたけひさは相当数の従業員を抱え、年間に支出する給料手当等の人件費(派遣店員への雑給を含む)は、昭和五四年七月期で約一億五〇〇万円、昭和五五年七月期で約一億一二三〇万円、昭和五七年七月期で約一八三〇万円に上っていたが、ブティック、ショールームの店員、派遣店員、アクセサリー製作従業者を除くと、昭和五七年の時点において、実働社員は被告人竹久の長女裕美子を含めて八名で、竹久ビルにある事務所には同女を除く七名の従業員が常時勤務し、その構成は総務部長(篭橋正好)、経理部長(市川吉昭)、営業部員二名、営業事務員、経理事務員、運転手各一名というものであった。

④ オリエント交易

オリエント交易株式会社(以下単に「オリエント交易」という)は、前記のとおり、被告人竹久により、昭和四七年三月三〇日、衣類・装飾品等の輸出入及び国内販売等を目的とし、資本金五〇万円(昭和五一年一一月二〇〇万円、同五二年一一月三〇〇万円、同五三年一一月六〇〇万円に増資され、全株式を被告人竹久が所有している)で設立された会社で、事務所を前記竹久ビルに置き、代表取締役にはアクセサリーたけひさの従業員篭橋正好が就任しているが、取締役の被告人竹久が実質上の経営者として同社の業務全般を統括していた。

オリエント交易の三越に対する取引口座は設立直後の昭和四七年四月一六日開設が許可され、同年秋ころから商品の入荷が始まったが、同社が輸入する商品はすべて三越へ買取方式で納入するという取引形態が採られており、設立当初は主に香港在住の陳谷峰の経営するベンダーからアクセサリー、ビーズバック、天然石等、ヘレン郭から中国風ドレスが取り入れられ、昭和四八年九月ころからはイギリス、フランス等のアクセサリー類も入荷されるようになった。

ところが、オリエント交易と三越との関係がマスコミで取り上げられ、昭和四八年一二月二七日オリエント交易の取引口座が廃止されるに伴い、同社が輸入する商品はすべてアクセサリーたけひさを経由して三越へ納入するという取引形態(準直方式)が採用され、以後この方式が定着、拡大して海外基地の取扱う多くの商品分野に及んでいった結果、オリエント交易の輸入額及びアクセサリーたけひさへの売上高は急速に増加していった。その推移をオリエント交易の決算報告書によって示すと次のとおりである(各年度はいずれも九月期を表し、金額は百万円未満切り捨て)。

輸入額 売上高

昭和五二年度 四億四〇〇万円 五億六四〇〇万円

五三年度 六億五〇〇〇万円 八億七四〇〇万円

五四年度 一六億八九〇〇万円 一九億一四〇〇万円

五五年度 二六億三九〇〇万円 三三億四〇〇〇万円

五六年度 二一億七九〇〇万円 二九億四〇〇万円

オリエント交易が関与したいわゆる竹久絡み商品には、右の準直商品のほか、自らはインポーターとならずコミッションを取得する商品があり、このコミッション収入も年々増えて、同社の決算報告書によれば、昭和五二年度(九月期・金額一〇万円未満切捨、以下同じ)で二三〇万円、同五三年度で八二〇万円、同五四年度で三二五〇万円、同五五年度で六〇二〇万円、同五六年度で八一一〇万円となっており、コミッション額が昭和五四年度から増加しているのは、準直方式からコミッション方式へと切り替えが進んでいったことによるものであり、これに照応して昭和五六年度におけるオリエント交易の輸入額及び売上高並びにアクセサリーたけひさの三越への売上高は減少している。

他方、竹久ビルの事務所で業務に従事していたオリエント交易の実働人員は、昭和五七年中ころの時点において、被告人竹久を除くと八名であり、その構成は、代表取締役(篭橋正好)、営業部長(柳田満)、貿易部長(武藤登)、経理部長(市川吉昭)、営業部員二名(樫村武、大原明)、貿易業務事務員、秘書各一名となっていたが、右篭橋、市川はアクセサリーたけひさの職務を兼任しており、両社の他の従業員も所属先を特に意識することなく同室で机を並べて勤務し、オリエント交易の買付業務やアクセサリーたけひさの三越への納入業務等準直商品に関する業務に関しては互いに協力し合って遂行し、被告人竹久の指揮・監督の下に一体として営業活動を行っていたものである。

(二) 被告人岡田と被告人竹久の交際及び三越社員への影響

1 交際の状況と援助

被告人両名は、被告人岡田が宣伝部長であった昭和三二、三年ころ、三越の子会社の取締役細田文一郎の紹介で知り合い、その後昭和三四年秋ころ、三越において被告人竹久が映画「ソロモンとシバの女王」の宣伝活動の一環として創作アクセサリー展を開いた際、その所管が宣伝部であったことから接触の機会が生まれて交際が始まり、間もなく肉体関係を持つに至った。以来、被告人両名は深い関係を続け、昭和三七年秋ころ被告人岡田が一か月程入院したときには、被告人竹久が病院に泊まり込み、献身的に看病したこともあって、二人の仲は一層親密の度を強め、その後麻布市兵衛町、同仲ノ町及び竹久ビルの被告人竹久の自宅や借りマンションの一室で密会を重ねるとともに、しばしば一緒に旅行するなどしていた。そして、被告人岡田が社長に就任した昭和四七年ころから、被告人竹久が購入した藤沢市片瀬海岸のマンションで三越の定休日の前夜を共に過ごすのが通例となり、さらに昭和五〇年代に入り、被告人竹久が港区白金台に住居を移してからは、被告人岡田は特段の用事のないかぎり毎晩のように同所を訪れ、被告人竹久の家族と団らんしたり、二人だけの時間を過ごしたうえ、夜遅く帰宅するのが日課となっており、このような状態は、昭和五六年一〇月ころ被告人竹久が目黒区八雲に転居したのちも継続していた。

このように被告人両名は昭和三五年ころから親密な交際を続け、その有様は愛人関係というよりむしろ夫婦同然の関係にあったといってもよい状況にあったが、この間当然のことながら、被告人岡田は被告人竹久の事業面に対する助力を惜しまなかった。例えば、(イ)知り合って間もなくのころ、被告人竹久の求めに応じ、三越宣伝部の出入業者である鈴木康之に依頼して長年アクセサリースクールの経理事務を手伝わせ、また昭和三七年ころ大学時代の友人で税理士をしていた田辺輝彦を紹介して顧問税理士に就任させていること、(ロ)アクセサリースクールやアクセサリー学院の修了式、謝恩会、クリスマスパーティーなどに度々出席し、また学院やアクセサリーたけひさの従業員の慰安旅行に被告人竹久とともに何回か同行して親交を重ね、内部では理事長とよばれていたこと、(ハ)昭和三九年及び同四〇年ころ三越本店で開かれたアクセサリースクールの創作アクセサリー展示即売会では、宣伝部の取引業者に依頼してアクセサリーを購入させ、また昭和五三、四年ころアクセサリーたけひさのブティックの商品を買わせるため被告人竹久の発案で結成した三越の取引業者の親睦会(アルニス会)に毎回出席し、ブティックの売上増に一役買っていること、(ニ)三越本店におけるアクセサリーたけひさの陳列ケースを順次増やし、本店長当時の昭和四五年ころには一階のアクセサリー売場に陳列されたその数は他社に較べ格段に多い四台にもなっており、さらに同年一一月末被告人竹久主催で開かれた帝国ホテルでのアクセサリーショーでは、今後同被告人アクセサリーを三越のオリジナル商品として大々的に売り出していくとの方針を示し、費用を三越でかなり負担したうえ、三越社員を多数動員しバッヂをはずさせ私服に着替えさせるなどして三越の身分を隠し手伝わせていること、(ホ)オリエント交易には営業実績が全くないにもかかわらず同社が設立されるや無審査ですぐ取引口座の開設を認め、さらに杉田本店長に指示してオリエント交易と三井銀行東京支店との外国為替取引等につき保証させていることなどの事実を挙げることができ、こうした被告人竹久に対する援助が三越の海外商品輸入業務に取り込まれ集約されたのが本件準直方式あるいはコミッション方式という商品輸入形態であったといえる。

2 公然化と社員の対応

被告人両名が愛人関係にあることは、既に昭和四〇年ころ宮崎喜三郎、杉田忠義ら一部側近の部下には知られており、その関係が週刊誌に取り上げられた昭和四六年ころには三越幹部社員の大半の密かに知るところとなっていたが、被告人岡田が社長に就任後、被告人両名の三越関係者の面前における親密な振舞は顕著になり、社員らはまさに実感として二人の関係を受け止めていた。すなわち、被告人岡田が海外に出張するときは、たいてい被告人竹久もスケジュールを合わせて合流したうえホテルでは同宿し、メーカーへの訪問、各種パーティの開催や出席等公私にわたる様々な場面において、被告人両名は親しく行動を共にして海外基地社員や同行の社員と接触し、国内においても、三越と取引関係のある海外のメーカー関係者が来日し被告人岡田と会食する席には、被告人竹久も当然のように三越の担当幹部社員とともに出席していた。また昭和五五年に行われた被告人竹久の長女裕美子の結婚披露パーティでは、被告人岡田は前記宮崎、杉田ら最高幹部を初めとする多数の三越社員が列席する中で、親代わりのように被告人竹久とならんで席に着き挨拶するなどし、さらに被告人竹久の自宅にしばしば集まっていた一部側近グループの社員の前に顔を出し歓談していた。

こうして、被告人両名が三越の公式の場面でも誰はばかることなく親密な間柄を開示し、二人の結び付きがいかに強いかが三越社員の間に認識されていくにしたがい、三越社員としては、被告人竹久の背後に絶えず被告人岡田の存在を意識し、被告人竹久を被告人岡田と同一体として考えるようになったのも自然の成行であった。一方被告人竹久は、こうした三越社員の心理状態を巧みに利用し、自己の行動には被告人岡田の意志が反映しているかのように社員に接し、これに呼応するかのごとく被告人岡田も部下に対し常に被告人竹久のセンスの良さと働き振りを強調してその協力を求めるように指示し、これに加えて後述のように、被告人竹久の三越の人事に対する影響力が現実化していったため、被告人竹久の立場は益々強固になり、三越社員はみずからの保身のために被告人竹久の意向に逆らわず迎合するようになっていった。被告人竹久の三越社員に対する圧倒的な力関係を表す例は枚挙にいとまがないが、その一端を示すと次のとおりである。

(1) 被告人岡田に最も近い宮崎喜三郎、杉田忠義は、既に昭和四〇年ころ同被告人らから紹介されて被告人竹久を知っており、その後何回か同被告人宅を訪ねたりしていたが、被告人竹久と面識のなかった藤村明苗、榎本勝善、武田安民、宇田真、姶良和伸ら仕入本部に属する幹部社員は、担当の地位に就任したとき、上司・同僚の助言を受け、被告人竹久のもとに挨拶に赴くなどし、また仕入部の担当社員が海外に買付のため出張する際には大手町のデザインルームに被告人竹久を訪ねて挨拶しなければならず、昭和五五年三月ころ輸入特選部の富田秀之が挨拶せず出張したところ、被告人竹久の不興を買い出張先での会食に同席できなかった。

(2) 昭和五〇年五月に実施された香港三越に対する税務調査が無事終了するや、コミッション取得が露見するのを心配していた被告人竹久に対し、内田経理部長や奥山香港三越支配人がわざわざ報告に及んでおり、また仕入本部貴金属部長に就任した武田安民が昭和五二年六月ころベルギーでダイヤモンドを買付けた際、オリエント交易がコミッションを取得しているのを知らなかったため、被告人竹久に連絡せずコミッションも与えなかったところ、それが社内で大問題となり、仕入本部長や総務本部長から、被告人竹久を無視してはいけない、同被告人の言うことは社長の言うことだと思うようにと注意されたうえ、仕入本部次長に連れられ被告人竹久のもとに赴き詫びを入れたこともあり、さらに被告人竹久は三越社員の海外商品の買付に同行するときは、自己のスケジュールに出張を合わせ、事前に仕入本部の幹部クラスの責任者から竹久絡み商品の買付予定額・数量等を説明させ、買付量を増やすよう求めたり、現地でも商品の買増しを高圧的に要求したりしていた。

(3) 被告人竹久が海外に赴くときは、仕入本部の次長や担当部長が同行し、現地では各基地とともに支配人、副支配人クラスの者がアテンドするのが通例であり、特にパリ三越では、スケジュールの立て方やホテルの手配上の留意事項から出迎え時に用意する物、朝食の内容等に至るまで細かく配慮した「先生対策」と題する接遇マニュアルを用意し、アテンドする基地の幹部社員は、被告人竹久がホテルで一時休む時は隣室に待機し、美容院、買い物にもすべて付き添い、指示を受けるため連絡要員をロビーに待機させて自ら同被告人が就寝するまでホテルに残るなど、被告人竹久に対しては破格の待遇をしていた。

(4) オリエント交易の輸入業務が軌道に乗り始めた昭和四九年ころから、三越本店輸入特選部の岡部多佑、関根良夫(のちの香港三越副支配人)、岩倉俊介らは、被告人竹久に呼ばれてしばしば同被告人の自宅に出入りし、昭和五〇年以降仕入本部貴金属部長武田安民、同婦人用品部長宇田真、仕入本部長代理藤村明苗(香港三越専務・オーキッドファッション責任者)、同次長榎本勝善、営業統括室海外担当部長天野治郎(元パリ三越副支配人)、経理本部次長内田春樹、輸入特選課長幸前誠らも加わり、飲酒したり被告人竹久の麻雀の相手をし、こうして竹久絡み商品の拡大、発展に関与していた社員が被告人竹久の自宅に集められ、右幸前誠を一番の側近とする竹久グループが形成されていた。そして被告人竹久の自宅に毎晩寄っていた被告人岡田もときどきその席に顔を出して歓談したり輸入の話しや時には人事の話もし、さらに右の社員が被告人竹久とともに被告人岡田の誕生会を行うなど、三越内部では被告人竹久を中心とした特殊な人脈が出来上がっていた。

右のとおり、被告人両名の愛人関係が三越社員の間に周知確認されていく過程において、被告人竹久は、本来三越の一取引業者に過ぎないにもかかわらず、三越内部において三越の幹部社員ですらその意向に逆らえない程強大な力を保持する存在になっていたものであり、こうした被告人両名の愛人関係の公然化に伴う三越社員への影響は、本件犯行の手段となった準直方式あるいはコミッション方式という竹久絡み商品輸入方式の維持、発展のための重要な背景事情となっていたものである。

(三) オリエント交易の設立と被告人竹久の三越直輸入業務への介入(被告人岡田の支援)

1 被告人岡田の社長就任内定とオリエント交易設立の構想

昭和三八年三月三越社長に就任した松田伊三雄は高齢で在任期間も既に九年に及んでおり、昭和四七年一月ないし二月ころには、同人の後任として当時専務取締役本店長であった被告人岡田が次期三越社長に就任することが三越社内においてほぼ確実視されていた。

他方、被告人竹久は、被告人岡田が商品の差別化を推進するため昭和四六年五月パリ三越を、同年一一月香港駐在事務所をそれぞれ設立して、海外から商品を直接輸入する計画を実行に移していることを知り、自らも貿易会社を設立して香港などからアクセサリー等の雑貨類やその他の商品を輸入し、これを三越に納入して利益を得たいと考えるに至り、右内定とほぼ時期を同じくする昭和四七年初めころ、被告人岡田に対し、「貿易会社を作ってやっていきたい。三越の商品の輸入を私の会社を通してやってもらいたい。」と頼んだところ、被告人岡田は、三越ではちょうど香港などから商品を直輸入しようとしていた時期であり、もともと輸入品の仕入には、たいして取引に関与していないのに中間に入ってマージンあるいはコミッションを取得している商社があり、それよりマージンを少なくしておけば、所詮は女のやる商売であるので三越にとってそれほど負担にならないと考え、また被告人竹久の会社を間に入れても、直接仕入れたときより利益は減るものの売れれば利益が出る訳であるので、自分に心の安らぎを与えてくれる同被告人にそれ位のことをしても差し支えあるまいと判断し、自己を頼りにしている同被告人の商売が順調に伸びていくよう援助してやろうと考え、被告人竹久の右の依頼を承諾した。

被告人竹久は、それまで香港からアクセサリーの素材を少量輸入したことはあったものの、海外商品の買付業務の経験者というほどのものではなく、またこれを国内において売却する販路も有しておらず、独自で海外商品の買付けや販路の開拓を行うことはできそうもなかったことから、同被告人の抱いていた貿易業務の構想は、三越社員が香港等の海外において選定した商品を新しく設立する会社がインポーターとなって輸入し、それを全品三越に納入し買い取って貰うといういわば後の準直方式と同様の全くリスクのない取引形態を内容としていた。

2 三越社内会議における被告人竹久の依頼と被告人岡田の指示について

被告人岡田は、昭和四七年二月ころ本店長室隣の応接間で、当時の取締役本店次長兼仕入部長杉田忠義と昼食をとった際、同人に対し、「今度竹久が貿易会社を作って香港から商品を輸入するので口座を作ってやってくれ」と指示し、さらに「これからの三越は直輸入を推進して商品の差別化をしていかなくてはならない。外地で買い付けることが非常に多くなるので、商社にいたずらにコミッションを払わないでそれよりも安く竹久のところを通せば三越もいいのではないか」と述べた。杉田は被告人岡田の話を聞き、三越が香港から商品を輸入するのに形式的に竹久の作る会社を通すというように理解したが、三越の利益を少なくするので納得できることではなかったものの、次期社長に間違いないとして社内で最も権勢のあった岡田の言うことであるので、従わざるを得ないと考え、これを了承した。

次いで同年二月ないし三月ころ、被告人岡田は、本店内において同被告人を中心として、右杉田忠義、本店販売促進部販売企画部長宮崎喜三郎、仕入部総合企画部長兼商品開発室長増田昌弘、本店雑貨部長井上和雄、仕入部雑貨部長岡部明らが出席して開かれた雑貨関係の販売促進に関する会議の終了間際、被告人竹久を入室させ、会議に出席していた右三越幹部社員らに対し、「今度新しい会社を作って香港から商品を取り入れますので、どうぞよろしくお願いします」などと挨拶させ、同被告人が退出した直後、さらに被告人岡田が、会議出席者に対し、「今度あれが新しい会社を作って貿易の仕事をするので育ててやってくれ。三越に入る輸入品はこの会社を通してやってくれないか」などと言って被告人竹久の新事業を援助するよう要請した。右杉田をはじめ宮崎、増田ら出席者は皆これを聞き、被告人竹久が被告人岡田の愛人であることや被告人竹久に輸入業務の経験が無いことを知悉していたことから、被告人岡田の意図を、三越が海外から輸入する商品の一部を形式的に被告人竹久の設立する会社を経由させ、同被告人の利益のためにいわば眠り口銭を稼がせようとしているものと理解したが、もとよりこれに異議を唱える者は誰もいなかった。

3 オリエント交易の設立と取引口座の開設、外国為替取引に対する三越の保証

被告人竹久は、こうして輸入業務を始めるにつき被告人岡田の支援・協力を取り付けるとともに、アクセサリーたけひさの社員篭橋正好に対しオリエント交易という貿易会社を作ることを話し、代表取締役には、前年週刊誌で被告人両名の愛人関係のことが取り沙汰されたことがあったので、右篭橋を形式的に就任させることとし、昭和四七年三月三〇日付でオリエント交易を設立した。

オリエント交易の三越に対する取引口座の開設申請書は、被告人岡田が社長に就任した当日の同年四月一二日提出されたが、岡田の社長就任と同時に本店長兼仕入部長に就任していた杉田忠義は前記のとおり指示をうけていたため、通常三越で行う口座開設のための信用調査等の諸手続きを省略して直ちに決裁し、申請してわずか四日後にオリエント交易の取引口座の開設は許可された。

オリエント交易は同年夏ころから輸入商品の取り入れを始め、取扱商品が次第に増えてきたため、翌四八年六月ころ、外国為替取引契約を結んでいた銀行を従来の三菱銀行から三越と関係の深い三井銀行に変えることとしたが、オリエント交易が、三井銀行東京支店との間で契約を結ぶにあたって、被告人岡田はみずから三越社長という資格で右契約の保証をするつもりでいたところ、社長室長宮崎喜三郎から、これまで三越では取引先の銀行保証をした例がなく、スキャンダルの種にもなるので岡田の名前を使うことは避けるべきであるとの進言をうけたため、常務取締役で代表権を有していた杉田忠義に対し契約の締結と保証を指示し、これを受けて同人は被告人竹久とともに同支店に赴き、オリエント交易が輸入する商品はすべて三越で買い取ることになっている旨強調して同社の外国為替取引を依頼した結果、同月一五日付で銀行取引契約及び外国為替取引契約が結ばれ、その際杉田が三越の代表者として保証人欄に署名することによって三越が異例の保証をすることとなった。

(四) いわゆる竹久絡み輸入方式の成立過程

① 準直方式について

1 オリエント交易の初期取引と三越の在庫の増加

前記の経緯を経てオリエント交易が設立され、その取引口座が開設されると、その後昭和四七年六月ころから翌四八年一〇月ころにかけて、三越仕入部雑貨部長岡部明及び同部主任星野博が被告人竹久あるいはオリエント交易社員柳田礼司郎を同道して香港に赴き、香港三越支配人吉田晃一及び被告人竹久の知人でベンダー(万達洋行)という商社を営む陳谷峰とともに香港・マカオで生産されたビーズバッグ等の雑貨品の買付を行い、これらの商品はオリエント交易をインポーターとして輸入され三越へ納入された。

ところが、右ビーズバッグ等の買付の過程で、被告人岡田が被告人竹久から「第一回目に買付けたビーズバッグが全部売れたので、三越の人と二回目の買付けに行ったのにあまり沢山買付けて貰えなかった」などと愚痴のような話しを聞かされたため、買付担当者である星野博に対し、「売れるものは思い切って大量に買付けなければだめじゃないか」と注意したこともあって、その後のビーズバッグ等について三越の販売能力をはるかに上回る大量の買付が行われ、その結果三越におびただしい数の在庫を発生させ、三越ではこれらの香港商品を保管するのに自社の東雲商品センターではまかないきれず、新たに日本国際輸送に保管を委託して収納せざるを得ない事態になり、さらにはこれら香港商品の在庫処理のため、右星野をして全国提携店を回らせ売込みをさせたり、バーゲンセールでの大量販売、三越社員の非常自衛部隊用備品への転用、社員に対する慰労品としての配布等種々の対策が講じられたが、最終的には昭和四九年五月井上和雄が仕入部雑貨部長に就任後、いわゆるバッタ屋に売却して処理するに至った。

2 オリエント交易に対する三越社内の不満及びマスコミによる批判

三越の従来の仕入方法を無視して納入され大量の在庫を発生させたオリエント交易の香港雑貨に対する仕入部社員の不満は大きく、またその在庫処理のため三越のイメージや他の売場を犠牲にしてまで行った販売方法は、売場担当社員の反発を生み、しかもオリエント交易が被告人岡田の愛人である被告人竹久経営の会社であることが知れ渡っていたことから、三越社員の間において同社に対する批判は高まる一方であった。右の状況を受けて、本店長兼仕入部長の杉田忠義は、被告人岡田の売場巡視等の機会をとらえて何度か同被告人に対しオリエント交易をはずしたほうがよいのでは、と進言したが聞き入れてもらえず、かえって販売促進が足りない、もっと新しい販売を考えたらどうだと叱責を受けるばかりであった。さらに、昭和四八年一〇月に開かれた取締役会終了後の午餐会の席上、長老格の取締役瀬長良直が被告人岡田に対し、被告人竹久との愛人関係やオリエント交易に言及して被告人岡田を激しく非難し退陣を迫るということもあった。

こうした三越社内の動きに対応するように、昭和四八年半ばころから、被告人両名の愛人関係及びオリエント交易に関する問題を取り上げあるいは攻撃する各種マスコミやブラックジャーナル(財界展望、国会タイムス、怪文書、週刊新潮等)が現れた。被告人岡田は、右「国会タイムス」が同年一二月初旬に予定されていた自己の出版記念パーティの会場入口で出席者に配布されるという情報を得るや、自ら国会タイムス側と交渉して印刷済の五〇〇〇部を総額一〇〇〇万円で買取り、買収資金のうち八〇〇万円を三越社費から捻出させた。この国会タイムスは、外国為替取引についての三越の保証、オリエント交易の買付の実態、三越仕入価額の二割高騰、香港商品の在庫額等三越部内からの資料提供に基づくとみられる極めて詳細な記事を掲載したものであったが、これを見た被告人岡田は、仕入価額の点に関して社長室長宮崎喜三郎らに対し、「二割位当たり前じゃないか、商社から仕入れば三割だ、だから俺は実質一割儲けさせている」などと述べた。

3 オリエント交易の取引口座の廃止と準直方式の成立

杉田忠義は、前記国会タイムスその他によりオリエント交易の外国為替取引に対する三越の保証問題が取り上げられたため、昭和四八年一二月中旬ころ仕入部次長の増田昌弘をして右保証を取り消させた。そして三越社内外の批判にかんがみ、この際オリエント交易及びアクセサリーたけひさの口座を廃止したほうが三越や被告人岡田のためにもよいと考えたが、同被告人にいくら進言しても受け入れられそうにもなかったため、取引口座の廃止を既定事実のようにして話すこととし、同下旬ころ退社途中の廊下で被告人岡田に対し、「オリエント交易とアクセサリーたけひさの取引口座を廃止しますよ」と告げたところ、同被告人は「やるんならやればいいじゃないか」と半ば威嚇的な口調で答えた。そこで杉田は意を決してすぐ増田次長を呼び直ちに両口座の廃止を指示し廃止届に押印して手続きを進めた。

他方、社長室長の宮崎喜三郎は、国会タイムスの件のあと被告人竹久に会った際、同被告人にその記事を示して事態を説明し「今後オリエント交易の商売の仕方、納入商品の数量についてもよくご勘案いただきたい」と頼む一方、杉田と同様、オリエント交易の問題をこのまま放置しておけば、三越の信用に重大な影響が出るばかりか岡田社長の命取りにもなりかねないと憂慮し、同月下旬ころ社長室で被告人岡田に対し、三度にわたり、「被告人竹久がオリエント交易とアクセサリーたけひさの二つの取引口座を持っていることが問題であるので是非考えていただきたい」と強く懇願したところ、被告人岡田は当初宮崎の言に全く耳を貸さず激怒するばかりであったが、三度目にいたって急に態度を軟化させ、「やり方はいくらでもある、お前に心配して貰うことはない、同じことなんだから」、「オリエント交易なんか通す必要はない、たけひさを通せば実質的には同じなんだ」などと言って、オリエント交易の口座を廃止することに同意するとともに、今まで同社の口座を通していた商品をアクセサリーたけひさの口座を通して三越に納入する方法を採るべきことを指示した。そこで宮崎は、翌日被告人竹久を三越に招き、今度社長の指示によりオリエント交易の口座を廃止してアクセサリーたけひさの口座一本に切り替える旨伝えたところ、同被告人は、被告人岡田からオリエント交易の口座を閉めろ、オリエント交易を一時やめておけと言われていたこともあって素直にこれを了承した。そして、ちょうどそのころ宮崎は、増田仕入部次長から杉田がオリエント交易とアクセサリーたけひさの両取引口座を廃止する方針であることを聞き、深夜杉田の自宅に電話し、被告人岡田との折衝の経緯と同被告人の意向を話し、オリエント交易の口座を廃止してアクセサリーたけひさの口座を残すことで同人の了解を得た。前記のとおり両取引口座の廃止手続を履践しようとしていた杉田は、急遽アクセサリーたけひさの口座の廃止を中止し、オリエント交易の口座についてのみ廃止手続を了した(なお、被告人竹久は、オリエント交易がマスコミ等より取り上げられたため日本シーラント株式会社の代表者に依頼し、昭和四八年九月二〇日三越に同社の臨時取引口座を開設し、オリエント交易が輸入した商品の一部につき同口座を通して三越に納入したこともあったが、この事実も国会タイムス等で暴露されたため、オリエント交易の口座廃止と同時に右口座も廃止された)。

こうして、オリエント交易の取引口座はマスコミ等の批判をかわすため廃止されたが、同社の輸入業務にはなんら影響せず、引き続き被告人竹久に利益を与えんとする被告人岡田の指示に基づき、以後三越との取引形態は同社の輸入した商品がすべてアクセサリーたけひさの取引口座を経由して三越に納入されるという方法に移行したものであり、ここに、後に三越社内において「準直方式」と呼ばれるようになった仕入方式が成立するに至った。

4 準直商品の買付と三越社内における取扱い

準直方式とは、「準直輸入方式」の略称で、前記のとおり、オリエント交易が輸入した商品がアクセサリーたけひさに転売されたうえ三越に納入されるという取引形態をいい、三越にとって、この方式により取入れる外国商品が、以下のとおり買付手続あるいは社内における取扱い等仕入の実態において三越の直輸入商品と同一であったため、この呼称が用いられるようになったものである。(なお、この方式により買い付けられた商品を準直商品という)

(1) 準直商品の買付手続

三越における海外商品の買付けにあたっては、一般的には、仕入本部の各商品担当部(婦人用品部・紳士用品部・雑貨部・貴金属部等)において年間の取入計画に基づき具体的な買付計画を立て、各部所属の社員が買付担当者(バイヤー)として海外に出張し、三越の海外基地勤務の出向社員の案内・通訳等の協力(アテンド)を受けて、メーカーあるいは商品展示会場等に赴き、買付商品の選定、メーカーとの価格・船積時期等に関する交渉をしたうえで発注手続を行っていたものであり、他方海外基地では、バイヤー出張時のアテンド業務のほか、日常の商品開発、商品情報の収集及び買付時のバイヤーのスケジュールの作成、メーカーとの価格・買付日時等の事前折衝等の買い付け準備行為並びに発注後の商品デリバリーについての連絡業務を行っていたものであり、準直商品についても、インポーターがオリエント交易になることと三越への商品納入がアクセサリーたけひさを経由して行われていたことを除けば、その買付手続きは三越の直輸入商品と同じであった。

(2) 準直商品の三越社内における取扱い

三越における商品納入の方式には、直納方式と正味仕入方式があり、前者は、納入業者において値札付等を行ったうえ、商品が三越各店に直接納入され直ちに販売に供される方式であって、国内の問屋・メーカーからの仕入商品についてはこの方式が採られており、後者は、納入商品が三越の倉庫に搬入・保管され、その後適宜三越において値札付等を行ったうえ各店へ店出しがなされる方式であって、三越の直輸入商品についてはこの方式が採られ、国内仕入商品で正味仕入となるものは特定催事用商品等三越で保管を要する特殊商品に限られていたところ、このように、三越では外国商品を国内業者からいわゆる円買いで仕入れるときは原則的に直納方式によっていたにもかかわらず、準直商品についてはその大部分が三越直輸入商品と同様正味商品として納入されていた。さらに、三越では国内取引業者から仕入れる場合、委託販売方式や売上計算方式が活用され、また買取方式のときでも事実上返品の出来る扱いがとられており、できるだけ在庫負担のかからない工夫がなされていたが、準直商品の場合には、全品につき三越直輸入商品と同様いわゆる完全買取制が採られ、従って商品に対する危険負担をすべて三越が負い、その反面オリエント交易及びアクセサリーたけひさとしては、商品を輸入すればするだけ利益の上がるようになっていたものである(なお、準直商品のごく一部について返品とか再納が存在し外形上差損の発生しているものがあるが、その分は別途他の新規商品の納入金額等に上乗せして補い、結局アクセサリーたけひさに損失を与えない方法が講ぜられていた)。なお、準直方式は、三越の直輸入商品を形式上オリエント交易がインポーターとなって輸入し、輸入原価に対し概ね五パーセントの利益を乗せてアクセサリーたけひさに転売し、同社はオリエント交易からの仕入価格に対し、概ね一五パーセントの利益を乗せて三越に納入する仕組みとなっていた。

② 香港コミッション方式について

1 オリエント交易の取引口座廃止後の状況

前記のとおり、オリエント交易の取引口座は廃止されたが、その後も「岡田茂を告発する会」名義の怪文書が三越の役付社員宛に送付されたり、昭和四九年二月二一日号の週刊新潮誌上に被告人らの関係やオリエント交易に関する記事が掲載され、また前記瀬長良直取締役が社長室に来て被告人岡田に対し再び激しく被告人竹久との関係を詰問するという事態も生じた。そこで被告人岡田は、この状況に対応し、社長室長宮崎喜三郎を派遣して右瀬長と和解したり、役付社員を集めて動揺の無いよう訓示し、さらに同年三月末ころ開催された支店長会議において、怪文書や週刊誌の記事などに惑わされず、一致団結して経営に当たろうとの呼び掛けをするとともに、会議に出席した幹部社員を一人一人別室に呼び付け、自ら作成して用意した「岡田社長を中心に結束して経営に当たる」旨誓約した書面を読ませて署名・押印させるなどした。

2 香港コミッション方式の成立

(1) 香港三越支配人に対する指示

被告人岡田は、こうして社内の鎮静化に務める一方、当時オリエント交易の取扱商品の大部分を占めていた香港からの輸入商品について、オリエント交易をできるだけ取引の表面に出さないようにして社内外の批判をかわそうと考え、前記支店長会議に出席するため帰国していた香港三越支配人奥山清秀に対し、「香港から日本に入る商品についていろいろうるさいようだが、三越の物を三越が仕入れるのに何が悪いんだ、今後いずれにしてもすっきりした方針でやるようにする」と述べて、香港からの商品輸入ルートを変更して、コミッション方式とするよう伝えた。奥山は被告人岡田の発言内容から、その意図は、香港商品を直接シッパーから三越に納入するとともにメーカーに頼んで被告人竹久のコミッションを確保すべき趣旨であると理解し、その後香港を訪れた被告人竹久と協議した結果、従来のオリエント交易を経由する方法に代えて、香港商品を三越が直接インポーターとなって輸入し、その輸入代金の中に被告人竹久のコミッションを上乗せしたうえ、右コミッションを香港において同被告人にバックするという方法をできるだけ取り入れることを決め、このコミッションの保管を前記陳谷峰に当たらせることになった。そしてその後バンバンのジーンズ等がこの方式で輸入されることになったが、もともと香港を中心とした東南アジアの商品は単価の安い価格訴求商品が多く、オリエント交易とアクセサリーたけひさの双方にマージンを落とすのが難しかったこともあって、この方式による商品が急速に多くなり、その反面オリエント交易をインポーターとする準直商品は少なくなっていった。

なお、被告人竹久は、この方式によるコミッションがいわゆる裏コミッションであるうえ、古くからの取引上の友人で信頼の置ける陳谷峰が保管してくれていること、また香港からの輸入を個人経営の時代からの延長のように考えていたこともあって、これをオリエント交易の収入とせず自己に帰属させていたものである。

(2) 香港コミッションに対するその後の被告人岡田の対応

被告人岡田の意向に基づく香港コミッション方式が実行に移されて間もない昭和五〇年五月ころ、東京国税局の税務調査が香港三越に対し実施された際、同被告人は、香港に保管されている被告人竹久のコミッションが把握されることを懸念し、総務本部長宮崎喜三郎に対し、「あいつが香港で国税に引っ掛かっているらしい、すぐ経理の内田を派遣してうまく処理しろ」と命じ、宮崎の指示を受けた経理部長内田春樹は、出発前に被告人竹久に連絡し、同被告人から香港で陳に会って書類が出ないようによく頼んでくださいといわれ、香港に赴き同人に会い被告人竹久の右伝言を伝えた。香港三越に対する税務調査では被告人竹久のコミッションは結局捕捉されず、内田は帰国後被告人両名に税務調査が無事終了したことを報告した。

その後被告人竹久が白金台の自宅に移って間もなくの昭和五一年ころ、同所に立寄った被告人岡田は、竹久絡み輸入方式が二人の話題になった際、被告人竹久に対し、「あまり目立たないようにしろよ、できるだけコミッションで仕事をするようにしろ」と注意を与えた。

3 香港コミッション方式の内容

香港コミッション方式は、右のとおり、準直方式と同様、被告人竹久が愛人関係にある被告人岡田により三越から利益を得ているとのマスコミ等による批判を回避しつつ、被告人竹久の利益を確保しようという被告人両名の意図から実現したものである。そしてこの方式の場合においても、商品の買付けにあたっては、三越仕入部の各商品担当部社員がバイヤーとして香港・東南アジア地域に出張し、香港三越社員のアテンドを受けて買付業務を行い、香港三越において買付準備行為やデリバリー業務等を行うことは準直方式の場合と同様である。

そして、被告人竹久の取得していたコミッションは、輸出金額の二パーセントないし五パーセントとなっており、これが輸出金額に上乗せされ、インポーターである三越の負担で支払われていたものであるが、このコミッションの香港における授受・保管の態様はおよそ次のとおりであった。

(1) コミッションの支払方法

被告人竹久に対する香港コミッションの支払い方法としては、これを大別すると、輸入代金の決済方法の違いに対応して、香港のメーカー・サプライヤーから支払われる場合と香港三越から支払われる場合があった。前者は、香港のメーカー・サプライヤーから商品を買付ける場合であって、サプライヤー等はシッパーとして商品を直接三越に輸出するとともに、商品代金額(インボイス金額)中に被告人竹久(及び香港三越)のコミッションを上乗せして三越に請求し、三越からコミッションの含まれた右代金額の支払いを受けたのち、被告人竹久(及び香港三越)にそのコミッションを支払うというものである(なお香港三越のコミッションのみは昭和五七年二月以降商品代金に上乗せされず三越から直接支払われるようになった)。後者は、香港以外の東南アジアの国から商品を買付ける場合で、商品は直接サプライヤー等から三越に送付されるが、代金決済には香港三越が介在し、香港三越が三越から被告人竹久(及び香港三越)のコミッションを含めた代金額の支払いを受けたのち、サプライヤー等に代金額を支払うとともに被告人竹久にコミッションを支払うというものである(このほか両者の混合型として、香港以外の国から買付ける場合、商品の送付及び代金の決済は三越とサプライヤー間で行われるが、コミッションは三越から香港三越へ支払われるものもあった)。

(2) コミッションの受領・保管

香港三越ないしメーカー・サプライヤーからの被告人竹久に対するコミッションの支払いは、通常、小切手によりなされ、被告人竹久は右小切手の受皿(名宛人)として、初期のころは陳谷峰の経営する万達洋行(ベンダー)を、次いでコミッションを管理するため設立した宝達実業公司(パゴダ)を、昭和五四年ころから個人名のライエンサンを、昭和五六年ころから美興公司(メイヒン)を用いていた。そして、これらのコミッションの保管・管理には主として前記陳谷峰があたり、コミッションが香港三越から支払われる場合は香港三越の社員が陳に小切手を届け、コミッションがメーカー等から支払われる場合は香港三越社員がメーカー等から小切手を受取って陳に届け(なお陳と被告人竹久が共に受取るコミッションの場合は陳が集金)ていたものであり、メイヒン設立後は被告人竹久のコミッション管理のため香港に派遣されたオリエント交易社員大原明等が小切手を受領していた。

③ ヨーロッパ商品に関するコミッション方式について

竹久絡み輸入方式としては、本件起訴の対象となっている右の準直方式及び香港コミッション方式のほか、ヨーロッパ各国の商品を三越が直輸入するにあたり、香港コミッション方式と同様、オリエント交易が三越負担のコミッションをヨーロッパにおける三越の各基地あるいはメーカー・サプライヤーを経由して取得する方式が存在していた。オリエント交易のヨーロッパ商品の輸入は、被告人岡田の基本的経営戦略となっていた商品差別化のための欧米高級商品直輸入の推進及びこれを支える海外基地の充実・強化にともない、年々増加していったが、これら商品の輸入ルートは、オリエント交易設立後昭和五三、四年ころまでは、海外基地をシッパーとしオリエント交易、アクセサリーたけひさを経由して三越へ納入する準直方式が大半を占めており、その中で例外的に、オリエント交易は、ロンドン三越取扱いのマッピン・アンド・ウエッブ(契約昭和四八年六月)、ローマ三越取扱いのバルトロメイ(同昭和五三年六月)、パリ三越取扱いのショーメイ(同昭和五三年六月)、セルッティ(同昭和五三年秋ころ)等の個別ブランド商品について、当時の様々な事情からメーカーと代理店契約を結びコミッションを取得していたに過ぎなかった。

ところが、準直方式の定着化とオリエント交易の輸入商品の増加にともない、アクセサリーたけひさの三越に対する納入額が急増し、前記のとおり、昭和五三年度前後から三越納入業者の中で上位にランクされるまでになっていたが、それと並行して準直商品を中心とした三越の直輸入商品仕入の増加は、直輸入商品在庫の急速な増加をもたらし、三越経営上の重要な問題として認識される状況となり、三越の労働組合もこれを問題視するなど、竹久絡み輸入方式に対する批判が再び表面化しようとする事態になっていた。

こうした状況を懸念した被告人岡田は、被告人竹久の関与するオリエント交易やアクセサリーたけひさを取引の表面に出さないようにして、できるだけ竹久絡み輸入方式に対する批判を和らげようと考え、ヨーロッパ商品についても香港商品と同様、準直方式からコミッション方式に切り替えることにした。そして、昭和五四年九月ころ開催された報告会(常務会)において、取締役仕入本部長の斎藤親平に対し、オリエント交易の輸入商品を順次コミッション方式に切り替えていくよう指示した。その結果、パリ三越においては、タングチェリー、ポール・ルイ・オリエ等の数メーカーの商品について、セルッティ等と同様のコミッション方式(シッパーは基地であるが、コミッションはメーカーからオリエント交易へ支払う)に切り替えられ、イタリア三越においては、既に三越のプライベートブランド婦人服カトリーヌの生地買付に関してとられていたコミッション方式(シッパーである基地からオリエント交易へコミッションを支払う)が買付商品の一部に拡大適用された。さらに昭和五五年秋ころ、被告人岡田はパリ三越副支配人天野治郎に対し、メーカーをシッパーとして商品を三越に輸出しメーカーからオリエント交易へコミッションを支払う方式及びコミッション方式に切り替えられない商品について準直方式を維持する場合でもメーカーをシッパーとするL/C・Dベースと称される方式を示唆し、オリエント交易においても社員の柳田満を昭和五六年末ころヨーロッパの各基地に派遣して要請した結果、その後ヨーロッパの各基地の取扱う商品については順次これらの方式への切り替えがなされていった。

(五) 被告人岡田の直輸入拡大戦略と準直方式等の拡大

被告人岡田が取締役本店次長兼宣伝部長時代の昭和四一年九月、その立案・主導に基づき三越本店で大々的に開催された大ナポレオン展では、同被告人は展示会で販売する商品の買付団の団長として自らフランスに赴き、フランス商品を多量に買付けこれを直輸入して展示即売したところ、ほとんど売り尽くすなど販売面でも大成功を収めた。当時三越では、昭和二八年ころから外国商品を直輸入するため、通関事務・輸入代金決済事務等輸入関係の業務を担当する専門の部署が設けられていたが、そのころ直輸入される商品は散発的で種類・量も少なく、三越の販売する外国商品の大半は国内業者からのいわゆる円買いで仕入れたものであり、右の大ナポレオン展におけるフランス商品の買付けは三越にとって本格的な直輸入の走りというべきものであった。三越ではその後大ネルソン展を開催するなど英仏を中心とした展示会と商品フェアーを組み合わせた外国展を本店及び一部支店で毎年展開するようになり、それにともない外国商品の直輸入も次第に定着、本格化していったが、こうした文化催事を利用して外国商品を販売する手法は、被告人岡田の商法の特徴の一つであって、社長就任後の三年間を取り上げてみても、昭和四九年一〇月「セーヌの流れとパリ物語展」及びフランス展(商品フェアー)、昭和五〇年四、五月「エリザベス女王来日歓迎英国歴代女王展」及び英国商品フェアー、昭和五一年四、五月「ローマ三越一周年記念大ポンペイ展」及びフランス・イタリア商品フェアー、同年一〇月「南仏美術館めぐり展」及び大フランス商品フェアー、昭和五二年四、五月「フローレンス展」及びイタリア商品フェアー、同年一〇月「英王室名城離宮展・英王室美術院展」及び英国商品フェアー、昭和五三年五月「古代シシリー展」及び大イタリアフェアー等が順次開催されており、これらはいずれも大ナポレオン展の成功を契機として被告人岡田の持論となった直輸入推進の一方策であった。

ところで、小売業界では、昭和三〇年代からダイエー、西友、イトーヨーカ堂等のスーパーチェーンが全国に大型店舗を持つようになり、これら量販店は従来の食料品販売中心からファッション衣料、家具、日用品等にまで販売対象を拡大してフルライン店舗の総合スーパーに成長するとともに、昭和四〇年代半ばころからは国内の有名ブランドアパレル商品をも取扱うようになって次第に百貨店化し、他方高級品の分野では専門店の登場を見るに至った。被告人岡田は、こうした状況に対し、三越が一流の百貨店として生き残るためには他の百貨店あるいは大型スーパー店、専門店にない特徴のある商品すなわち差別化された商品を積極的に販売していくほかはないと考え、この商品差別化を実行するための具体的方策として、海外魅力商品の輸入の拡大、三越オリジナル商品の開発、日常生活に役立つ優れた商品の取揃えを三本の柱とし、専務取締役に就任した昭和四六年ころから、商品差別化政策を打ち出し強力に推し進めることになった。既に大ナポレオン展を始めとする外国展で商品の直輸入を実行し成果を上げていた同被告人は、右方策の中で海外魅力商品の輸入拡大に最も力を注ぎ、そのためにはヨーロッパから高級ブランド商品を輸入し、他方において香港を中心とした東南アジア諸地域から価格の低廉な商品を輸入して販売することとし、前記のとおり昭和四六年五月にはパリ三越を、同年一一月には香港駐在員事務所をそれぞれ設立して着々と直輸入の準備を整え、社長就任後は三越愛護会に岡田基金を設けて社員の海外研修を構想し、初めて迎えた年頭(昭和四八年)の挨拶において、海外の仕入網・情報網の一層の拡充・強化と世界各国からの活発な商品輸入を強調するとともに、その後ロンドン三越、ローマ三越、ドイツ三越等の海外基地を次々開設し直輸入体制を整備、強化していった。他方、販売体制の面においても、被告人岡田の右の方針のもとに、昭和四九年末本店六階に輸入特選売場が新設され、ヴァレンチノ、マッピン、カルティエ等の一〇のブティックと六つのサロンが誕生し、次いで昭和五〇年六月ころ本店一階に輸入特選サロンが開設され、セリーヌ、エルメス、ジバンシー等八つのブランド商品が陳列され、同年秋には本店三階に後に三越のプライベートブランド商品になったオスカー・デ・ラレンタのショップが設けられるなどショップインションプの充実が図られ、その後においても売場面積及び取扱商品は拡大し、数ブランド商品は全国主要支店でも販売展開されるようになった。

その後昭和五三年後半から、消費の一巡化、経済低迷下の買い控え傾向等によりヨローッパの高額商品の売れ行きが鈍り、加えて三越が国内並行輸入業者から仕入れて販売していたエルメス、グッチの商品が偽物であると新聞等で大きく報道され三越の高級商品のイメージダウンにつながったことなどから、被告人岡田は、直輸入戦略としてヨーロッパの高級ブランド商品のみを重視することなく、香港その他の東南アジアの国々の値段のこなれた宝石・毛皮やいわゆる価格訴求商品を大量に輸入して売上を伸ばすことを考え、以後この方針のもとに強力にこれら商品の輸入拡大を実行していった。

竹久絡み輸入方式は、前述したとおり、三越の輸入量が増えれば増えるだけ被告人竹久あるいはその経営するオリエント交易及びアクセサリーたけひさの利益が上がる仕組みになっていたものであり、被告人竹久は、被告人岡田のこうした直輸入戦略に巧みに便乗し、同被告人の強い後ろ盾を背景に、年々取扱量を拡大させていったのであって、被告人岡田の直輸入戦略と竹久絡み輸入方式はまさに被告人両名の関係の如く相即不離・一体不可分の関係にあったということができる。

(六) 竹久人事による右方式の維持・拡大

1 三越の人事管理と竹久人事

三越の直輸入業務を利用して行った竹久絡み輸入方式の実現にあたっては、被告人両名のみならず、三越の多くの社員が組織的に関与していたことはいうまでもなく、実質的にはこれら社員の行動によって右方式が支えられていたといってよいが、被告人岡田の指示に基づくとはいえ、三越の社員が右方式の拡大・発展に関与し、また前述のとおり被告人竹久に対しその意向に逆らえないほどの権力を容認したのも、もとはといえば三越の最高権力者である被告人岡田の社員に対する人事権の存在とその具体的な行使による影響のためであったことは明白である。すなわち、三越の主任以上の人事管理は、本社総務本部(昭和四九年以前は総務部)が所管し、各店長あるいは本部長等からの人事異動に関する申請や総務本部で独自に収集した人事関係の資料を基礎にして、社内の人員配置、社員の年功・適性・能力等種々の要素を総合勘案し、長期的展望に立った人事異動案を作成し、社長の決裁を受けて発令される仕組みになっていたところ、オリエント交易の輸入業務が軌道に乗り本格化し始めた昭和四九年前後から、竹久絡み輸入方式に関する部門、例えば仕入本部の幹部人事、あるいは商品担当部のうち婦人用品、紳士用品、輸入特選、貴金属、雑貨等の各部門の幹部人事、さらには三越の海外基地社員の人事などについては、総務本部の人事案を待つことなく、直接被告人岡田からの指示で人事異動が実施されることがしばしば生じ、しかもその内容が、竹久絡み輸入方式の維持・拡大に批判的、消極的な社員を左遷、転出させるなどして遠ざけ、反対にこの方式に積極的、協力的な社員を集めて優遇・抜擢するなど被告人竹久の利益確保に好都合な方向のものであったことから、三越社員は一様にこれら人事に被告人竹久が何らかの形で関与しているものと考え、社内においては竹久人事なる言葉が定着するとともに、右人事の有り様は被告人竹久及び竹久絡み輸入方式に対する社員の意識・行動に強く影響を与えることとなった。

2 竹久人事の内容

被告人岡田の腹心として昭和四九年以来七年にわたり総務部長ないし総務本部長として三越社員の人事管理に携わってきた宮崎喜三郎の経験に基づき、右竹久人事の具体的な例のいくつかを、本件犯行の始まる昭和五三年ころまでに限って示すと次のとおりである。

(1) 遠ざける人事

(イ) 廣田宏二(昭和四八年一〇月仕入部雑貨主任から横浜店ヤング部副部長へ異動)

同人はオリエント交易の輸入する香港商品の取入れに強く反対していたところ、被告人岡田は社長室長の宮崎に対し「廣田はやたらに部長に盾突いてばかりいる、ああいうやつはこの際横浜のヤング部の副部長で出しておけ」と指示。

(ロ) 寺田正明(昭和四九年一月本店雑貨部長から紳士用品部長へ異動、次いで同年九月仙台支店紳士用品部長へ異動)

当時香港雑貨の在庫が多く反竹久ムードの強かった雑貨部を押さえ切れず、かつ香港雑貨の販売が芳しくなかったことから、被告人岡田は宮崎に対し「寺田の野郎しっかりやっているのか、あいつは統率力がない、もとの紳士用品部へ戻してやったほうが本人のためだ」、「寺田は売場でただ立っているだけだ、この際仙台支店へ出しちゃえ」と指示。

(ハ) 市原晃(昭和五二年四月常務取締役仕入本部長から非常勤取締役オリエンタル中村百貨店社長へ転出)

同人は常々被告人竹久が三越の商品輸入に便乗して利益を得ていることに批判的で、竹久絡み商品の買付けを制限しアクセサリーたけひさから雑貨部への納入を停止しようとしたこともあったところ、被告人岡田は総務本部長宮崎に対し「市原はセンスが古い、近代的な仕入には向かない、あいつは問屋が持ってくる品物をただ買ってくるだけだ、オリエンタル中村にいってもらう」と指示。

(ニ) 三輪達昌(昭和五二年四月本社仕入本部貴金属部長から横浜支店次長へ異動)

同人は貴金属部の在庫が多いため竹久絡み商品のダイヤモントの買付に消極的であったところ、被告人岡田は宮崎に対し「香港商品なんか安いものなんだ、くずダイヤなんかスコップですくうほどに買うほどの肝っ玉がなきゃ商売人じゃない、横浜へ出して実地で勉強したほうがいいだろう」と指示。

(ホ) 岩倉俊介(昭和五三年七月ローマ三越支配人代理から本店輸入特選部課長へ異動)

同人はバルトロメイの独占販売権を獲得するにあたり、準直方式にせずコミッション方式にしたため被告人竹久の機嫌を損じたことから、被告人岡田は宮崎に対し「岩倉というやつはくずだ、腹芸ひとつできない、あいつはこっちにいるときのようなつもりでやってやがる、元の部署に呼び帰せ」と指示。

(ヘ) 二宮孝治(昭和五三年五月新宿支店呉服部長から本社仕入京都仕入副部長へ異動)

同人はオリエント交易の仕入れは正当でないと批判したことから、被告人岡田は宮崎に対し「あいつはだめだ、センスが古い、何だかんだと平素がたがた言っているらしい、この際京都仕入へ派遣して勉強し直しさせろ」と指示。

(ト) 岡部明(昭和五三年九月営業開発本部次長から三越インポートプラザ支配人へ異動)

同人は被告人竹久と海外へ出張し帰国する際、同被告人から税関に申告せず持ち帰るよう頼まれた品物が発覚したことがあったところ、同人の妻が社宅で社長を批判して回ったとあらぬ疑いをかけられたことから、被告人岡田は宮崎に対し「岡部の女房がおれのことをとやかく批判しているようだ、少し頭を冷やさせろ、この際インポートプラザに転出させろ」と指示。

(2) 引き立てる人事

(イ) 岡部多佑(昭和五〇年三月本店輸入特選課長から同副部長に昇格)

関根良夫(昭和五一年八月本店輸入特選主任から同課長に昇格)

右両名は竹久絡み商品の中軸をなす売場担当として被告人竹久とよく接触し、その自宅にもしばしば出入りしていた側近グループの一員であったが、総務本部では時期尚早として昇格の考えは全く持っていなかったにもかかわらず、被告人岡田は宮崎に対し「岡部はたいしたもんだ、いいお客を沢山持っている、あいつの売上をみろ、部長売上なんてとても追い付かないぞ、副部長にしてやれ」、「特選の関根はよくやっている、いいお客さんも沢山持っている、すぐ課長にしてやれ」と指示。

(ロ) 天野治郎(昭和五一年一〇月パリ三越副支配人に昇格)

ヨーロッパの中枢仕入基地として機能していたパリ三越で竹久絡み商品を扱い被告人竹久と接触する機会の多かった者であるが、被告人岡田は宮崎に対し「パリの天野というやつが割合優秀だ、この際副支配人に昇格してやれ」と指示。

(ハ) 宇田真(昭和五〇年九月大阪支店婦人用品部長兼輸入特選部長から仕入本部婦人用品副部長へ異動)

武田安民(昭和五二年四月本店家具電器部長代理から仕入本部貴金属部長へ異動)

榎本勝善(昭和五三年九月本店外商部次長から仕入本部次長・海外商品担当へ異動)

被告人岡田は宮崎に対し右三名の異動を直接指示。

(ニ) 松本健太郎(昭和五二年一一月本店次長兼輸入特選部長へ昇格)

同人は本店輸入特選部長として被告人竹久との関係が極めて良好であったところ、被告人岡田は宮崎に対し「輸入特選の売上を拡大するために次長にしよう、輸入特選は非常に重要な部門だから次長に兼務させてもちっともおかしくない、そういう辞令を発令しろ」と指示。

3 人事に関する被告人竹久の言動

右竹久人事は、被告人竹久が被告人岡田の愛人として同被告人と常時接触を共にする中で、同被告人に対し竹久絡み商品を話題に供し、その輸入の推進・拡大を図るため自己に好都合な人事を被告人岡田に求め、同被告人がこれをそのまま受け入れ実行したものであり、このことは、右の具体的な人事の原因となった情報の内容及びその源泉が被告人竹久と深く係わっていることによって窺われるのみならず、次に述べるように、三越社員に対する被告人竹久の人事に関する言動の中にも表われている。

(イ) 松本健太郎の場合

昭和四七年四月パリ三越支配人として赴任した松本健太郎は、昭和四八年秋ころ被告人竹久に対し「三越としてはプレステージを高める意味でも今後ヨーロッパの有名ブランド商品を積極的に扱っていかなければならない」と自己の考えを話し同被告人の強い賛同を得ていたところ、翌四九年三月始めころパリに来た同被告人から「松本さんのような方に早く帰っていただいて仕事をしていただきたい」と言われた後、同月下旬一時帰国した際被告人岡田からも同様のことを言われ、同月二三日付で本店特選部長兼仕入本部総合企画室外国部長兼仕入本部紳士用品副部長に異動を命じられた。また同人は、被告人竹久の要請で昭和四九年秋から始めたミンクマジックとの毛皮の取引を、翌年秋同被告人から突然中止を求められ、同社と交渉したものの難航し告訴問題にまで発展しかかった際、同被告人から「この問題の解決はあなた自身の将来の問題だ、しっかり解決して欲しい」と人事上の不利益を示唆されて半ば脅すように問題解決を迫られた。

(ロ) 関根良夫の場合

香港の宝石がコミッションの対象となり継続的に買付けられ始めた昭和五二年六月ころ、本店輸入特選課長として竹久絡み商品を扱い竹久側近グループの一員であった関根良夫は、被告人竹久の自宅に伺候していた際、同被告人から「香港へ行って仕事をしてみませんか、いい勉強にもなりますし将来のためにもなると思いますよ」と香港行きを強く勧められ、当時三越では海外基地勤務はエリートコースと目されていたため、被告人竹久が自分を取り立ててくれているものと考えその場で承諾の返事をしたが、海外基地勤務の場合にはかなり早い時期に内示がなされるのに、それがないまま約一か月後の同年七月香港三越出向を命じられた。そして、同人は被告人岡田から辞令の交付を受けた際、ダイヤをはじめ宝石をどんどん買付けるよう指示されたが、これまで仕入れの経験がないため仕入本部との意思疎通に不安を感じ被告人竹久にその旨訴えたところ、その一、二日後仕入本部次長の吉田晃一と共に社長室に呼ばれ、同被告人から「お前ははいずり回ってもダイヤの業者を探せ」と命じられる一方、吉田に対しては「仕入れの方は関根をフォローしてやれ」との指示がなされた。

右のとおり被告人両名は、竹久絡み輸入方式が定着した昭和四九年ころから竹久人事を実行することにより、三越社員がサラリーマンとして当然に抱く人事に対する恐怖感と期待感を巧みに繰り、右方式を維持・拡大させ、被告人竹久あるいはアクセサリーたけひさ、オリエント交易の利益を確保してきたのであって、かかる経緯は本件犯行を理解するにあたって無視出来ない重要な背景事情を構成しているものである。

(七) 被告人岡田の指示による右方式の拡大・推進

前記(一)の②で触れたように香港三越、パリ三越等の海外基地の輸出取扱高の急増ぶりは、右のとおり被告人岡田の確固たる経営戦略となった商品差別化のための直輸入政策がその後強力に実行された結果であるが、他方において、準直方式及び香港コミッション方式を中心とした竹久絡み輸入方式も、三越の海外商品輸入システムの中で定着化していったのみならず、年を追って同方式の対象となる商品アイテムを拡大させ、同方式による輸入額、数量をともに増大させていった。これを主要海外基地の例でみると、パリ三越では、竹久絡み商品の全輸出取扱高に占める割合は、昭和五一年度で約一八パーセントであったのが、昭和五三年度で約二九パーセント、昭和五四年度で約四九パーセント、昭和五五年度で約七五パーセント、昭和五六年度で約八六パーセントとなっており、ローマ三越におけるそれは、昭和五一年度で約〇・五パーセント、昭和五二年度で約四・五パーセント、昭和五四年度で約三七パーセント、昭和五五年度で約五九パーセント、昭和五六年度で約七二パーセントとなっており、香港三越においても、昭和五三年度で既に五〇パーセントを超え、昭和五六年度に至っては九〇パーセント近くにまで達していた。

このように、三越の直輸入の推進は、そのまま竹久絡み輸入方式の拡大につながっていたものであるが、この過程において、被告人岡田による右方式を是認・推進する積極的な指示・発言が、竹久絡み商品の拡大に大きな役割を果たしていたことも無視できない。本件犯行に至るころまでの右指示等の代表的なものを指摘すれば次のとおりである。

(イ) 昭和五二年六月に実施された三越主催のヨーロッパツァーにおいて、被告人竹久を伴って渡欧した被告人岡田は、パリ三越副支配人で既にフランス関係商品の竹久絡み輸入方式に関与していた天野治郎に対し、「あいつ(被告人竹久)は女手一つで実によくやっている、ただあいつの会社の従業員はろくな奴がいない、彼女は非常にセンスがいいやつだ、ただ貿易のことについては詳しくない、君は貿易に非常に詳しいんだからいろいろ面倒をみてやってくれ」と述べ、さらに翌五三年六月の同ツァーに際しても、同人に対し、「あいつは三越のために本当によくやっている、それに比べて三越の奴は駄目だ、いろいろと貿易関係のことについて天野君はあいつをよく利用するんだな」と述べ、フランス関係の商品について竹久絡み輸入方式の拡大のための協力を求めた。

(ロ) 被告人岡田は、昭和五三年春ころ仕入本部長井上和雄が同年六月に予定されていたヨーロッパツァーの土産物セットについて報告した際、同人に対し、「仕入本部の海外商品開発力というものは一向に強くなっていない、毎年多勢の買付者が高い経費をかけて出掛けているけれども満足なものが開発されていないんじゃないか、それに比べるとあれは自分の会社の社員を多勢海外にやっていろいろ商品を探している、自分自身も度々海外に出掛けてデザイナーの目でいい商品を開発して三越に入れている、多勢の社員を出せば経費がかかるのは当然だし商売としてもやっているんだから多少手数料とか経費というのは仕方がないんじゃないか」などと竹久絡み輸入方式を正当化する発言を行った。

(ハ) 被告人岡田は、昭和五三年暮ころ総務部本部長宮崎喜三郎に対し、「これから三越直輸入が増えてくる、それでは香港でこれまで商品開発に努力してきたあいつがかわいそうだ、あいつにもバックマージンをいくらか乗せてやることにする、五パーセントくらいなら安いもんだぞ」と述べてその意思を明確にし、さらに翌年一月下旬ころ、同人に対し、「香港の件は井上によく言ってあるんだけれどぐずぐずしてなかなか実現しない、お前から一つ催促してくれ」と言って香港コミッション方式の拡大実行の推進方を指示した。これを受けた宮崎は、井上に対し、香港からの取入れは直の形にして行い竹久にバックマージンを支払う旨の被告人岡田の意思決定を告げて協力を要請した。

(ニ) 昭和五四年初めころ、被告人竹久を伴って香港に赴いた被告人岡田は、ホテルの部屋に香港三越支配人萩原秀彦・関根良夫及び香港滞在中の仕入本部婦人子供用品部長宇田真ら三越バイヤーを集め、「三越のバイヤーは売れ筋商品しか買わない、東南アジアのファッション性の豊かな安い商品を大量に買付けて若い人に売っていかなければならない」と話し、続いて被告人竹久が同じような意見を述べ「私もお手伝いしますからどんどん買付けていくようにしましょうよ」と言ったところ、被告人岡田は皆に向かって被告人竹久からいろいろ教えて貰えと指示し、暗に香港コミッション方式の拡大・推進方を指示した。

第二節罪となるべき事実等

一  直輸入商品関係特別背任事件

(一) 犯行に至る経緯

前記のとおり、昭和四八年一二月下旬のオリエント交易の口座廃止を契機として成立した準直方式は、三越の直輸入商品につき、従前はオリエント交易が形式上インポーターとなって同社から三越へ商品を納入するに過ぎなかったものを、インポーターたるオリエント交易からアクセサリーたけひさに形式上転売され、アクセサリーたけひさの口座により三越に納入されるものであったため、被告人竹久こと小島美知子(以下被告人竹久という)側としてはオリエント交易の売買差益のほかアクセサリーたけひさの売買差益をも取得する反面、三越としては、直輸入商品であるにも拘わらず、右二社の取得する売買差益分だけ高い価格で仕入れなければならなくなった。そして、右売買差益は、被告人竹久の意向により、オリエント交易が現実の仕入価格に対し概ね五パーセントの利益を乗せてアクセサリーたけひさに転売し、同社はさらに概ね一五パーセントの利益を乗せて三越に請求することとなった。

他方、昭和四九年三月ころの被告人岡田の香港三越支配人奥山清秀に対する指示によって成立した香港コミッション方式は、三越の直輸入商品につき、香港三越等の三越に対する輸出金額に被告人竹久に支払うべきコミッション分として二ないし五パーセントの金額が上乗せされて請求される仕組みとなったため、被告人竹久は、香港関係商品について、右コミッション分相当の利益を取得する反面、三越としては、直輸入商品であるにも拘わらず、右コミッション分だけ高い価格で仕入れなければならなくなった。

もとより、三越が直輸入商品を海外で買付けるにあたり、具体的な業務を担当する者は、仕入本部長を頂点とする仕入本部社員らであり、買付商品を準直方式ないしコミッション方式によって仕入れるか否かを決定する者も第一次的にはこれら買付業務を担当する仕入本部社員らであったが、被告人竹久は、被告人岡田の愛人として同被告人の強い後ろ盾を背景に、また同被告人の持論であった直輸入拡大戦略に巧みに便乗し、買付業務を担当する三越社員らに対し、準直方式ないしコミッション方式の対象となる商品の拡大を要求し、同被告人の要求に対し消極的な対応を示した社員や、右のいわゆる竹久絡み輸入方式に批判的な社員については、被告人岡田にその更迭を求め、他方被告人岡田も、被告人竹久の右のような要求を側面から支援し、部下である仕入本部社員らに対し、被告人竹久の要求を社長として容認するかの如き発言をしたり、被告人竹久の要請を取り入れて社長としての人事権を行使し、いわゆる竹久人事なるものを行った。その結果、当初は右竹久絡み輸入方式に批判的だった仕入本部社員らも地位を更迭されて直輸入業務を担当しない部署に転出し、その代わりに直輸入業務を担当することとなった社員らも、保身のため被告人竹久の要求を次第に受け入れるようになり、被告人岡田の三越社内における権力が確立され、社内外の批判も一応鎮静化した昭和五二年ころには、直輸入業務を担当する社員らは、被告人竹久の前記要求を岡田社長の指示と同様のものとして受け止めるようになり、被告人竹久の要求に応じ、多数の商品が準直方式ないし香港コミッション方式の対象商品とされるに至った。

(二) 罪となるべき事実

被告人岡田茂は、東京都中央区日本橋室町一丁目七番地四所在株式会社三越の代表取締役として同会社の業務全般を統括していたもの、被告人竹久は、株式会社アクセサリーたけひさの代表取締役であるとともにオリエント交易株式会社の実質経営者であったものであるが、被告人両名は、共謀のうえ、被告人岡田において三越が商品を仕入れるあたり仕入原価をできる限り廉価にするなど仕入れに伴う無用な支出を避けるべき任務を有していたにもかかわらず、これに背き、

1 アクセサリーたけひさの利益を図る目的をもって、昭和五三年八月ころから同五七年七月ころまでの間、三越が海外で買付けオリエント交易を介して輸入した商品につき、アクセサリーたけひさを経由して仕入れる合理的な理由がないにもかかわらず、これをことさらオリエント交易からアクセサリーたけひさに転売させたうえ三越が仕入れ、これによるアクセサリーたけひさの差益額(アクセサリーたけひさのオリエント交易からの仕入価額と三越への納入価額の差額)合計一五億七七四五万七四六七円(別紙(一)「準直商品差益額の内訳」参照)を含む仕入代金合計一〇九億六四一万八二九七円を、昭和五三年八月二五日ころから同五七年九月六日ころまでの間、東京都中央区日本橋一丁目五番三号所在三菱銀行日本橋支店の三越の当座預金口座から同都港区六本木四丁目九番七号所在同銀行六本木支店のアクセサリーたけひさの当座預金口座に振込入金し、もって三越に対し右一五億七七四五万七四六七円相当の損害を加え

2 被告人竹久の利益を図る目的をもって、昭和五四年四月ころから同五七年二月ころまでの間、三越が香港を中心とする東南アジア地域から商品を買付けるにあたり、同被告人に手数料を支払うべき合理的な理由がないにもかかわらず、香港三越(三越企業有限公司)あるいは香港在住の納入業者らをして、同被告人に支払う手数料名下の金額合計二億六七三一万九三一六円(別紙(二)「香港コミッション額の内訳」参照)を仕入価格等に上乗せして請求させ、右請求金額を昭和五四年五月二三日ころから同五七年九月八日ころまでの間、東京都中央区日本橋本石町一丁目六番三号所在東京銀行本店ほか三井銀行東京支店、富士銀行小舟町支店、第一勧業銀行室町支店及び百十四銀行東京支店の三越の当座預金口座から右香港三越あるいは納入業者らに支払い、もって三越に対し右二億六七三一万九三一六円相当の損害を加え

たものである。

二  自宅改修費関係特別背任事件

(一) 犯行に至る経緯

1 被告人岡田は、三越社長就任後の昭和四七年秋ころ、当時本店庶務部副部長をしていた五十嵐秀を介して当時三越各店舗の内装・改造工事等を請負っていた兼六加工株式会社(以下、「兼六加工」という。)の代表者永瀬昭治に対し、自宅寝室の防寒工事を依頼したのをきっかけに、同四八年一二月ころ温室新築工事、同四九年六月テラス鉄平石工事、同年一〇月洗面・便所工事、同年一一月浴室・洗面・脱衣所工事、同五一年三月離れ入口扉回り工事、同年四月二階倉庫建増工事、同年七月書斎一式工事、同五二年七月応接間内装工事、同年一二月茶の間食堂工事、同五三年六月玄関内装工事、同年一二月正面門工事、同五四年二月別棟二階建内装工事など矢継ぎ早に同人に依頼して、自宅の工事を行わせていたが、その間永瀬の誠実な仕事振りや工事の出来具合に満足する一方で、同五四年末ころの時点で、右の工事代金は実費だけで三四六〇万円に達していたのに、被告人岡田はこのうち七一〇万円しか支払わなかったため、代金未払い額が二七〇〇万円を超えていた。

他方、被告人岡田は、前記五十嵐に指示して、三越の内装工事等を優先的に兼六加工に請負わせる等して来たが、兼六加工は、右工事請負のほか、同五二年ころからはアクリル製の陳列ケース(以下、「兼六ケース」という。)を製作して三越に納入するようになった。

2 被告人岡田は、かねてからリースについて関心を抱き、三越の子会社である株式会社三越ビルサービス(以下、「ビルサービス」という。)に対し、三越の什器・備品をリースで扱うことについて検討させていたが、同五四年一〇月開催の経営企画会議において、兼六ケースを対象として、ビルサービスがこれを買取り、ビルサービスと三越とのリース契約によりこれを納入する方法が採択され、同年一一月からリース料金を標準の三B型ケース一台につき月額二五〇〇円と定めて実施された。

3 ところが、被告人岡田は、同五四年一二月初旬ころに至り、兼六加工に対する工事代金が前記のとおり二七〇〇万円を超えていたことと、当時さらに新らしい改修工事の計画もあったことから、従来五十嵐に指示して行なって来たような兼六加工への優先的発注程度ではこれを賄うことができないと考え、この際発足したばかりのビルサービスによる兼六ケースのリースを取り止め、新たに兼六加工が三越との間でその製品を直接リースすることとし、そのリース料金を定めるにあたっては、適正料金額に相当額の上乗せをし、これを三越から兼六加工に支払わせることによって、兼六加工に自己の未払い代金相当の利益を得させ、三越の損失において、自己の兼六加工に対する工事代金の支払いを免れようと企図するに至った。そして、被告人岡田は、そのころ右五十嵐と永瀬に対し、ビルサービスと三越とのリース契約をやめて、兼六加工が三越に対し直接にリースすることと、その際のリース料金の算定にあたっては、適正料金に工事代金の未払分として相当額の上乗せをした料金とすることを指示した。

4 そこで、右五十嵐と永瀬は、被告人岡田の右意向に沿うべく種々協議を重ねた結果、兼六加工が直接リースを行う場合の適正料金を標準の三B型ケース一台につき月額三三〇〇円とし、これに右工事代金分として一定の加算をしたうえ、もっともらしい数字として月額四八一〇円という料金を考え、被告人岡田に伝えたところ、同被告人も右料金で実施することを承諾した(なお、右料金は、被告人岡田の指示により、同五六年三月一日以降五〇〇円値上げされた)。

(二) 罪となるべき事実

被告人岡田は、株式会社三越の代表取締役として、同会社の業務全般を統括し、同会社のため忠実にその業務を遂行すべき任務を有していたものであるが、兼六加工株式会社に対する自宅の改修工事代金を三越の計算において支払うことを企図し、右任務に背き、自己の利益を図る目的をもって、昭和五五年三月一日ころ、三越が兼六加工との間に三越の使用する各種ケースに関するリース契約を締結するに際し、兼六加工が希望価格として見積り呈示したリース料金に多額の上乗せをした不当に高額のリース料金を支払うこととしたうえ、同年三月二五日ころから同五七年九月六日ころまでの間、右契約に従い、兼六加工の見積ったリース料金との差額合計八七四二万一九〇〇円を含む合計二億六九八三万九五六〇円を同都中央区日本橋一丁目五番三号所在三菱銀行日本橋支店及び同銀行東京支店の三越の当座預金口座から同都豊島区南大塚三丁目五三番一一号所在三菱銀行大塚支店及び同銀行春日町支店の兼六加工の当座預金口座に振込入金し、もって三越に対し八七四二万一九〇〇円相当の損害を加えたものである。

三  所得税法違反事件

(一) 犯行に至る経緯

1 コミッション収入等の取得と管理

被告人竹久は、前記のとおり三越が香港・東南アジア等で買付ける直輸入商品につき、仕入原価の二ないし五パーセントを個人のコミッションとして取得しており、これを陳谷峰に管理させていたが、昭和五〇年五月ころ、東京国税局の税務調査が香港三越に対して実施され、同被告人のコミッション収入が捕捉されそうになったことや、陳の経営するベンダーカンパニー(万達洋行)固有の収支と区別して管理する必要などから、同五二年八月、陳が香港の住所を事務所として設立したパゴダ・インダストリアル・カンパニー(宝達実業公司)をコミッション収入の受け皿とすることとし、サプライヤーまたは香港三越経由で支払われるコミッションをパゴダ宛の小切手で受領し、さらに同五四年八月ころ、右コミッション収入が急増するようになるや、陳に依頼して、ベンダーの社員の妻であるライエンサン(黎燕珊)名義の普通預金口座を上海商業銀行銅鑼湾支店に開設し、コミッション収入をライエンサン宛の小切手で受領し、さらに同五六年九月、陳谷峰、工藤武敏らを共同経営者とするメイヒン・カンパニー(美興公司)を設立し、永隆銀行銅鑼湾支店に陳谷峰又は関良の名義で設定した定期預金として保管した。右定期預金を管理していた陳谷峰らはこれを主として三か月の定期預金とし、利息は満期ごとに元本に加算されていた。

これらコミッション収入は、被告人竹久の雑収入であり、定期預金利息は利子収入である。

2 デザイン料収入の取得と管理

三越は、昭和五四年六月、香港において、プライベートブランドの婦人服カトリーヌを製造するため、香港の休眠会社を買収してオーキッドファッション(香蘭時装有限公司)としたが、被告人竹久は、そのころ、同社代表者藤村明苗らに対し、カトリーヌのデザイン部門に関与することになるので、その売上高の七パーセントを支払って欲しい旨要求し、これをデザイン料名義で取得するようになった(同五五年一一月から二パーセント)が、被告人竹久は、右収入の受取名義人とするため、同五四年八月前記工藤を総経理、陳谷峰をパートナーとするワールドファッションデザインセンター(世界時装中心、以下ワールドファッションという。)を設立し、上海商業銀行チムサーチョイ支店に当座預金口座を開設し、同社宛の小切手でデザイン料を受け取った(一部現金分がある)うえ、右口座に入金し、これがある程度溜まると、同支店のワールドファッション名義の定期預金として蓄積したが、これらの事務は、三越からオーキッドファッションに出向していた粕谷誠一及びその後任の岩関務が処理していた。

3 被告人竹久は、右のほかニューヨークの宝石商ハッセンフェルドシュタインから、三越が宝石を買付けるについて、買付額の二パーセントをコミッションとして取得するとの前提で、ハッセンフェルドにコミッション額を計算させ、留保させていたところ、同五四年三月から同五六年一月にかけて前後四回にわたり、ダイアモンド四個を右コミッション分として受け取ったほか、オーキッドファッションがカトリーヌ用生地をヨーロッパで買付ける際、オリエント交易に対するコミッションをパリ三越に保管させていたところ、同被告人は、これを、パリ三越からパリ国立銀行香港支店のワールドファッション名義の預金口座に送金させて取得した。

右の宝石買付は、同被告人の雑収入であり、パリ三越からの送金分は、オリエント交易からの役員賞与に相当し、これに絡む預金利息は利子収入である。

(二) 罪となるべき事実

被告人竹久は、オリエント交易株式会社、株式会社アクセサリーたけひさ及び竹久みちアクセサリー学院を経営するかたわら、三越が海外で買付ける商品に関し、香港三越あるいは香港在住の納入業者を介して手数料収入を得ていたほか、香港所在の三越の関連会社オーキッドファッションから三越のオリジナル婦人服「カトリーヌ」に関するデザイン料収入等を得ていたものであるが、自己の所得税を免れようと企て、右手数料、デザイン料等の支払いを受けるにあたり、香港の法人名義又は他人名義を用いる等の不正の方法により、その所得を秘匿したうえ、

1 昭和五四年分の実際総所得金額が一億二一九四万四六〇四円(別紙(三)修正損益計算書参照)あったのにかかわらず、同五五年三月一五日、東京都渋谷区宇田川町一番三号所在の所轄渋谷税務署において、同税務署長に対し、同五四年分の総所得金額が五三四〇万三九一四円でこれに対する所得税額が一七四三万七二〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(昭和五八年押第四三八号の2)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額六七一二万三四〇〇円と右申告税額との差額四九六八万六二〇〇円(別紙(六)脱税額計算書参照)を免れ

2 昭和五五年分の実際総所得金額が一億九一二〇万二〇七六円(別紙(四)修正損益計算書参照)あったのにかかわらず、同五六年三月一六日、前記渋谷税務署において、同税務署長に対し、同五五年分の総所得金額が八一三一万九七七四円でこれに対する所得税額が二七八七万六〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(同押号の3)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額一億一〇三二万一三〇〇円と右申告税額との差額八二四五万七〇〇円(別紙(七)脱税額計算書参照)を免れ

3 昭和五六年分の実際総所得金額が二億九〇九一万九九二四円(別紙(五)修正損益計算書参照)あったのにかかわらず、同五七年三月一五日、前記渋谷税務署において、同税務署長に対し、同五六年分の総所得金額が一億一〇八三万二三七〇円でこれに対する所得税額が一八三九万七一〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(同押号の4)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額一億四九五三万円と右申告税額との差額一億三一一三万二九〇〇円(別紙(八)脱税額計算書参照)を免れ

たものである。

第二章証拠の標目《省略》

第三章法令の適用

一  罰条

被告人両名の判示第一章第二節一の(二)の1及び2の各所為につき包括して昭和五六年法律第七四号附則二七条により同法による改正前の商法四八六条一項、刑法六〇条(被告人竹久には背任罪の身分がないので刑法六五条一、二項により同法二四七条の刑を科す)

被告人岡田の判示第一章第二節二の(二)の所為につき右改正前の商法四八六条一項

被告人竹久の判示第一章第二節三の(二)1、2の各所為につき行為時においては、昭和五六年法律第五四号による改正前の所得税法二三八条一、二項、裁判時においては右改正後の所得税法二三八条一、二項に該当するが、刑法六条、一〇条により軽い行為時法を適用、同3の所為につき所得税法二三八条一、二項

一  刑種の選択

被告人岡田の各罪につきいずれも懲役刑選択

被告人竹久の判示第一章第二節一の(二)の罪につき懲役刑選択、同三の(二)の各罪につきいずれも懲役刑と罰金刑の併科

一  併合罪の処理

被告人岡田に対し刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(犯情の重い判示第二節一の(二)の罪の刑に加重)

被告人竹久に対し刑法四五条前段、懲役刑につき刑法四七条本文、一〇条(刑期及び犯情の重い判示第二節一の(二)の罪の刑に加重)、罰金刑につき同法四八条一、二項

一  労役場の留置

被告人竹久に対し刑法一八条

一  訴訟費用の負担

被告人両名に対し刑訴法一八一条一項本文、一八二条

第四章直輸入商品関係特別背任事件にかかる事実認定の理由

(はじめに)

本件公訴事実中、被告人両名の特別背任にかかる部分は、いわゆる竹久絡み輸入方式による取引のうち、準直方式によるものと、香港コミッション方式によるものの二つをもって構成されている。したがって、ヨーロッパにおけるコミッション方式の取引(オリエント交易のエージェントコミッションを含む)にかかる部分は、公訴事実の対象外とされている。また、準直方式による取引については、その期間を昭和五三年八月以降同五七年七月分までに限定し、香港コミッション方式による取引については、取引金額にコミッションを上乗せして請求した期間を、昭和五四年四月以降同五七年二月までに限定して公訴事実の対象としている。そして、検察官は、右準直方式及び香港コミッション方式が、被告人両名の共謀によって実現し推進されたものであること、これらの方式が専ら三越の負担(損害)のもとに被告人竹久ないしはその経営にかかる法人の利益を図る目的に出たものであって、三越の代表取締役であった被告人岡田が右方式を推進したことは、同被告人の三越に対する忠実義務に違背する行為であり、これによって三越に対し公訴事実記載のような多額の損害を加えたものであると主張し、これに対し、被告人両名は、右公訴事実につき、被告人岡田が代表取締役をしていた三越において、海外商品の仕入に関し、準直方式と香港コミッション方式によるものが存在したことについては争わないが、被告人両名が右各方式の実現等について相互に話し合ったことはなく、これらの方式は被告人竹久が三越の仕入担当者と話し合って決定したもので、その維持発展に被告人岡田が関与したこともない、被告人竹久ないしその経営する法人が利益を得たとしても、それは正当な商業活動の対価であって、違法性はなく、したがって三越に損害は発生していないと主張し、共謀、図利目的、任務違背行為の存在、損害の発生について全面的にこれを争っている。

ところで、本件公訴事実の対象となる部分は、前記のとおり、準直方式及び香港コミッション方式による取引にかかるものに限定され、かつその期間も一部に限定されているものの、それはヨーロッパコミッション方式と相互に関連する面があり、かつ準直方式及び香港コミッション方式の全体像を把握するためには、その成立過程に遡る必要がある。そして、検察官はこれら起訴対象外の事実に関連して生起した諸事実を、本件公訴事実における被告人両名の共謀、任務違背行為、図利目的等を認定する間接事実として主張し、弁護人らも右の検察官主張の事実の存在ないし評価を争っているので、これらの事実を含めた検討が必要である。そこで以下において、右の関連する諸事実全般について、弁護人主張の諸点を中心に当裁判所の判断を示すこととする。

第一節竹久絡み輸入方式の内容(第一章第一節の二背景事情(三)ないし(七)掲記の事実認定を含む)

一 オリエント交易の設立と被告人竹久の三越直輸入業務への介入(前記二の(三)掲記の事実についての補足説明)

1 オリエント交易設立についての被告人岡田の援助の約束について

弁護人らは、被告人竹久が被告人岡田の社長就任の内定していた昭和四七年一、二月ころ同被告人に貿易会社の設立を話し、同被告人がこれに賛成した事実はないと主張し、その理由として、被告人岡田の社長就任は昭和四七年四月一二日松田社長の入院先で開催された臨時取締役会で突如決定されたもので、それまでに同被告人が次期社長に内定していたことはなく、また被告人竹久の貿易会社設立の構想は、同人が香港に出張するなどして昭和四六年一一月ころ既にその意思を固めていたものであって、両者の間には関連性がないという。

しかし、昭和四七年一、二月ころの時点において、専務取締役本店長の被告人岡田が三越の次期社長に就任することが社内で確実視されていたことは、当時の販売促進部販売企画部長の証人宮崎喜三郎や取締役本店次長の同杉田忠義が当公判廷で明確に証言しており、アクセサリーたけひさの従業員で後にオリエント交易の代表取締役に就任した篭橋正好も、検察官に対する昭和五七年一一月二〇日付供述調書において、被告人岡田が長い間競り合っていた板倉芳明常務取締役に打ち勝って次期社長になるらしいと噂されていた旨述べているところである。そして、三越発行の「金字塔」一三六号(弁6・符388)の記載によれば、三越では昭和四七年三月一八日開催の決算役員会において会長制を設けることを決め、同年四月下旬の株主総会で正式に決定されたときは松田社長が会長に就任することが予定されていたというのであるから、同年一、二月ころの段階で既に次期社長候補者について社内での大勢が決まっていたとみるのが合理的であり、三越のような大企業の社長人事のあり方に照らしても自然であって、右宮崎らの証言は十分信用できる。

被告人竹久が貿易事業に進出しようといつ考えたかは、内心のことで必ずしも明確ではなく、弁護人主張のように昭和四六年一一月ころであっても不思議はないが、他方、同被告人は前記認定のとおり、それまでに香港から少量のアクセサリーの材料を輸入した経験はあっても貿易業務については素人といってよく、国内での販路も有していなかったのであるから、貿易会社を設立し現実に業務を始めるにあたっては、三越に頼るしか方法がなかったことも明らかで、そのためには被告人岡田の助力が不可欠であり、同被告人の社長就任が内定し社内で一段と力を得た時期に、同被告人に貿易会社設立の具体的な話を持ち掛けその援助を求めることは自然な成行きである。前記篭橋も同供述調書において、昭和四七年一、二月ころ初めて被告人竹久から貿易会社設立の話を聞かされ、その時には香港三越で選品し三越で買取るという取引形態が決まっていたと述べており、右の経緯を裏付けている。そして、被告人竹久及び被告人岡田も検察官に対する各供述調書(被告人岡田につき昭和五七年一一月二〇日付、被告人竹久につき同月一六日付)において、右事実に添う供述をしており、その供述の任意性・信用性を疑うべき理由はない。被告人岡田の弁護人は、昭和四七年一月ころは被告人岡田が直輸入推進を図っていた時期ではないとして、その供述調書の信用性等を争うが、三越においては被告人岡田の持論である商品差別化・直輸入政策に基づき、昭和四六年にはパリ三越や香港駐在員事務所を開設するなどして着々と直輸入体制を整えていたことは明らかで、被告人竹久の貿易会社の構想は三越のかかる状況に触発されたものと考えられる。

2 社内会議における被告人竹久の挨拶等について

弁護人らは、昭和四七年二、三月ころ開催された雑貨関係の販売促進会議及びその際の被告人竹久の挨拶、被告人岡田の指示の各存在を争い、右事実を肯定する証人宮崎喜三郎、同井上和雄、同杉田忠義の各証言は、会議の名称、時期、場所、出席者の配置等について互いにまちまちであること、当時被告人岡田の秘書で同被告人の出席する会議には必ず出席していた松本健太郎も記憶がない旨証言していること等に照らし信用できないと主張する。

そこで検討すると、宮崎らの証言内容については、なるほど、会議の時期、名称等について明確でない点があり、また相互に一致しない部分もみられるが、各証言全体を通じてみれば、会議の時期が被告人岡田の社長就任直前の二、三月ころであったこと、会議の目的が雑貨関係の拡販に関するものであったこと、会議が本店内で行われ、出席者が雑貨の売場関係者、仕入関係者であったこと等証言の主要部分に関しては一致している。同人らは役職上多数の社内会議に出席している者であり、一〇年以上も前に経験した会議の模様について証言しているのであるから、細部の点において記憶に曖昧な部分があるのは却って自然である。同人らは三越の社内会議の場に被告人竹久が公然と顔を出し挨拶したという強烈な印象に基づき証言しているのであって、その信憑性は極めて高いと考えられる。秘書の会議出席に関する松本証言についても、同人の証言によれば、被告人岡田の出席する会議でも秘書として出席しない場合があるということであり(同証言速記録一六〇丁から一六一丁、一六四丁)、また宮崎らも松本が会議に出席していたとは証言していないのであるから、所論の指摘も理由がない。なお、被告人両名は当公判廷において会議や挨拶等をいずれも否定しているが、被告人岡田は、検察官に対する昭和五七年一一月二一日付供述調書において、「竹久からオリエント交易を作るという話しを聞いた後の昭和四七年三月ころ、本店の応接室か会議室で杉田忠義から『先生がオリエント交易という貿易会社を始めるということで挨拶にこられました』という話を聞いたので、その場にいた杉田や増田に『香港の安くていい商品を竹久を通じて取り入れなさい』と話したように記憶している」旨宮崎らの証言に近い供述をしている。

3 オリエント交易取引口座開設に関する被告人岡田の言動について

弁護人らは、被告人岡田が昭和四七年二月ころ杉田忠義にオリエント交易の取引口座開設の依頼をしたことはなく、また同人に対し三越が直輸入するにあたり被告人竹久のところを通せばいいなどと発言したこともなく、杉田の証言は措信できないと主張し、その理由として、(イ)杉田は口座開設の指示を受けたといいながら四月一二日ころまで二か月近くも放置していたのは不自然であり、被告人岡田の発言を聞いて形式的に竹久の会社を通して直輸入する趣旨に受け取ったのも短絡的かつ論理の飛躍がある、(ロ)被告人竹久は既に昭和三六年以降個人名義の取引口座を持ち、昭和四五年三月にはアクセサリーたけひさの取引口座があったから、これらの実績に照らせば同被告人が貿易会社を設立すれば無条件で口座開設が許可される状態にあり、被告人岡田がわざわざ杉田に指示するまでもない、(ハ)取引口座開設許可の最終決裁権限は仕入部長にあったから、被告人岡田がその権限のない無関係な杉田に口座開設の依頼をするわけがない、(ニ)当時三越には直輸入推進の方針はなく、まして本店長に過ぎない被告人岡田がかかる時期に社長の如き発言をするはずがないなどと主張している。

まず右(イ)については、杉田は被告人岡田の指示を受けながら放置していたとは証言していないのみならず、前記のいわゆる拡販会議において、同被告人は総合企画部長増田昌弘、本店雑貨部長井上和雄、仕入部雑貨部長岡部明らを前に同種の依頼をしており、仕入部幹部社員にはその趣旨が徹底していたのであるから、杉田があらかじめ申請書の提出のあることを予測して担当者に指示しなかったのはむしろ当然である。また杉田が形式的に被告人竹久の会社を通すものと理解した点についても、同被告人が貿易業者として実績も経験もない者であることを知っていたからこそ被告人岡田の話を聞いてそのように受け取ったのであって、その証言は首肯できる。

次に(ロ)については、被告人竹久はかつて雑貨部を窓口として個人で取引口座を開設していたところ、昭和四五年三月一四日に右口座をアクセサリーたけひさに名義変更し、その際の手続きではとくに社内の調査が行われなかったことは、証人細野耕二の証言により認められるが、オリエント交易の設立に伴う口座の開設は、アクセサリーたけひさの場合のように個人から法人へ切り替える場合とは異なり、新規口座の開設にほかならないから、所論のように無条件で口座開設が可能な状況にはなかったことは、同証言の述べるところである。したがって、その開設の便宜を図ることを指示されたとの杉田証言は不合理ではない。

(ハ)については、口座開設許可の最終権限者は当時の仕入部長にあったことは所論のとおりであるが、杉田は昭和四六年九月に仕入部長兼関西仕入部長兼本店次長兼販売促進部長となっており、被告人岡田が依頼した当時仕入部長にあったことは、同人の経歴書(甲一280)の記載により明らかであり、所論は前提を欠いている。

(ニ)については、被告人岡田が当時直輸入推進の考えを持ちその体制作りを図っていたことは前述したとおりであり、この政策決定は最終的には社長決裁であるとしても、同被告人のイニシアティブで遂行されていたのであって、これらに関する同被告人の発言は、その地位ないし権限に照らせば、不自然なものではない。

4 オリエント交易の代表取締役を篭橋正好にしたことについて

弁護人らは、被告人竹久がアクセサリーたけひさの代表取締役をしていた関係から国内業務と貿易業務を区分し貿易業務を専門的に担当させる必要があると考え篭橋を代表取締役にしたのであって、マスコミ対策上そうしたのではない、同被告人は取締役として名を連ねており商業登記簿をみればすぐわかることであるからその意図がなかったといえると主張する。

しかし、被告人竹久の検察官に対する昭和五七年一一月一六日付供述調書によれば、同被告人は、オリエント交易の代表取締役選任の経緯につき、「そのころ既に私と岡田社長が深い関係にあって、そのために私が三越の中にアクセサリー売場を貰っているというようなことが一部のマスコミに取り上げられてたたかれていたので、その私がもう一つ三越と取引する会社を作ったとなりますとまたスキャンダルとして取り上げられ岡田社長にも迷惑がかかるといけないと思い、私は表面に出ない方がいいと考えて、たけひさの営業社員で一番上席でまとめ役的な存在だった篭橋正好を社長に就任させました」、「このことを岡田社長に話して賛成してもらった」と述べており、右篭橋も、検察官に対する昭和五七年一一月二〇日付供述調書において、被告人竹久から、自分はアクセサリーたけひさの社長をやっているのでまずいから社長になるよう強く要求されたと述べている。もっとも、被告人竹久はオリエント交易の取締役に就任し商業登記簿にその氏名が掲載されていることは事実であるが、マスコミ対策はまず三越社内及び取引業者に対する警戒が先行するものであり、三越に提出する各種書類上は篭橋を代表取締役とすることよって同被告人の名前を隠蔽することができるから、右の方法はそれなりに意味を有している。

5 オリエント交易の取引口座開設許可について

被告人竹久の弁護人は、オリエント交易の取引開始申請書は前々から篭橋が星野雑貨部主任と相談しながら書類作成を準備していたもので杉田仕入部長とは関係がなく、またその手続きは増田仕入部次長、岡部雑貨部長ら実務サイドで進められたもので、被告人岡田の杉田に対する指示などにより異例の取扱いがなされたものではないと主張する。

しかし、証人杉田忠義、同岡部明の各証言によれば、三越では通常取引開始申請があれば、管理部等においてその会社の信用状態、商品内容、輸入ルート等について厳重な調査が実施され、許可になるまでには数か月かかることが認められるところ、オリエント交易は昭和四七年三月三〇日に設立されたばかりで、営業実態としても三越に対する納入実績も全くない小会社であるのに、同年四月一二日取引開始申請がなされるや、三越では右の諸調査を一切省略し、申請後わずか四日で許可を与えているのであって、異例の措置というほかなく、この原因が前述したとおり被告人岡田の杉田、増田ら関係者に対する指示(なお、岡部証言によれば、仕入部雑貨部長の同人は昭和四七年三月ころ当時杉田仕入部長のもとで新規口座の承認等の仕事を担当していた増田総合企画部長に呼ばれ、同人及び同席していた被告人竹久から、新しく作る貿易会社について新規口座を開設する旨告げられたことが認められる)に基づくものであったことは明白である。

6 オリエント交易の外国為替取引に関する三越の保証について

弁護人らは、オリエント交易が昭和四八年六月一五日三井銀行東京支店との間で外国為替取引を開始するにあたり、三越が保証したのは杉田忠義の自発的判断によるものであると主張し、種々の理由を挙げて、被告人岡田から保証の指示を受けたという杉田の証言及びそれを窺わせる宮崎喜三郎の証言は虚偽であると主張している。

そこで関係証拠を検討すると、当時社長室長の証人宮崎喜三郎は、「被告人岡田が三越社長という資格でオリエント交易の銀行取引保証をするという話を仕入部の担当者から聞き、岡田社長に確認したところ、当初岡田は保証人になって何が悪いと言っていたが、三越がそれまで取引先の銀行保証をした例がなくまたスキャンダルになると危惧し、岡田に対し、保証をするのであれば誰か他の人にした方が良いと進言すると、岡田もこれを了承し、その後岡田から杉田にやらせることにしたという話しを聞いた」旨証言し、証人杉田忠義は、「昭和四八年六月ころ岡田社長から竹久を三井銀行に紹介して銀行取引の保証をしてやってくれという話しがあり、数日後竹久を伴って同銀行東京支店に赴き、同支店長に、オリエント交易の輸入品はすべて三越が買取るということを力説して外国為替取引を依頼した。その後仕入本部の外国貿易関係担当の犬塚課長が、外国取引約定書を持ってきたので押印したが、非常に気の進まないことであったので、同人に三越がオリエント交易の銀行取引の保証をしていることが表沙汰になった場合どう理由付けをするのか相談したところ、同人から前渡金のようなもの(取引先に資金力がない場合に三越が資金を貸付ける制度)だと説明すればどうかとの話があった」旨証言している。他方、三井銀行東京支店の担当者矢口晴彦の検察官に対する供述調書によれば、同人は、「杉田からオリエント交易との外国為替取引を依頼され、同人に三越の保証を求めたところ、初めはオリエント交易の商品は三越が間違いなく買付けるといって拒まれたが、その後交渉をした結果、杉田が判を押すことにまとまり、大体の話ができたころ被告人竹久が挨拶に来た」と述べている。

これらによれば、杉田証言には、矢口供述と内容的に若干齟齬している部分があるが、そのいずれもが相当年月を経過した後でのものであるから、この点をとらえて杉田証言を偽りとみることはできないのみならず、杉田は保証が表沙汰になった場合を案じ理由付けを考えるなど、保証をすることにかなり消極的であったことが認められ、かかる心配をしてまで被告人岡田の愛人である被告人竹久のために、それまで前例のない取引先に対する保証をしなければならない理由は全くなかったことを考えると、保証は被告人岡田の指示に基づくものという杉田証言は合理的で、宮崎証言とも良く符号しており、信用できる。

所論は、岡田から指示があれば、矢口のいうように杉田が三井銀行から保証を求められた際拒否するはずがないとか、杉田の個人印の押印という特異な方法をとるはずがないというが、杉田は被告人岡田から指示されていたとはいえ、宮崎の危惧するような問題をはらんだ保証をできるだけしないで済ませたかったであろうし、また後日生じ得る批判をかわす方法として個人印を使用したものと考えられる。所論はさらに、杉田が、昭和四八年末ころ被告人岡田の事前の承諾なく右保証を取消したのは、もともと保証するについて同被告人の指示がなかったためであるというが、この保証の取消しは、杉田としては保証問題がマスコミ等で取り上げられたため急遽行った一大決断であったと認められる。

二 準直方式の成立過程(前記第一章第一節二の(四)の①)

1 オリエント交易の初期取引と三越の在庫の増加について

証人奥山清秀の証言、吉田晃一の検察官に対する昭和五七年一一月一七日付供述調書等によれば、以下の事実が認められる。

香港における竹久絡み輸入方式による取引は、昭和四七年ころから始まったビーズバッグ等の香港雑貨及びそのころから始まったヘレン郭ファッションのドレス類が中心であり、これらはいずれも被告人岡田の指示のもとに三越が強力な販売活動を行ったものの、三越の売上に寄与するところはなかった。これら初期取引において、被告人竹久は、三越納入業者であるサンフルーツの石塚保の紹介で知り合った陳谷峰を利用し、香港三越支配人吉田晃一及びその後任である奥山清秀らとの交渉にあたらせていた。陳谷峰は三越と取引関係にあった東京丸一商事の元香港駐在員であり、当時は香港においてベンダー(万達洋行)という小さな商社を経営していたが、日本語が堪能であったため、初代香港三越支配人吉田晃一は、商品サンプルの収集や業者との交渉時の通訳等に利用していた。そして奥山支配人が香港に赴任した昭和四八年一〇月ころには、竹久絡み商品の大半は、ベンダーをシッパーとしてオリエント交易を経て三越に納入される形態であったが、一部商品にはメーカーないしベンダーから直接三越に納入される形態のものがあり、この場合においては、被告人竹久に支払うべきコミッションは陳谷峰の手元で管理されていた。

弁護人らは、右ビーズバッグの買付けの状況、その三越における在庫の状況等について、次のように主張する。すなわち、被告人竹久は、昭和四六年一一月以降、香港出張の際着目した商品サンプルを星野雑貨部主任に見せ、昭和四七年四月出張の時も商品買付の準備をしており、同年六月に岡部の同行を得て試験的な買付を行ったものである。岡部証言によれば、星野の買付が昭和四八年二月、同年三月、同年八月の三回に亘り行われたところ、第三回目の買付が極めて多量であったので三〇パーセント位をキャンセルさせたというのであるが、海外出張議案(甲二125・符118)によると、星野の出張は同年二月、四月、一〇月の三回であり、バッグ類の買付予定額も第一回目で三七〇〇万円(数量三万八〇〇〇個)、第二回目で五〇〇〇万円(同四万八〇〇〇個)、第三回目で二五〇〇万円である。したがって、岡部証言のうち、星野に買付量・額の指示をしていないという部分、第一、二回の買付が少なかったとして被告人岡田から叱られたという部分、三回目の買付が大量でキャンセルをしたという部分、昭和四九年五月井上と雑貨部長交替の時点で在庫が原価で二億円もあったという部分はいずれも虚偽である。在庫量がこんなにあるはずがなく、在庫の処分に関する三越関係証人の証言はいずれも虚偽である。このように主張している。

そこで検討すると、弁護人指摘の海外出張議案によればその主張のとおりの買付予定であったことが認められる。しかし、海外出張議案に買付対象商品・買付金額を記載するのは、買付予算との関係で、これをどのように消化するかを出張前に一応の目安として明確にするものに過ぎず、現実に行われた買付が出張議案どおりのものであるということではないのである。現に、弁護人提出のオリエント交易仕入台帳(弁112・符225)によれば、昭和四七年一二月から同四八年八月の間に現実にオリエント交易が輸入し三越に納入したハンドバッグ類(これは、昭和四七年六月の岡部の買付分、昭和四八年二月及び同年四月の星野買付分に関するものであって、星野の第三回買付分は右仕入台帳には記載されていない)の数量は、合計で一七万個余り、オリエント交易の三越への納入価格にして合計一億六二〇〇万円余にのぼっており、出張議案どおりの執行がなされているわけではない。星野の第三回買付分についてはオリエント交易の仕入台帳が存在しないので、その数量・金額は明確ではないが、これを加算しなくとも、それまでの買付分の数量は甚だ多量と認められる。岡部証人の作成した買付一覧表は、三菱銀行及び三井銀行の発行したL/C(輸入信用状)の発行日及び発行金額を集計したものであって、右オリエント交易仕入台帳の記載と細部の点で一致するものではないが、概ね右オリエント交易仕入台帳の記載と符合しており、大筋において信用できるものと認められるところ、これによれば、星野買付分を含めてL/C発行金額が合計一億九〇〇〇万円余にのぼっており、ハンドバッグ類だけでも三越の仕入原価としては二億三〇〇〇万円位にはなるものと考えられるのであって、その他商品を含めた在庫量が昭和四九年五月時点で二億円位あったとの岡部証言はあながち過大に過ぎるものとも思われないのである。したがって、岡部証言は概ね信用できるものであり、弁護人所論の点につき特に虚偽供述をしたとは認められない。当時三越において香港雑貨の異常なほどの大量在庫があったことは三越社員が口を揃えて証言するところであって、顕著な事実と認められ、これら関係証人の各証言も措信するに足りる。

なお、ヘレン郭のドレス類については、前掲オリエント交易の仕入台帳によると、昭和四七年から同四八年秋までの間に約四五〇〇万円余(数量約三七〇〇着)を輸入し、三越に約六〇〇〇万円余で納入しているが、これも売れ行きが甚だ悪く、売場担当者は売上数量を水増しして被告人岡田に報告(経理面の操作はない)したり、大幅な値引をして在庫処理をするため、他の商品の差額返戻を利用したり、値引予算の多い品番に移すなどしていた(奥山証言、天野証言等)。

2 オリエント交易の口座廃止と準直方式の成立について

オリエント交易の口座廃止及びこれに伴って成立した準直方式並びにこれらの原因となった国会タイムスの記事をめぐる顛末は、先に認定したとおりであるが、右事実の経過は、当時の社長室長宮崎喜三郎及び本店長兼仕入本部長杉田忠義の行動を中心に展開しており、その認定は専ら同人らの証言に依拠しているところ、弁護人らは、右両名とりわけ宮崎の証言の信用性を争い、オリエント交易の口座廃止及びアクセサリーたけひさの口座による取引継続は、宮崎や増田仕入本部次長らが中心となって被告人岡田の関与しない過程で決定したもので、被告人両名の共謀に基づくものではないと主張する。

そこで検討すると、まず弁護人は、宮崎証言中、国会タイムスの記事に関連して、同人が被告人竹久を三越に呼出し慎重に行動するよう忠告し、さらに出版記念パーティの席上同女を廊下に呼出し、記事を示してオリエント交易の商売の仕方等を考えて貰いたい旨進言したとの点につき、宮崎が二回に亘って被告人竹久に忠告すること自体極めて不自然であるうえ、スキャンダル記事の対象となった本人が右パーティに出席するわけがなく、また人目につくパーティの場で記事を見せて忠告するがごときは常識上あり得ず、虚偽であるという。しかし、宮崎は、役職上株主総会対策やマスコミ対策を職責とし、被告人岡田の腹心として、その地位の防衛を第一の使命と心得て行動してきたものであり、当時三越社内においては、オリエント交易経由による香港雑貨類の大量在庫の発生に対し批判が高まり、一方マスコミ等で被告人両名の愛人関係やオリエント交易と三越との取引関係が取り沙汰されるなど、被告人岡田の地位及び三越の信用にとって憂慮すべき重大な事態が生じていたのであるから、宮崎が被告人竹久に対し二回に亘り忠告することは何ら不自然なことではない。また、出版記念パーティ当時は既に国会タイムス側と話し合いがつき、記事を買収して廃棄した後であるから、被告人竹久は何の不安もなくパーティに出席できたはずであり、宮崎がその席で同被告人を廊下に呼出し記事を示して忠告したのも、自己の職責に対する熱心さの現れである。

次に弁護人は、宮崎証言中、オリエント交易の口座廃止を進言した時の状況について、(イ)同人が被告人岡田に対し、「オリエント交易の口座かアクセサリーたけひさの口座かどちらか一つにして貰いたい」と進言したのであれば、同被告人において、「オリエント交易なんか通す必要はないんだ。たけひさを通せば同じなんだ」などと、あたかもオリエント交易の口座に執着しその廃止に反対していたが故に宮崎の進言にたやすく応じなかったような発言をするはずもない、(ロ)マスコミにおいて問題とされているのは、被告人両名の愛人関係であり、オリエント交易の口座を廃止してもアクセサリーたけひさの口座で三越と取引をするならば、マスコミ対策上効果がないことは明らかであるから、宮崎がオリエント交易の口座廃止を進言したというのは不自然であるし、まして被告人岡田が「たけひさを通せば同じなんだ」などと全く解決策にならない返答をするはずもない、(ハ)宮崎がオリエント交易の口座の廃止を進言したとすると、同人としてはアクセサリーたけひさの口座を残す意図であり、被告人岡田は素直にこれを承認することで自然に宮崎の手配によってアクセサリーたけひさの口座による取引が継続されるのであるから、「たけひさを通せば同じなんだ」といって準直方式の指示などするはずがない、(ニ)宮崎が退職覚悟で進言したと言いながら、結果として準直方式というオリエント交易とアクセサリーたけひさの二社にマージンを落とす三越にとってこれまで以上に損害となる方策を取ったというのであって、自己矛盾も甚だしく信用できないなどという。しかしながら、右(イ)については、宮崎は、被告人岡田に対し一貫して、オリエント交易の口座の廃止を進言したと証言しているのであって、両口座のどちらでもいいから一方を廃止してくれと頼んでいないことは明らかである。宮崎が被告人岡田に対し、「オリエント交易の口座とアクセサリーたけひさの口座の二つを持っていることが問題となっている」と言った趣旨は、被告人岡田がアクセサリーたけひさのみならずオリエント交易にまで三越と取引関係を持たせて被告人竹久に重ねて利益を与えているという点に非難されるべき実質があると考え、右のように述べて現在マスコミの攻撃の対象となっているオリエント交易の口座の廃止を求めようとしたものと解される。(ロ)については、当時国会タイムス等で問題とされたのは、被告人両名の愛人関係のみならず、オリエント交易と三越との取引関係すなわち三越の輸入にオリエント交易を介在させて利益を与えているということの不当性であり、アクセサリーたけひさは従来から取引関係のあった国産アクセサリーの納入業者として認識され、それ自体は特に問題視されていなかったものである。したがって、オリエント交易を隠蔽するため同口座を廃止し、アクセサリーたけひさを経由させるという方法はマスコミ対策上意味のある考えであったというべきである。(ハ)については、宮崎がオリエント交易の口座廃止を進言した際は、口座廃止に伴い同社の輸入する商品も納入が停止されると考えていたもので、アクセサリーたけひさ経由で納入すればよいと考えていたものではない。被告人岡田は、オリエント交易の口座廃止が被告人竹久の輸入品取扱いの中断につながると考えていたからこそ、当初同口座の廃止に強く反対していたものであり、その後オリエント交易の輸入品をアクセサリーたけひさ経由で納入させることに考えが及んだため、オリエント交易の口座廃止に同意したもので、このようにみていくと、宮崎の三回に亘る進言と被告人岡田の対応の変化は、事実の流れとして極めて自然である。(ニ)については、宮崎証言から窺えるように、オリエント交易の輸入品をアクセサリーたけひさ経由で三越に納入することにより、二重にマージンが取られ、三越の損害を増やすことになるが、反面オリエント交易の口座が廃止されてマスコミ等の攻撃をかわすことができ、当面の問題が解決されて被告人岡田の地位も安泰となり、自己の役目を全うすることができるのであるから、宮崎にとっては次善の策として意味があり、同人の行動に矛盾があるとも思われない。

また被告人竹久の弁護人は、オリエント交易の口座の廃止手続きがなされるまでの間における宮崎、杉田の相互の行動に関し、宮崎証言によれば、同人が被告人岡田からオリエント交易の口座廃止の了解を取ったのは、正式に口座廃止の手続きが取られた昭和四八年一二月二七日より一週間前であり、その翌日被告人竹久に口座廃止を伝えたのち、増田仕入部次長からオリエント交易とアクセサリーたけひさの両口座を廃止する予定を聞き、夜遅く杉田の自宅に電話してアクセサリーたけひさの口座を残すよう頼んだ旨述べているところ、杉田証言によれば、同人が被告人岡田にオリエント交易とアクセサリーたけひさの両口座の廃止を伝えた後、すぐ増田次長にその手続きを命じて出来上がった書類に判を押し、その夜遅く宮崎から電話があり、アクセサリーたけひさの口座を残すようにいわれたが、その日は一二月二五、六日ころであると述べており、両名の証言には五日間の食い違いがあるのみならず、宮崎証言を基準にすれば杉田の行動は理解し難く、他方岡部証言によれば、口座廃止の書類を整え増田次長に提出したのは一二月中旬というのであるから、これに従い杉田証言を理解すれば、宮崎証言は不合理であり、結局両名の証言はすべて虚偽であると主張している。確かに両証言を検討すると、所論のように日時の点で差異があり、これを前提に両名の行動を理解しようとすると不合理な点が生じるのは当然であるが、一〇年以上も前の出来事に関する証言を評価するにあたって、五日間程度の差異を重視するのは相当でない。両名はオリエント交易の口座の廃止を巡ってそれぞれの立場で被告人岡田に接触し、二人の行動が結び付いたのが宮崎から杉田への深夜の電話であったと認められ、両名の行動の経過はこれを全体的に観察すれば一致、符合しているものと解される。そして、仕入部内で作成したアクセサリーたけひさの口座廃止届(甲二63、符22)の存在や証人岡部の証言内容は、両名の証言の信用性を裏付けているとみられる。なお弁護人は、右の電話連絡につき、さしたる緊急性もないのに宮崎が深夜に杉田に電話するのは不自然であり、電話内容も食い違っているというが、事態を放置すれば杉田ら担当の者によってアクセサリーたけひさの口座も廃止される状況にあり、宮崎にとって緊急を要することであったと認められるし、電話の内容も用件の中心であるオリエント交易の口座は廃止するがアクセサリーたけひさの口座は残すという点で一致していることは明らかである。

以上のとおり、宮崎、杉田の証言はいずれも信用することができ、虚偽や創作であったとは認められない。そして、右証言によれば、準直方式は被告人岡田が宮崎からオリエント交易の口座廃止を進言された過程において、同人に対し、「オリエント交易なんか通す必要はないんだ。たけひさを通せば同じなんだ」と言って、オリエント交易の輸入品をアクセサリーたけひさを経由して納入する方法を指示したことにより成立したものと認められる。これに対し、被告人岡田は、当公判廷において、宮崎らからオリエント交易の口座廃止について進言を受けたことはなく口座廃止は全然知らなかった旨供述(但し、杉田から廊下で両口座の廃止を言われて「切りたければ切ればいいんじゃないか」と言ったことは認めている)している。しかし、被告人岡田が国会タイムスの引き起こした問題に重大な関心を寄せていたことは、同記事を買収するのに自ら交渉に当たったり、買収資金一〇〇〇万円のうち二〇〇万円を自分が出すなどしていることや、同被告人がそのころ被告人竹久に対し「オリエント交易の口座を閉めろなどといっていたこと(被告人竹久の検察官に対する昭和五七年一〇月三一日付、同年一一月六日付各供述調書)に徴し明らかであり、被告人岡田とオリエント交易との結び付きからして同被告人の了解なしにオリエント交易の口座を廃止することは不可能であったことなどの事情をも併せ考えると、被告人岡田の右弁解はとうてい信用できない。被告人岡田は検察官に対する昭和五七年一一月二二日付供述調書において、宮崎らからオリエント交易との取引を止めるよう進言を受けたことを認めており、オリエント交易の輸入についてはこれに代わってアクセサリーたけひさが行う方法を宮崎から持ちかけられた旨宮崎証言を半ば認めるような供述をしているのである。一方、被告人竹久は、当公判廷において、「突然オリエント交易の口座をなくすと一方的に言われたので増田次長にどうしたらよいか聞くと、アクセサリーたけひさがあるからそれを通せばよいと教えられた」、「宮崎からは全く話しは無かった」旨述べている。しかし、同被告人は、検察官に対する供述調書においては、「岡田からオリエント交易の口座を閉めろと言われたので増田に相談したがいい考えが出ず、次に宮崎に相談すると準直方式を指示され、増田にも話してこの方法で行うことになった」旨(昭和五七年一一月一六日付)、あるいは「岡田に言われて宮崎と増田に相談すると宮崎から準直方式の案が出された」旨(同年一〇月三一日付)宮崎から準直方式が発案されたと述べていて、重要な点で変遷が見られる。宮崎証言によれば、同人は被告人岡田がオリエント交易の口座廃止を承諾した翌日被告人竹久に被告人岡田の意向として口座廃止を伝え、同日夕方増田次長が来て仕入部としてこの際オリエント交易とアクセサリーたけひさの両口座を廃止するとの考えを聞かされたというのであるから、増田次長が被告人竹久の言うように相談を受けて準直方式を教示したことは考えられず、また宮崎も被告人岡田から言われるまでは準直方式を考えていなかったのであるから、宮崎がそれを発案することもあり得ないことである。被告人竹久が増田から準直方式の具体的進め方を聞いたことがあったとすると、それは宮崎が被告人竹久に右の伝達をした際、同被告人に対し、「くわしいことは社長か増田にお聞き下さい」と言ったことを受けてのことと推認される。したがって、被告人竹久のこれらの弁解、供述は信用できない。被告人竹久は、宮崎証言にあるように、同人からオリエント交易の口座廃止等を伝えられたとき、「わかっております」と別に驚いた様子も見せず返事し、「これから仕入れへ回って打ち合わせて帰ります」と言って帰っていった事実や、その後オリエント交易の輸入業務は以前と変わらぬ状態で続けられ、輸入品は極めてスムーズにアクセサリーたけひさを経由して三越に納入されている事実にかんがみると、オリエント交易の口座が廃止された前後の段階において、準直方式の実施につき被告人竹久と被告人岡田との間で充分な意思の連絡があったものと推認される。

なお、弁護人らは、オリエント交易の取引口座が廃止される以前に既に同社が輸入しアクセサリーたけひさが三越に納入するという取引形態が存在しており、このためごく自然に準直方式による取引形態に移行していったもので、被告人岡田らの指示は特に必要なかったと主張している。確かに、アクセサリーたけひさの仕入台帳(弁111、符224)、オリエント交易の元帳(甲二112、符158)等によれば、オリエント交易の取引口座廃止前から同社が輸入した商品の一部をアクセサリーたけひさ経由で納入した取引が存在する(右アクセサリーたけひさの仕入台帳によれば、昭和四八年中のオリエント交易からの仕入総額は二九三〇万円余である)ことは事実であるが、そのような取扱いをした商品は、アクセサリー類の一部で、しかもアクセサリーたけひさが三越の英国展に協賛して販売するもの(仕入額合計一三七〇万余円)や、アクセサリーたけひさが三越の店舗の専用ケースに展示して販売するものといった固有の仕入目的のあった商品に限られており、その後のオリエント交易が輸入した全商品をアクセサリーたけひさ経由で三越に納入するという取扱いと性格を全く異にしていることが認められるから、所論は理由がない。

三 香港コミッション方式の成立過程(前記第一章第一節二の(四)の②)

(香港における竹久絡み輸入方式の推移)

1  概要

吉田晃一の検察官に対する供述調書、証人奥山清秀、同萩原秀彦、同三輪達昌、同鈴木賢治、同松本健太郎の各証言、海外出張議案(甲二125ないし133・符118ないし126)、海外出張者名簿(甲二134、135・符127・128)、香港三越社史ファイル(甲二14・符106)等によれば次の事実が認められる。

吉田晃一の後を継ぎ昭和四八年一〇月香港三越の支配人となった奥山清秀は、先に述べたとおり、昭和四九年三月の支店長会議の後、被告人岡田からコミッション方式への統一を指示され、次いで同年六月六日から七日にかけて被告人竹久が香港を訪れた際、同被告人とも協議のうえコミッション方式へ統一することを決めたが、それはオリエント交易が表面に出ない方策として決定されたものである。

被告人竹久は、そのころ、オリエント交易の活動の中心をヨーロッパに転換しつつあったが、香港の毛皮にも目をつけ、当時本店特選部長兼外国仕入部長松本健太郎に対し、ミンクマジックの売店を三越に設けるよう要望し、被告人岡田も同人に対し、ミンクマジックの商品を銀座支店で販売展開するよう指示した。他方、被告人竹久は、同年八月ころミンクマジックの担当者を香港に同行し、ロイヤルファー、インターナショナルファーなどの毛皮メーカーで買付をさせた。ミンクマジックの売店は、その後本店及び六本木エレガンスにも設けられたが、昭和五〇年秋ころ、被告人竹久とミンクマジックの間にトラブルが発生し、同被告人は、松本に対し取引中止を要求し、松本らの交渉で残商品を買取る形で解決した。右ミンクマジックの取引については、被告人竹久になんらかのコミッションが支払われていたものと推認できる。

香港雑貨については、前記ビーズバッグ等の失敗にかんがみて、一時その買付は行われなかったが、被告人竹久の要請もあり、昭和五一年一月仕入本部雑貨部長井上和雄らが超目玉商品買付等の名目で香港雑貨等を買付けている。

次いで、奥山支配人が開発したバンバンというジーンズを三越直輸入で取入れ、被告人竹久にコミッションを支払うという形態の取引が行われることとなり、前記松本健太郎が昭和五一年二月被告人竹久と共に香港に買付のため出張し、同年八月上旬には、仕入本部輸入部酒井課長ほか一名が香港に買付出張し、本格的な取入れが始まった。バンバンに関するコミッションの支払いは、香港三越分が三パーセント、陳谷峰と被告人竹久が合わせて四パーセントであった。バンバンは、その後買付担当者が仕入本部婦人用品部岡島課長となり、さらに同部主任志村好英となって買付が行われ、最終的には昭和五五年一〇月ころまで買付が行われている。なお、金字塔一七八号(弁48)によれば、同年秋の本店第二次改装に伴い、二八のブティック店長制が敷かれたが、右志村がバンバンブティックの店長に指名され、三越が右商品の販売に力を入れていたことは明らかである。

弁護人らは、奥山証言は、全体的に悪意と中傷に満ちた虚偽証言であり、とくに昭和四八年暮ころ、被告人竹久のコミッションの存在を知った動機として宝石の取引の存在を挙げている部分については、三輪証言等からみて宝石の直輸入が始まったのは昭和五一年夏以降であるから奥山証言は信用できないし、バンバンは被告人竹久の開発にかかる商品であると主張する。

しかし、奥山証言には、日時の点などにつき若干の記憶違いが認められるものの全体として信用できる。弁護人指摘の点についてみると、なるほど証人三輪達昌、同鈴木賢治らの証言によれば、三越において香港宝石を本格的に輸入するようになったのは、昭和五一年八月以降であることが認められるが、三輪証言によっても宝石を単発的に輸入することは以前から行われていたというのであり、オリエント交易の仕入台帳(弁112)によれば、昭和四八年ころからベンダー経由でオリエント交易が宝石の裸石などを輸入し三越に納入していたことが認められるから、三越の直輸入につきオリエント交易を通さない場合、コミッションベースの取引があったとしても不自然ではない。関根良夫の証言によれば、昭和五一年以前においても宝石ショッピングツアーと称して観光客を香港の業者に案内し買い上げてもらう催しは何回か行われているというのであり、現に海外出張議案(甲二118)等によれば、昭和四八年一〇月初めころ、魅惑の香港ショッピングツアーと称して約一三〇名の観光旅行団を伴い、香港に買物ツアーを催し、右企画には、岡部多佑、牧野浩ら担当部員が同行しているのであって(同年九月にも仕入貴金属部主任谷久男が裸石買付のため香港・バンコックに出張している)、奥山証言には裏付があり、所論のように虚偽とは認められない。そして奥山証言によれば、バンバンは同人が昭和四九年夏ころ開発した商品であって、東京三越において買付けてもらうため、その仲介を被告人竹久に取次いでもらったに過ぎないことが明らかである。

右のように、香港コミッション方式が確立されたのち、竹久絡みの取引は、雑貨類、バンバンを始めとする衣料品から宝石へと拡大し、昭和五三年九月ころからは毛皮にも拡大されたことが明らかであるが、以下、個々のアイテムについて、その実態をみていくことにする。

2  宝石

香港宝石の本格的取入れが始まったのは、昭和五一年八月の前記三輪の買付からである。

前掲各証拠のほか証人関根良夫、同斎藤親平の各証言によれば、以下の事実が認められる。

(1) 被告人竹久は、昭和五一年六月ころ、当時の仕入本部貴金属部長三輪達昌に面会し、「香港でもいいものがありますから三輪さんも香港へ行って買付けてきたらどうですか。私の方はいい業者を調べておきましょう」と言って香港宝石の買付を要請した。三輪は、その当時三越はすでに約五〇億円程度の宝石の在庫を抱え、その処理に苦慮している状態であったため、被告人竹久に対する返事を留保したうえ、上司である仕入本部次長増田昌弘等と種々協議した結果、被告人竹久の要請であるので買付に行かざるを得ないが極く少量の買付に止どめようとの結論に達した。

(2) 三輪の香港出張が決定した段階で、被告人竹久は、自宅にしばしば出入りしていた輸入特選部副部長岡部多佑を介して、三輪に対し、香港へは自分が同行する旨伝え、また被告人岡田は出張の挨拶に訪れた三輪に対し、それまで三越では宝石在庫削減の方針が採られていたにもかかわらず、「部長が行くんだからしっかり買付けてこい。ダイヤモンドなんかは億単位で買付をしたらどうか」と言って宝石を大量に買付けるよう指示した。

(3) 昭和五一年八月、三輪のほか仕入本部貴金属担当者牧野浩及び鈴木賢治が香港に出張し、それと時期を合わせて被告人竹久も香港に赴いたが、同被告人は、香港三越支配人萩原秀彦に対し、「香港からの宝石についてはオリエント交易経由の商売じゃなくてコミッションベースでやって欲しい」と言って香港コミッション方式で輸入するよう要求した。そこで萩原は、三輪とも協議のうえ、被告人竹久の右要求は被告人岡田の了解でなされたものと理解してコミッションの支払いはやむを得ないと判断し、被告人竹久に宝石買付金額の三パーセントのコミッションを支払うことに決め、その旨を伝えたところ、同被告人は、「結構です。コミッションはベンダーの方に入れて下さい」と述べて、コミッションの支払い方法を指示した。

(4) 三輪らは、右第一回の香港出張の際、香港の宝石サプライヤーであるメイフェアー及びフーハンから買付を行ったが、買付の最終段階で、被告人竹久は、「ダイヤモンドの買付が少ないようですね、もっとお買いになったらいかがですか」と買い増しを求め、そのため三輪らはやむを得ず出張予定を一日延ばし、同じく宝石サプライヤーであるミネラルジェムから約三一一〇米ドルのダイヤモンドの追加買付を行った。その後三輪は被告人竹久の要求で、昭和五二年二月上旬牧野浩と共に香港に買付出張し、メイフェアーで色石を買付けたが、同年四月二九日付で横浜支店次長で転出させられた。

(5) 香港での宝石買付が本格的に実施されるようになる直前の昭和五二年半ばころ、被告人竹久は、萩原支配人に対し、「香港にも宝石のわかる人がいる方がいいですね」などと香港三越に新たに宝石担当者が派遣されるようなことを示唆する発言を行うとともに、そのころ、被告人竹久の側近グループの一員であった輸入特選部課長の関根良夫に対し、香港三越行きを勧め、同人が了承するや、間もなく同人に対する香港三越への出向が発令された。そして被告人岡田は、辞令交付の機会などに関根に対し、ダイヤモンドをはじめ宝石の大量買付を強く指示した。

(6) 他方、右関根の香港出張直前の昭和五二年四月には、被告人岡田は、総務本部長宮崎に対し、「香港商品なんか安いもんなんだ。もっと大量に買やいいんだ。くずダイヤなんかスコップですくうほどに買う肝っ玉がなきゃ商売人じゃない。三輪はそういう点で極めて消極的だ」との理由で、香港宝石の買付に積極的でなかった仕入本部貴金属部長の三輪を転出させる指示をし、その後任にはそれまで家具インテリア関係・不動産関係の仕事の経験しかなかった武田安民を充てる人事異動を発令した。ところが、武田は、三越の海外仕入に被告人竹久を介入させる取扱いを承知していなかったため、同年六月同部真山課長を伴ってベルギーに出張してダイヤモンドを買付けた際、同被告人にコミッションを支払わない三越直輸入として取扱ったところ、帰国後社内で被告人岡田の怒りを買ったと聞くに及び、本店次長兼仕入本部次長吉田晃一と共に被告人竹久を訪ね、同人の執り成しの下に謝罪をし、これに対し同被告人は、「これからきちんと連絡をして下さいよ」などと述べて、今後宝石の買付にあたっては必ず竹久絡みとするよう注意した。

(7) 武田は、貴金属部長就任後昭和五二年九月に調査のため香港に出張したのち、被告人竹久の要求で同年一一月下旬真山課長、牧野浩を伴って買付のため香港に出張したが、これに同行した被告人竹久は、武田から宝石の買付状況に関する報告を聞いた際に、フーハンからの買付量が少ないことを咎め、「フーハンから沢山買いなさい。フーハンというのは社長も知っているところで、こんなことじゃ、あなたは社長に報告できないでしょう」などと述べ、武田から、フーハンの品物はグレードが低くてこれ以上買付けられないとの説明を聞くや、関根に三越側の基準に合うものを取寄せるよう命じ、揃い次第次の買付を実施したらどうかなどと言い、武田は右の要望に応じて翌月鈴木賢治を宝石買付のため香港に派遣した。その後武田は、昭和五三年三月(真山・鈴木同行)、八月(小関同行)、九月(田丸・小関同行)の三回に亘り宝石買付のために香港に出張したが、三月と九月の買付には被告人竹久が同行した。なお、同年四月末には真山・鈴木が、同年六月上旬には牧野がそれぞれ宝石買付のため香港に出張している。そして、被告人竹久は同年九月ころ三越店内の特別食堂に武田を呼んで、「社長からも聞いていると思いますけれども、良質のダイヤばっかり拾ってちゃいけないのよ。悪いダイヤも拾いなさいよ。社長もスコップで買いなさいと言われているくらいでしょう。どんどん悪いダイヤを含めて買うというのが社長の方針なんだから、あなたはそうしないと近いうちに怒られますよ」などと述べて、被告人岡田の権力を背景に武田に対し宝石の大量買付を要求をした。

(8) 一方、被告人岡田は、昭和五三年一月ころの香港出張の際、フーハン等香港コミッション方式の対象となっている宝石業者の店を被告人竹久と共に香港三越幹部社員らを同行して訪れたり、同年半ばころ香港三越の萩原、関根に対し、被告人竹久をそばにおいて、「これからの三越はピラミッド作戦でいくんだ。安いものはどんどん買ってデザインなどして付加価値を付けて大量に売り捌けばいい」、「デザインは竹久に相談しろ」と述べたりし、さらに同年九月末ころ香港において、被告人竹久から三越のバイヤーは品質を問題とするあまりフーハンからの宝石の買付を少量しか行わない旨を聞かされるや、同席していた萩原、関根に対し、「俺の指示したことができねぇのか。お前ら南の島に遊びに来ているわけじゃねえだろう。替え玉はいくらでもいるぞ」と恫喝するなどして、竹久絡みの宝石の大量買付を指示していた。

3  毛皮

前掲各証拠のほか証人松田祐之、同姶良和伸、同藤村明苗、同宇田真、同吉川政孝らの各証言等によれば、以下の事実が認められる。

(1) 三越では従来、高級商品である毛皮については、滞貨在庫発生等による商品リスクの負担を回避するため、大部分を国内取引業者からの委託仕入によっていたものであるが、昭和五二年初めころ、香港三越支配人萩原秀彦は、被告人岡田から香港三越の輸出実績を拡大するよう指示を受けたため、当時の仕入本部次長井上和雄らに対し、香港からの毛皮の直輸入を提案し、これを契機として同年五月末ころ、右井上及び本店次長吉田晃一らが香港に出張して毛皮業者であるインターナショナルファー、ロイヤルトレーディング等の商品の調査にあたり、その結果に基づき同年九月上旬輸入特選部社員高橋章文らが香港に出張して毛皮の買付を行うようになったものであるが、このころは右毛皮の買付については被告人竹久へのコミッションの支払いは行われていなかった。

(2) その後も、香港三越の毛皮担当者松田祐之が中心となり、香港毛皮業者の調査を継続し、毛皮業者サイベリアンファーの商品についての調査結果を仕入本部毛皮担当の森課長に報告したが、右業者の商品は他の業者に比較して価格が高いことなどから本格的な買付を控えていたところ、その段階で被告人竹久は、萩原支配人に対し、「陳さんにサイベリアンファーをいろいろ調べて紹介してくれるように頼んであるので、香港三越の方でもよくみていて欲しい」旨申し入れ、サイベリアンファーの商品を香港コミッション方式の対象とするよう働きかけたため、結局昭和五三年九月末から一〇月にかけて仕入本部婦人用品部主任姶良和伸が香港に赴き、サイベリアンファーから初めて毛皮の買付を行うこととなった。そして、被告人竹久は、右買付に合わせて香港に赴き、姶良の買付作業の途中で仕入本部次長榎本勝善、婦人用品部長宇田真、貴金属部長武田安民らを伴ってサイベリアンファーを訪れたり、香港三越副支配人関根良夫に対して、サイベリアンファーのコミッションをパゴダに入金して欲しい旨申し入れたりしたことから、同被告人に五パーセントのコミッションを支払うこととなり、こうして毛皮についてはまずサイベリアンファーの商品が香港コミッション方式の対象商品となった。

(3) その後昭和五四年ころ、被告人竹久は、萩原支配人に対し、「いい毛皮があれば社長にも見せましょうよ」と言って被告人岡田と共に毛皮業者を回りたいという趣旨の話をしたのち、被告人両名は一緒に香港を訪れ、萩原、関根らを伴って、それまで香港コミッション方式の対象外であったインターナショナルファー、ロイヤルトレーディング等を含めて毛皮業者を回ったが、その直後、被告人岡田は、右萩原らに対し、「毛皮は女性が着るものであるし、特に日本の女性の場合には着物の上に着たりなんかするものだから、この人に教わればいいんじゃないか」と言って毛皮の買付けに被告人竹久を関与させるよう暗に指示し、これを受けて被告人竹久も、「なかなかいいものがあるじゃないですか。私もいろいろお手伝いをするのでどんどん買いましょうよ」と言って買付に関与する意思を明らかにしたため、これをきっかけとして、サイベリアンファーのみならず香港三越の松田らが独自で開発したものを含めて香港で買付ける毛皮全部が順次香港コミッション方式の対象商品となっていった。

4  婦人衣料品等

前掲証拠によれば、次の事実が認められる。

衣料品については、前記のとおり奥山支配人の時代に単発的な取引のほか、若干の継続的取引の存在が認められ、萩原秀彦が香港三越の支配人に就任した昭和五一年五月ころには、JCエンタープライズ、ホンコンイチダ(のちにウインフィールド)、ワコートレーディング(のちにワイダーファッション)などからセーターを中心に買付ける継続的取引があり、コミッション方式の取引としては、前記バンバンのほかブラウスのメーカー一社があった程度であった。その後松田祐之が昭和五一年七月に香港三越の毛皮・婦人衣料品担当として赴任した当時には、継続的買付先として前記三社のほかマカオテキスタイルがあり、これらとの取引においては、被告人竹久にコミッションは支払われていなかったが、JCエンタープライズとマカオテキスタイルの取引については昭和五四年一月ころから、他の二社との取引については昭和五六年初めころから、いずれも同被告人にコミッションが支払われるようになった。また、松田が独自に開発したシノアメリカン、パーフェクトニット(いずれもセーター)との取引についても、一、二回目の買付からコミッションの対象とされ、その他同人の開発したプログレッシング、フォーシーズン、ワイダーエンタープライズ(いずれもドレス)ほか多数の単発的サプライヤーとの取引についても、被告人竹久へコミッションが支払われるようになり、最終的には松田の担当する婦人衣料品等についてはすべてコミッション方式の取引とされるに至った。

5  なお、香港における竹久絡み商品のうち、アクセサリー及び後半の衣料品の一部は、準直方式によって買付けられている(その内容は、検察官提出の証拠説明書Ⅰに詳しい)が、関係証拠を総合すれば、これらの商品の取入れに関し、準直方式とするか、コミッション方式とするかは、すべて被告人竹久の意向に従って決定されたものであり、各取引先毎に準直かコミッションを調査した結果は、萩原証言資料にまとめられている。香港三越の取扱高は、被告人岡田の海外直輸入戦略の拡大につれ、増加の一途を辿っているが、その内容については前記第一章第一節二の(一)の②で述べたとおりである。

四 ヨーロッパにおける初期の商品開発

オリエント交易の業務は、前記のとおり、ベンダーのビーズバッグやヘレン郭のドレスの取入れから始まったが、他方ヨーロッパ商品についても、昭和四八年九月英国展用にイギリスのマッピンアンドウェッブの銀製品を輸入したのを始めとして、同年中にギリシャのミドラ、カイザルス、フランスのファブリスの各社からも輸入し、準直方式が採られるようになった翌四九年には、右のほか、サペナ、ガンボア、ポルテブルー、P・ブラウン、オレナ、グリポア(以上フランス)、アズナー、リビアンティック、ボザート、アドリアマン(以上イギリス)、リカルドザニー、カンタメッサ、ミルタ(以上イタリア)等の商品を、昭和五〇年に入ってからはさらにジンアレン、ブラウン、ペペマトウ、ホルツハイム(ドイツ)等の商品を輸入するなどサプライヤーも急速に多様化していったものの、右の時期におけるオリエント交易の取扱商品は主としてアクセサリー類であり、三越への納入量・額も自ら制約があったが、三越の直輸入推進政策と海外基地の仕入機能の充実、強化に伴い、その後次第に商品アイテムを拡大させて婦人衣料、紳士衣料等三越の主力商品群に進出し、さらには毛皮、羽毛布団、カーペット等にまで範囲を広げ、食料品や美術品を除く大部分の商品分野に及んでいたことが認められる。

ところで弁護人は、これらヨーロッパ商品について、被告人竹久ないしオリエント交易独自の開発努力、貢献度を強く主張しているので、次に準直方式のみならずコミッション方式を含めたいわゆる竹久絡み商品のうち、争点となったいくつかの商品に対する取入れ状況を見ていくこととする。

1  マッピンアンドウェッブ

被告人竹久の当公判廷における供述、証人岡部明、同松本健太郎の各証言、「海外出張議案仕入本部」一冊(甲二125・符118)、「同本店・支店」一冊(甲二133・符126)、「通関番号台帳2」一冊(甲二380・符564)、「マッピンアンドウェッブ、ゴールドスミス初回契約書」一綴(甲二381・符565)、「英文書簡等写し」一袋(甲二382・符566)、「被告人竹久のパスポート」三冊(甲二432・符616)、「インボイス写し等」三綴(甲二448・符632)等によれば、次の事実が認められる。

マッピンアンドウェッブはイギリスの銀製品のメーカーであり、竹久絡み商品となった最初のヨーロッパ商品である。三越では既に昭和四六年の英国展用商品として、当時代理店契約を結んでいた英国のメイプルインターナショナル社(後のブランチャード社)経由で同社の製品を輸入したことがあった。

仕入部雑貨部長岡部明は、昭和四八年四月下旬増田仕入部次長から、パリ三越二号店開店の手伝いのため渡欧する際オリエント交易がマッピンアンドウェッブ社の輸入総代理店になれるよう本店特選部長岩瀬敬一郎、同貴金属部副主任岡部多佑と共に同社と交渉するよう指示され、その直後被告人竹久からも、マッピンアンドウェッブのエージェント権を取りたいのでロンドンへ行って交渉を手伝って欲しい旨依頼された。そこで岡部明は、同月末ロンドンに出張し、五月二日ロンドンに来た被告人竹久と共にマッピンアンドウェッブ社と下交渉した後、五月四日のパリ三越二号店の開店レセプションを手伝い、同月六日再びロンドンに赴き、被告人両名及び岩瀬らと共にマッピンアンドウェッブを訪れ、その際被告人岡田から、「ここはなかなかいい商品を扱っているじゃないか、エージェント権取得に協力してやれ」との指示をうけた。マッピンアンドウェッブ社との交渉はその商品担当部の岩瀬が中心となって行い、その過程でマッピンアンドウェッブ側は、三越が独占販売権を取得することには簡単に同意したものの、オリエント交易がエージェント権を持つことには非常に難色を示し、このため岩瀬らが苦心してオリエント交易の立場を三越のアドバイザーなどと説明してもなかなか納得して貰えず、すぐには同社と合意をするには至らなかったが、結局三越の希望が取入れられ、六月一八日マッピンアンドウェッブ、ナリエント交易、三越の三社の間で契約が締結された。

右契約によれば、オリエント交易が独占輸入権を、三越が独占販売権を取得することとされており、アグリーメント上ではマッピンアンドウェッブからオリエント交易へのコミッションの支払いは定められていないが、シッパーとなるブランチャード社経由でコミッションが支払われたものと推認される。この三者契約は昭和五〇年六月オリエント交易とマッピンアンドウェッブの二者契約に変更され、アグリーメント上でマッピンアンドウェッブのオリエント交易に対する五パーセントのコミッションの支払いが明記されるに至ったが、実際にはオリエント交易へのコミッション支払いは、シッパーとなったロンドン三越の東京三越に対するインボイス上に「エージェント・コミッション」の名目で計上され、ロンドン三越が東京三越から右インボイス記載金額の支払いをうけた後、右コミッション分をオリエント交易に送金するという方法で実施されていた。

弁護人は、マッピンアンドウェッブとの右契約は被告人竹久の人脈であるグローブ・サイモンやレオ・フィンレーを通じて進展したものであり、これを否定する岡部証言は全体的に悪意の粉飾に満ちていて全く信用できないという。しかし、岡部証言は古い記憶に基づいているためロンドンにおける行動の経過などに若干の記憶違いや記憶の欠落があることは否定できないが、マッピンアンドウェッブとの交渉の経過、内容は大筋において一貫していて確実性があり、マッピンアンドウェッブ視察の際の被告人岡田の指示も印象的な出来事であって、虚偽であるとはとうてい認められない(なお、当時パリ三越支配人の松本健太郎の証言によれば、同人は昭和四八年春ロンドンの岡部から、被告人竹久が会いたいといっているので至急来て欲しいとの連絡を受けてロンドンに赴き、初めて同被告人に会い、その際同被告人から「マッピンアンドウェッブを今度岡部さん達の力添えで輸入することになった」旨聞かされたと述べていることからすると、岡部はパリ三越開店レセプション前にロンドンを訪れた際マッピンアンドウェッブと接触を持ったものと認められる)。そして岡部証言によれば、マッピンアンドウェッブとの契約は三越の信用力と交渉力でもって締結されたことは明らかである。このことは、昭和五〇年六月右契約をオリエント交易とマッピンアンドウェッブとの二者契約に切り替えた際、その交渉の過程において、マッピンアンドウェッブ側は、二者契約にするなら三越・マッピンアンドウェッブ間にすべきであり、オリエント交易という実態の判らない会社と契約を結びたくないとの強い意向を示して難航し、結局三越がオリエント交易の行為につき全責任を負担するというギャランティー・レターを差し入れることによって成立した事実(甲二382「英文書簡等写し」)によっても十分裏付けられている。被告人竹久は当公判廷において、マッピンアンドウェッブとは昭和四八年一月末英国を訪れた時から交渉していたと供述するが、英国において同被告人を迎えアテンドしていた熊田宗弘の業務日誌(甲二429・符613)や同じく千葉道弘の出張報告書(甲二428・符612)には、同被告人がマッピンアンドウェップを訪れあるいは同社と何らかの接触を持ったことを表した記載は全くなく、右供述は信用できない。もっとも、マッピンアンドウェッブとの契約においては、被告人竹久の知人であるブローカーのレオ・フィンレーが何らかの形で関与していたことは窺われるが、同人では商談を進めることができないが故に、三越仕入部に助力を求め岡部らの交渉力に頼ったものと認められ、同被告人としてはただ三越に依頼してエージェント権を取ってもらったというに過ぎない。

2  ファブリス

証人松本健太郎、同岡部明の各証言、「海外出張議案仕入本部」一冊(甲二125・符118)等によれば、次の事実が認められる。

ファブリスはフランスの高級ファッションアクセサリーメーカーであり、パリ三越における最初の準直商品である。

三越仕入部雑貨部長岡部明は、昭和四八年九月ころ被告人竹久に呼ばれて竹久ビルに赴き、同被告人からファブリスのエージェント権を取るよう依頼されたため、増田仕入部次長と相談しその交渉を行うこととなったが、渡航前に被告人岡田に説明したところ、「うまくまとめろよ」と指示された。岡部は同月末から一〇月初めにかけてフランスに出張し、ファブリスの輸出代理権者であるジル・フォンテーヌらと交渉し、その過程でもマッピンアンドウェッブの場合と同様オリエント交易の立場を納得させるのに難儀したが、三越が独占販売することにポイントを置いて説明を行った。岡部は帰国後パリ三越支配人の松本健太郎に電話してその後の交渉を依頼し、松本において右ジル・フォンテーヌ及びファブリス社長ジャッキー・リスと交渉を重ねた結果、仕入部の指示によりファブリスの要求する年間一〇〇万フランという三越にとって過大と思われる最低買付量を受け入れて合意に達し、同年末ころオリエント交易・ファブリス・ジルフォンテーヌの三者間で契約が交わされた。右契約によれば、オリエント交易は独占販売権を取得することとされたが、同時に三越がファブリスの製品を販売する旨のアグリーメントが存在していて、ファブリスはオリエント交易により輸入され三越に納入されるという準直方式により実施されることとなった。

弁護人は、ファブリスはオリエント交易の渡辺康広が昭和四八年九月末から一〇月にかけて岡部と共にスペイン・フランスなどの市場調査を行った際、ジルの紹介を受けてファブリスからサンプルを買ってきたのが始まりであり、被告人竹久が岡部を介して松本に交渉させ、さらに来日したジルと交渉した結果、オリエント交易の独占販売権の獲得に成功したものであると主張し、パリでファブリスと交渉した事実がないのにこれを肯定する岡部証言は虚偽であるという。しかし、右渡辺の渡欧は岡部の出張に同行したものであって、岡部はこの時ファブリスと交渉したものであり、渡辺がファブリスのサンプルを持ち帰っていることからして岡部もファブリスに行っていることは明らかである。所論はファブリスとの交渉のきっかけが渡辺のサンプル持ち帰りの後であるとするため、岡部の渡欧の時期と合わないのである。また被告人竹久は、ジル・フォンテーヌがあたかも自己の人脈であるかのように供述するけれども、パリ三越では三越が販売しているロエベ、セリーヌ等の輸出権もジルが有していたことから同人とはファブリス以前から交流があったものである(昭和四六年の三越のヨーロッパッアーの際のパーティーにも同人が出席していることが認められる)。ファブリスとの交渉の経過を述べる岡部証言は松本証言と良く符合しており、岡部証言は被告人岡田からの指示の点を含め十分信用することができる。したがって、ファブリスが渡辺や被告人竹久による独自の商品開発の結果であるという主張は理由がない。

3  ポール・ルイ・ナリエ

証人松本健太郎、同天野治郎、同萩原秀彦、同宇田真の各証言等によれば、次の事実が認められる。

ポール・ルイ・オリエはパリのフォーマルフェアを中心とする高級婦人服メーカーである。

パリ三越の天野治郎は、昭和五〇年夏ころ同三越勤務のマダムデュブロンから得た情報に基づき、メーカー側と接触したのち、同年一〇月下旬ころ被告人竹久と共にパリに出張して来た仕入本部外国部長の松本健太郎(前パリ三越支配人)に話し、同被告人を交えてショールームで商品を見たうえ、ポール・ルイ・オリエのマネージャーと交渉して三越に取り入れ可能の感触を得たものであるが、右交渉の直後、被告人竹久が右商品に興味を持ち、松本に対し、「是非うちでやらせて欲しい。社長にも私から言っておきますから」と言って、商品の買付けにあたってはオリエント交易を通すよう要求した。その結果、昭和五一年春に萩原秀彦が買付けたときから、準直商品として取り入れられることとなったが、その際パリ三越ではマダムデュブロンから天野に対し、自分の開発した商品をなぜオリエント交易宛に送らなければならないのか強い苦情が寄せられたことがあった。松本は、萩原買付の商品の入荷直前、本店六階の特選売場において、売場巡視に来た被告人岡田に対し、今度オリエント交易経由で入るポール・ルイ・オリエの商品をこの売場でブティック展開を行う旨報告したところ同被告人は、「ポール・ルイ・オリエというのはなかなかいい商品だそうじゃないか。あれ(被告人竹久)はいいセンスをしているからこれからもどんどん使うんだな」などと発言した。さらに特選部でブティック販売して一年位経ったころ、松本は、売場巡視中の被告人岡田から、ポール・ルイ・オリエを三階の婦人用品売場に移してもっと積極的に展開するよう指示され、以後同売場で販売されるようになった。なお、パリ三越における右商品の取扱については、昭和五五年中ころ被告人竹久からコミッションベースへの切り替えを指示され、ポール・ルイ・オリエと交渉してレター交換の方式により五パーセントのコミッションをオリエント交易が取得することになり、同年秋の買付分からコミッション方式が採られるようになった。

弁護人は、ポール・ルイ・オリエとの取引は、被告人竹久が昭和五〇年秋ころ定期の買付のためパリに滞在していた時、ブティックでそのドレス類が目に止まり、店主のポールとデザイン等について意見を交わしたことなどから導入を考え、熊田パリ三越支配人に意見を具申して始まることになったものであり、当時のパリ三越では独自の商品開発を行う態勢は全くなかったから、松本や天野の証言は信用できないと主張する。しかし、パリ三越では松本健太郎が支配人をしていたことから貿易業務を手掛けており、昭和五〇年ころに同社員らが商品開発のための活動をしていたことは明らかである。マダムデュブロンの情報をきっかけにポール・ルイ・オリエと接触を持ち交渉を成立させたことを述べる両名の証言の信用性を疑うべき理由は全くない。被告人竹久は、被告人岡田の権勢を背景に同人らに要求し、同商品を準直扱いにさせたに過ぎないと認められる。

4  バレンシアガ

証人松本健太郎、同小林通暁、同天野治郎、同矢追秀一の各証言等によれば、次の事実が認められる。

バレンシアガはもともとフランスのハンドバッグ、スカーフ等のメーカーであり、その後婦人衣料に進出し、昭和五四年ころから紳士服にも進出した。

右商品は、昭和五〇年ころパリ三越の天野治郎が、香港三越出向中の竹並紘司から得た情報に基づき同社と接触したうえ、昭和五一年春ころ、前記松本健太郎や仕入本部輸入特選部長三輪達昌らの努力で三越が独占販売権(雑貨類)を取得し、同年以降三越の直輸入によって継続的に買付が実施されていたもので、バレンシアガが昭和五三年ころ婦人服部門に進出した際にも雑貨に関する独占販売契約の枠内で処理されていた。そして、三越においては、昭和五三年一一月ころの本店第二次改装に伴い、ブティック店長制を敷いたが、バレンシアガブティック店長には当時仕入本部婦人子供服主任であった小林通暁が任命された。ところが、昭和五三年一〇月被告人竹久は、パリにおいてバレンシアガが紳士服部門にも進出を予定していることを知り、当時パリ三越副支配人となっていた天野治郎に対し、「メンズバレンシアガについてはうちでやらせて貰います。帰国したら社長に話して売場を確保して貰います。横山さん(紳士用品部長横山哲)にも会います」といい、その後昭和五四年一月ころ、海外支配人会議で帰国した天野を伴って横山哲に会い、同人にメンズバレンシアガを準直扱いにすることを要求し、結局同商品は同年春以降の買付分から準直方式で輸入されることとなった。さらにそのころ、被告人竹久は天野に対し、バレンシアガの婦人服についても、「売上が良くないそうだからうちにやらせて下さい。社長にも話して販売促進にも力を入れさせますよ」とオリエント交易扱いを要求し、三越が独占販売権を有する商品であることからその処理に困った天野がバレンシアガのモッシェ社長に相談し、オリエント交易との間にコンサルタント契約を結び、レター交換方式で五パーセントのコミッションを支払う方式を採用することとなり、被告人竹久に事情を説明してその了解を得たうえ、同年春以降その婦人服についてはコミッションベースの取引となった。なお、その後三越は、バレンシアガブティック店長を前記小林に代えて竹久側近グループの代表的人物であった幸前誠を充てブティック展開をさせたほか、バレンシアガのファッションショーを定期的に開催するなどして販売促進に力を入れ、また昭和五五年ころパリに出張した被告人岡田は、天野に対し、「バレンシアガはいい商品なのでどんどん売っていかなければいかん」と発言するなどしていた。

5  セルッティ

証人松本健太郎、同天野治郎の各証言等によれば、次の事実が認められる。

セルッティはヨーロッパにおける著名な紳士・婦人衣料関係のブランド商品である。

パリ三越では昭和五二年春ころデビ夫人からセルッティの婦人物衣料の販売権の話が持ち込まれ、同年六月仕入本部輸入部長の松本健太郎が三越のヨーロッパツアーに同行してパリに立ち寄った際同夫人に会い、その権利取得のための協力を求めるとともに、天野に対しセルッティに対する一層の交渉を指示した。松本は、同年秋天野の要請で再びパリに赴き、デビ夫人を交えてセルッティの販売会社のマネージャーのデビシアと面談し、三越に対する販売代理権の付与を強力に申し入れたが、その場には秋の買付のため渡欧していた被告人竹久も同席しており、会談後同被告人は天野に対し、「あれは是非うちでやらせて下さい。今後の交渉の経過はすべて報告して下さい」と指示し、松本に対しても、「セルッティを是非取りましょう。オリエント交易でやらせて欲しい」と要求した。翌五三年初めころ右デビシアが市場調査のため来日した際、被告人竹久は同人を自宅に招いて接待したが、その席には被告人岡田も加わり販売権獲得に向け同人に積極的に対応した。デビシア帰国後被告人竹久は、松本に対し、「前にも言ったとおり、セルッティについては是非うちでやらせて欲しい。社長の了解もうちで取っておりますからね」と言って念を押し、このため松本は井上仕入本部長に相談したところ、少しでも被害を少なくするためコミッションベースで行うことになり、天野に対し、オリエント交易にソールエージェントを持たせて五パーセントのコミッションを支払う形で交渉をまとめるよう指示し、その旨被告人岡田にも報告した。その後のセルッティとの交渉の最大の難点は、オリエント交易の立場についての説明であったが、三越が全責任を負うことで説得し、昭和五三年秋ころオリエント交易とセルッティ間で契約が締結され、同商品はコミッションベースで取引されることとなった。

弁護人は、デビ夫人は被告人竹久と古くからの知合いであり、セルッティの件は当初デビ夫人から被告人竹久に打診があり、同被告人が「パリ三越の天野につないでくれ」と依頼した結果なのであり、オリエント交易が販売代理権を取得しても不合理ではないと主張している。しかし、右主張のとおりであったとしても、この程度のことでオリエント交易に販売代理権を与える合理性があるとはいえず、主張自体失当というべきであるが、所論指摘の点も事実とは認められない。松本証言によれば、同人がパリでデビシアと会った時被告人竹久が同席するようになったいきさつは、ホテルで同被告人や天野と朝食をとっていた際、天野が不用意にセルッティの話しを被告人竹久の面前でしたため、同被告人がこれを聞き付けたことによるものである。松本は朝食のあと天野を外に呼び出し、先生の前でセルッティの話を軽率にするなと注意したというのであり、この証言部分は迫真性を帯びていて、同人の証言の信用性を裏付けている。もともとデビ夫人は商品販売の仲介をすることによってコミッションを取得しようという立場の者であり、セルッティという一流ブランド商品を売込むにあたり、直接パリ三越に申し入れるのに何の障害もないのに、対外的には全く無名で信用力のないオリエント交易の被告人竹久に打診するというようなことは考え難い。したがって、デビ夫人と関連付けてセルッティとの契約に対する貢献を強調する被告人竹久の当公判廷における供述は信用できない。

6  アルニス

証人松本健太郎、同天野治郎、同矢追秀一の各証言等によれば、次の事実が認められる。

アルニスはフランスにおけるスーツ・ジャケット・スラックス等紳士用品のメーカーである。

仕入本部輸入部長松本健太郎は、昭和五二年初めころ、セリーヌを三越に納入していたJCCジャパンの元営業部長有賀某から、JCC退職の挨拶とともに、今度ジル・フォンテーヌとEDAという会社を日本に作り、アルニスの商品開発を行うので三越において扱って欲しい旨依頼を受けた。松本は、セリーヌの導入の時に有賀に相当尽力して貰ったことがあったため、できるだけ同人に協力しようと考えていたところ、その後被告人竹久が有賀を伴って訪れ、「有賀さんがアルニスという商品を開発しています。是非三越でも扱って欲しい。私どもを通してやって欲しい」とアルニスを準直方式で取扱うよう要求した。そこで松本はやむなくアルニスを直接三越で取り入れることを断念し、同商品は同年三月ころからオリエント交易経由で三越に納入されることとなった。

弁護人は、被告人竹久が三越の青壮年層の紳士服の導入を松本と検討していたところ、ジル・フォンテーヌからアルニスの製品の紹介を受け、同社の販売代理権を持つEDAの有賀と交渉し取扱うようになったものであると主張する。しかし、松本がアルニスの導入を考えたのは有賀の申し入れによるものであり、しかもその時にはオリエント交易のことは念頭になかったことは松本証言によって明らかである。同証言によれば、松本は、有賀が二度目に被告人竹久と一緒に来たとき、あとで同人に電話し、三越と取引したいのならなぜ直接言ってこないのかと注意し、有賀が謝罪したことが認められ、この事実は松本がアルニスをオリエント交易抜きで取り入れようとしたことを示している。被告人竹久のいうように、ジル・フォンテーヌのルートでアルニスを知り、三越に取次いだとしても、オリエント交易がアルニス側からコミッションを受領するのならともかく、三越の負担でマージンを取る理由にはならない。

7  ショーメイ

証人松本健太郎、同天野治郎の各証言等によれば、次の事実が認められる。

ショーメイはフランスの宝石・高級装身具のメーカーであり、もと伊勢丹がソールエージェントを持っていたことのあるメーカーである。

昭和五二年夏ころ、前記松本健太郎は、ショーメイ、ブセロン、バンクリフト等有名貴金属メーカーの国内契約の存否について、仕入本部貴金属部長武田安民に調書を依頼し、同部長から伊勢丹とショーメイとのエージェント契約が切れているらしいとの報告を受け、パリ三越の天野治郎に連絡し調査を命じたところ、すぐ被告人竹久から、「伊勢丹とショーメイの関係が切れているらしいじゃないですか。ショーメイについて積極的にやりましょう」という話があり、その後武田部長のもとへも同被告人からオリエント交易にソールエージェント権が欲しいとの働き掛けがあり、さらに天野に対しても松本の右連絡の直後、同被告人から国際電話で松本に対すると同様の話がありショーメイの件はすべて連絡するよう指示がなされた。ショーメイとの交渉は天野の努力によって続けられ、三越がエージェント権を獲得できる方向で進展していたが、松本及び武田は、被告人竹久からの要求に対応するため井上本部長と相談し、オリエント交易を関与させるのならコミッション方式で行うことにし、その旨天野に伝えられた。これを受けて天野は、ショーメイと交渉したところ、ショーメイ側はオリエント交易は知らないといってエージェント権付与になかなか同意しなかったが、三越が全責任を持つというレターを差し入れることでようやくその承諾を取り付けた。そして、昭和五三年春、松本は、被告人岡田に対しショーメイをコミッションベースで取り入れる旨報告したうえ、被告人竹久を伴って渡仏し、ショーメイとの間にミニマム金額を取り決め、最終的には、契約は同年六月三越ツアーで被告人両名がパリに来た際締結され、同年九月ころからコミッションベースによる取引で買付がなされるようになった。

8  バルトロメイ

証人岩倉俊介、同松本健太郎、同中山勝彦の各証言等によれば、次の事実が認められる。

バルトロメイはイタリアにおけるハンドバッグ・ベルト・皮小物等皮製品のメーカーであり、ローマ三越における最初のコミッション方式による商品である。

ローマ三越の副支配人岩倉俊介は、昭和五二年秋ミラノの展示会でバルトロメイに目を付け、同社長と面談し、三越において独占販売権を獲得できる感触を得たため、仕入本部次長松本健太郎に連絡したところ、ミニマム契約なしに取得できるかを打診するよう指示され、バルトロメイと接触し内諾を得た。ところが、そのころ被告人竹久から電話で、ローマでいい商品が見付かったかと聞かれ、バルトロメイの話しをしたところ、オリエント交易で独占販売権を取るよう要求され、松本の指示を求めた。一方、松本もそのころ被告人竹久から同様の要求を受け、井上仕入本部長と相談した結果、被告人竹久に知られてしまった以上やむを得ないが、三越として被害を少しでも少なくするためコミッション方式しかないということになり、その旨岩倉に連絡してその方向で交渉するよう指示した。そこで、岩倉においてバルトロメイと下交渉をしたうえ、昭和五三年四月松本が被告人竹久同道でイタリアに赴いてバルトロメイと話し合い、オリエント交易が独占販売権を取得し、三越が五パーセントのコミッションを支払ってその販売権を譲受けることで合意に達した。被告人竹久は、準直方式にすればもっと利益が得られたのにコミッション方式で契約したため不満気であったが、同年六月バルトロメイ・オリエント交易・三越の三者間で契約が締結され、以後コミッションベースで同商品の取入れがなされることとなった。

五 被告人岡田の直輸入拡大戦略と右方式の拡大(前記第一章第一節二の(五))

(一) この点に関する弁護人らの主張は、要するに、三越では昭和五〇年代初めころまでは直輸入推進政策はとっておらず、直輸入に力を入れ出したのはせいぜい昭和五二年以後のことであり、それまでは海外基地も仕入基地としての機能を有していなかったのであるから、被告人岡田の直輸入推進政策はオリエント交易の設立とは無関係であり、被告人竹久及びその関係会社を儲けさせる目的で実行されたものではないというのである。

(二) 被告人岡田の直輸入政策及びその推進・拡大の経緯については、先に「背景事情」の項で認定したとおりであり、これを被告人竹久やその経営するオリエント交易及びアクセサリーたけひさに関係付けていえば、被告人竹久は、三越がパリ三越や香港駐在員事務所を設けて三越の直輸入体制作りに取り掛かった時期に、これに触発されてオリエント交易を設立し、自己と愛人関係にある被告人岡田の強力な援護を受け、同被告人と意思を相通じ、オリエント交易を核とする竹久絡み輸入方式を三越の海外商品輸入業務のシステムに組み込み定着化させたうえ、被告人岡田の積極的な指示・助力を背景に、同被告人の推進する直輸入拡大政策に便乗し、自己及び関係会社の利益を得たという構造になる。したがって、ここで直接問題となっているのは、被告人岡田の直輸入推進政策そのものではなく、同被告人が被告人竹久あるいはその関係会社を三越の直輸入体制に絡ませ、これを利用して被告人竹久らの利益を図ったことの当否ということであり、ただ本件においては、オリエント交易が三越の直輸入政策とともに生成、発展し、さらに竹久絡み輸入方式が既に述べたように三越の輸入量が増えれば増えるほど被告人竹久及び関係会社の利益が上がる仕組みになっていて、三越の直輸入の推進・拡大はそのまま同被告人らの利益に結び付いていたため、被告人岡田の直輸入政策は本件犯行の不可欠な背景事情となっていたものである(検察官も同様の主張をしていることは論告の内容に照らし明らかである)。そこで右の理解を前提に、弁護人の主張にかんがみ、被告人岡田の直輸入政策について若干説明を加える。

(イ) 外国展に伴う直輸入について

昭和四一年に行われた「大ナポレオン展」の外国商品販売面における成功が、直輸入推進策を被告人岡田の持論とさせるとともに、その後の同被告人の商品政策に大きな影響を与えたことは、宮崎喜三郎及び杉田忠義のそろって証言するところであり、このことは、その後三越において毎年外国展を開催して外国商品の販売を行っている事実によっても裏付けられている。弁護人は、大ナポレオン展を始めとする外国展は集客のための文化催事の性格が強く、海外商品の販売を目的としたものではないとして、直輸入としての意義を否定するが、関係証拠によれば、「大ナポレオン展」の成功というのは、同展でこれまでになく大量の直輸入商品を扱い、しかも販売予測が的中して会期内でほとんど売り尽くし、三越の利益が極めて大きかったという点が評価されたからであり、以後の外国展も文化催事を利用した商品販売の性格を持つものであり、こうした被告人岡田のアイデアにかかる直輸入商品の販売方法は昭和四一年以降の三越の商法の特徴となっているのである。したがって、外国展における商品直輸入の意義は決して小さくなかったと考えられる。なお、弁護人は、「大ナポレオン展」の商品買付は国内の貿易会社が輸入したもので三越の直輸入品は皆無に等しいというが、同展の商品買付のためフランスに出張した当時の本店雑貨部長細野耕二の証言によれば、この時の商品買付は三越がインポーターとなって行った直輸入であったことが認められる。

(ロ) 海外基地の設立と仕入機能について

海外基地が設立され仕入基地としての機能を果たすためには、もちろん日月の経過を必要とし、昭和四六年に設立されたパリ三越の業務が当初日本人旅行客を相手にした土産物の販売と現地外国人に対する日本商品の販売であったことは所論のとおりである(もっとも、オリエント交易設立時の目的商品は香港商品であったところ、香港三越の場合は、店舗の開設は昭和五六年に至り漸く実施されたもので、基地は、当初から商品開発や情報収集を目的とし、オリエント交易の取扱商品であるビーズバッグ等の香港雑貨の買付業務に関与している)。しかし、三越が海外基地を設立するにあたって、海外商品の取入れ及び商品情報の収集をも主要な目的とし、その役割に期待していたことは、その後の各基地の業務の推移を見ても明らかであるばかりか、被告人岡田の社長就任後最初の年頭(昭和四八年)の挨拶(「今年は特に海外の仕入網・情報網の一層の拡充・強化を計り、世界各国からの商品輸入を活発に行う」・金字塔一四一号、このほか社長就任直後の店員との座談会における発言内容・金字塔一三七号四頁、「岡田茂社長経営談話抄」第一巻一三二頁)、松田前社長の昭和四七年の年頭の挨拶(「いよいよ積極的に国際的に商品情報を吸収しまた斬新な国際的優秀品を取入れる拠点として活発に効果を挙げつつある」・金字塔一三五号、このほか同人執筆の「私の履歴書」・金字塔一三八号四五頁)等によっても容易に窺い知ることができる。また、オリエント交易の取扱った初期の商品は香港商品はもとより、マッピンアンドウェッブ、ファブリス等ヨーロッパ商品の取入れもすべて東京三越の社員とこれら基地の社員の尽力によってなされたものである。このようにみてくると、オリエント交易、被告人岡田の直輸入政策、海外基地は、相互に密接に関連していると認めざるを得ない。

(ハ) 直輸入政策の東南アジア地域商品への重点移行について

被告人岡田の直輸入戦略が昭和五三年ころから香港を中心とした東南アジア諸地域の商品を重視する方向に転じたことは、宮崎喜三郎、杉田忠義、井上和雄ら三越幹部社員の一致して証言するところであり、その結果は、香港三越における取扱商品アイテムの拡大(萩原秀彦の証言資料⑩参照)及び輸出取扱高の顕著な増加(昭和五二年度約二五〇〇万香港ドル、同五三年度約五八〇〇万香港ドル、同昭和五四年度約八五〇〇万香港ドル、同五五年度約八七〇〇万香港ドル、同五六年度約一億六〇〇万香港ドル)となって表れている。被告人岡田も、検察官に対する昭和五七年一一月二九日付供述調書において、経済の低成長、消費の一巡、買控え傾向等による欧米高級商品の売行鈍化など当時の経済状況の中で右方針を取った経緯を述べている。弁護人は、欧米商品の取入れはその後も減少しておらず、宮崎らのいう欧米高級商品中心主義から東南アジア諸地域の「価格訴求商品」の大量輸入への方針転換はなかったと主張するが、宮崎らのいう戦略転換は、欧米商品の取入れを減少させるという意味での方針変更ではなく、今後香港商品の市場性を重視し同商品の取入れを強力に推し進めるという意味での海外商品の重点移行と理解すべきである。なお、弁護人は、右戦略転換の一原因となった昭和五三年一一月及び一二月に相次いで起こった偽エルメス、偽グッチ事件による三越の欧米高級商品の売行きに対する影響はなかったと主張するが、三越が所論のいうように「我国で一、二を誇る伝統と格式を有するプレステージの高い超高級百貨店」であるなら、当然三越の信用や売行きに対する右事件の影響は少なくなかったものと推認され、実際右事件がその後の三越の高級ブランド商品の取入れに対するブレーキになったことは、これらの商品を担当した石井幹男、山上孝一がそれぞれ検察官に対する供述調書において述べているところである。また弁護人は、同年一一月の公正取引委員会の三越に対する立入検査も被告人岡田の政策転換と無関係であるというが、前記宮崎、杉田、井上がいずれも証言するように、被告人岡田は右の公取問題で国内取引業者の協力が得られなかったためこれら業者に対する不信を募らせ、このため国内商品より海外商品へ一層の関心を寄せるようになり、このことが折から重点を移行しつつあった東南アジア商品の取入れ推進を促す一要因となったことは十分考えられる。

六 準直方式とオリエント交易の業務

三越で海外商品を買付けるにあたっては、仕入本部の各商品担当部の社員がバイヤーとして海外に出張し、三越の海外基地の社員のアテンドを受けてメーカーあるいは展示会場に赴き、自ら買付商品の選定にあたり、価格、船積時期等に関する各種交渉を行ったうえ、発注手続を行うという経過を辿り、準直方式による商品買付手続においても同様であったことは、前記背景事情(四)の①・4(1)(準直商品の買付手続)で認定したとおりである。他方、準直方式にしろコミッション方式にしろ竹久絡み輸入方式の対象となったものは、被告人竹久が三越の海外基地社員あるいは仕入部の幹部社員に要求して販売代理権等を取得して貰った商品のほか、自らバイヤーの買付に同行しあるいは柳田を中心とするオリエント交易社員らを同行させた商品であり、しかもいったん竹久絡みとなった商品は、その後被告人竹久あるいはオリエント交易社員の同行の有無にかかわらず同様に取扱われていたものである。したがって、竹久絡み商品に関するオリエント交易の業務の実質は、専ら右の二人の活動に依存していたといって差し支えない。そこで次に同人らの活動の実態を見ていくこととする。

(一) 柳田満の活動について

1 柳田満、天野治郎、中山勝彦、吉川政孝、小林通曉、姶良和伸、小林昭三郎、関根良夫らの各証言等によれば、次の事実が認められる。

(1) 柳田満は、海員養成所を卒業後、船会社で約五年間、次いで事務機器の販売会社で約九年間勤務した後、昭和四八年一〇月アクセサリーたけひさに入社し、アクセサリー類の販売に従事していたが、昭和五〇年三月ころオリエント交易の降旗営業部長が退職したあとを受けて同社の業務に携わるようになり、昭和五二年三月被告人竹久に同行してヨーロッパに出張したのを始めとして、昭和五七年九月ころまでの間三〇回にわたりオリエント交易の業務のために渡航している。このうち八回が香港、タイ等東南アジア方面であるが、その余はフランス、イタリア、ドイツを中心としたヨーロッパであり、同人の役割は主としてヨーロッパにおける竹久絡み商品の買付に関するものといえる。

(2) 関係証拠、とくに証人柳田満の証言及び同証人の尋問に関連して検察官・弁護人の双方から提出された証拠物に基づき、柳田の海外出張時における具体的行動を簡単に追って見ると以下のとおりである。

□ 第一回(昭和五二年三月二〇日~三〇日) イギリス→フランス→イタリア

これまで海外へ行った経験がなかったため被告人竹久との同行を命ぜられたもの。同被告人の長女裕美子も加わり三人同一行動。最初イギリスに赴き、前日同国に入っていた仕入本部婦人用品部長宇田真のタータン関係の衣料買付に同行。次いでフランスに渡り、宇田のポール・ルイ・オリエの買付に同行。その後フランスに来た仕入本部輸入部長松本健太郎と共にイタリアに行きその買付に同行後帰国。アテンドは各海外基地社員(以下同じ)。

□ 第二回(同年九月三日~二五日) イギリス→イタリア→フランス→ドイツ→スペイン→フランス

被告人竹久の指示で出張(以下同じ)。出発から帰国まで仕入本部雑貨部課長阿部真太郎と同一行動。阿部は各地でアクセサリー類を買付。この期間中、昭和五二年下半期商品買付のため、仕入本部次長吉田晃一、同雑貨部長上条豊、同紳士用品部長横山哲等七名もヨーロッパに出張滞在。アテンドは、当時基地のなかったドイツではロンドン三越の岡、スペインではパリ三越のソニア。

□ 第三回(同年一二月一四日~一七日) 香港

前記阿部(副部長)と同一日程で同人がベンダー等で天然石等を買付けるのに同行。

□ 第四回(昭和五三年一月一四日~二月四日) フランス→オランダ→イギリス→イタリア→フランス

前記阿部と終始同一行動。阿部は右の各国でオレナ、アドレアマン、ササ等のメーカーのほか、フランスのビジョルカ、イタリアのキビカの展示会に行きアクセサリー類の買付。オランダへはパリ三越の天野治郎がアテンド。この期間中、昭和五三年上期展開用商品買付のため、前記吉田次長等五名がヨーロッパに出張滞在。

□ 第五回(同年三月二九日~四月一八日) イギリス→イタリア→フランス→イタリア→スイス→フランス

仕入本部貴金属部長武田安民、同婦人子供用品課長玉置昭光と共にイギリスに渡り、アクセサリー類、婦人衣料の買付けに同行。次いで玉置とイタリアに行き、展示会ピチドンナ等での買付に同行。この後フランスに入り武田と合流、同人と帰国まで行動を共にし同人の買付に同行(スイスでは貴金属関係のバーゼル展示会に行く)。この時期被告人竹久が前記宇田婦人子供用品部長の買付に同行してフランス、イタリアに来たほか、前記松本(仕入部次長)等四名もヨーロッパに出張滞在。

□ 第六回(同年四月二四日~三〇日) 香港→フィリピン

第七回(同年六月三〇日~七月五日) 香港→タイ

第八回(同年八月二日~八日) タイ→香港

右第六、七回の出張では前記阿部雑貨部副部長と同一日程で同人のアクセサリー類の買付に同行。第八回の出張では被告人竹久、前記武田貴金属部長、同部社員小関正勝と共にタイに入り、小関らのゴールドジュエリーの買付に同行、同時に帰国。アテンドはいつも香港三越の関根良夫。

□ 第九回(同年八月二七日→九月三〇日) ドイツ→イギリス→フランス→オーストリア→イタリア→ギリシャ→フランス→イタリア

前記阿部副部長と出発し、九月二二日ころのフランス行きまで同一日程で行動、各地でのアクセサリー類、洋傘の買付及び見本市、展示会に同行。阿部は二四日帰国し、柳田はイタリアに赴きパリ三越の天野らと同一行動の後帰国。この期間中、昭和五三年下期展開用商品買付のため、仕入本部の紳士用品、家庭用品、雑貨、家電等の各部の社員八名もヨーロッパに出張滞在。アテンドは、ドイツではロンドン三越の白沢たつ子、オーストリアはソニア、ギリシャはローマ三越の中山勝彦。

□ 第一〇回(同年一〇月一八日~二三日) タイ

柳田は先にタイに入っていた前記阿部副部長と合流し、タイリム等の買付に同行、一緒に帰国。タイリムが大量に入った時期である。

□ 第一一回(昭和五四年一月二四日~二月二六日) タイ→イタリア→フランス→イギリス→フランス→イタリア

柳田は仕入本部次長榎本勝善と共にタイに行き、先にイタリア経由で来ていた前記阿部及び本店輸入特選部副部長岡部多佑と合流して、シルバーアクセサリーの買付に同行。その後榎本とイタリアに行き、バルトロメイ等の買付に同行、フランスでは同人及び玉置婦人子供用品部課長のポートベルサイユでのセーター等の買付に同行。次に榎本とイギリスに渡り、同人及び遅れて入って来た婦人子供用品部主任竹並紘司のタータン衣料等の買付に同行。榎本の帰国後は竹並とフランスに戻り、そのころ入って来た紳士用品部課長矢追秀一のバレンシアガの買付に同行。その後同人及び竹並とイタリアに行きその買付に同行したうえ帰国。この時期には、昭和五四年度展開用及び英国展用商品買付のため、仕入部の各担当部から一〇数名がヨーロッパに出張滞在。

□ 第一二回(同年三月二四日~四月二三日) タイ→イタリア→スイス→フランス→イタリア→フランス→イタリア

柳田は前記阿部副部長及び雑貨部課長諏訪部勇とタイに行き、デリバリー商品のチョックに同行した後、単独でイタリアに行き、同日日本からイタリアに入った仕入本部婦人子供用品部主任鈴木栄一及び本店婦人子供用品部主任高見信雄と合流し、リザジャージ等の買付に同行。次いで高見とスイスに行き、榎本次長と合流してカトリーヌの生地買付に同行。さらに同人らとフランスに行きポール・ルイ・オリエ等の買付に同行。その後はイタリアで榎本、フランスで婦人子供用品部主任小林通曉、再びイタリアで本店輸入特選部主任幸前誠、矢追紳士用品課長の買付に同行した後帰国。

□ 第一三回(同年五月二九日~六月三日)

第一四回(同年八月三日~八月九日) いずれも東南アジア(省略)

□ 第一五回(同年九月五日~一〇月二一日) フランス→イタリア→ドイツ→フランス→イタリア→イギリス→フランス→イタリア→フランス

柳田は前記幸前主任と同時に日本を出発してフランスに入り、そのころ昭和五五年上期展開用商品買付のため被告人竹久及び仕入本部各部の多数の社員が先にイギリス経由でフランスに来ていたのと合流。フランスで矢追紳士用品部課長らのバレンシアガ等の買付に同行した後、イタリアで諏訪部雑貨部課長、武田貴金属部長らの買付及び展示会行に同行。その後一か月間にわたり、それぞれのバイヤーと一緒にドイツ、フランス、イタリア、イギリスを回り買付に同行。宇田部長らと同時に帰国。

□ 第一六回(同年一一月二三日~一二月二日) ドイツ→フランス

柳田は仕入本部婦人子供用品部主任姶良和伸と同日出発してドイツに入り、ドイツ三越の吉川政孝らのアテンドを受けて、マルコ、ローゼンバーグレーンハート等の毛皮の買付に同行し、その後姶良と別れてフランスに赴き、天野らパリ三越関係者と接触。この時柳田の借りるアパートの下見の用があったものと思われる。このアパートの件は、被告人竹久から天野に対し、「社員がヨーロッパを行ったり来たりすると経費がかかるのでパリに住まわせたい。柳田は言葉ができないので、パリ三越の人が入っているレジデンスに住まわせて面倒みてあげて欲しい」との依頼に基づくもの。三日滞在し帰国。

□ 第一七回(昭和五五年一月六日~二月二八日) フランス→ドイツ→フランス→イタリア→フランス→イギリス→フランス→イギリス→フランス→イタリア→フランス→ドイツ→フランス→イタリア

被告人竹久の同行する多数のバイヤーがヨーロッパを中心に出張している時期である。柳田はバイヤーが入る数日前にフランスに行き初めてのアパート生活。翌日単独でドイツに赴き、吉川らのアテンドを受け既に東京三越とドイツ三越で打合せ済みのタオルの買付。いったんフランスに戻ったあと単独でイタリアに行き、ローマ三越の中山のアテンドで皮革関係の展示会。再びフランスに戻り、仕入本部輸入本部付主任宮本恵司といくつかの展示会を回りアクセサリー類、雑貨類の買付に同行したのを始めとして、その後続々とヨーロッパに入って来たバイヤーと一か月間にわたりイギリス、フランス、イタリアを巡り多数の商品の買付に同行。数日間バイヤーの居ない日をフランスで過ごし、同本部雑貨部課長国谷征治とドイツの展示会に行った後、同人と別れフランス、イタリアで一、二日間滞在したのち帰国。

□ 第一八回(同年三月一三日~四月二〇日) イタリア→ドイツ→フランス→ドイツ

柳田は仕入本部婦人子供用品部主任小林通曉、本店婦人子供用品部ブティック主任高見信雄、同岩本宏次と共にイタリアに入り、リザジャージ、ジュルマル等の買付に同行。その後小林とドイツを経てフランスに行き、被告人竹久と同行する数名のバイヤーと合流したうえ、小林、高見らの買付に同行。小林らの帰国後フランスに来た仕入本部姶良婦人子供用品部主任とバレンシアガ、アンドレチガネ等の買付に同行し、さらに同人とドイツに赴き毛皮の買付に同行後、いったんフランスに戻りすぐ帰国。

□ 第一九回(同年五月四日~二一日) フランス→スイス→ドイツ→フランス

柳田は単独でフランスに行き、カトリーヌの生地買付のため先に入っていた婦人子供用品部主任原敏治と合流し、同人と生地資料館に立ち寄るなどしたあと、パリ三越の鈴木伸之のアテンドを受けてスイスでの原の買付に同行。次いでドイツに一緒に移り、宇田仕入本部次長と合流したうえ二人の生地買付に同行、その後原と別れ、宇田とフランスに戻りバレンシアガの買付けに同行した後同時に帰国。

□ 第二〇回(同年八月二八日~一一月一六日) フランス→ドイツ→イギリス→(省略)→ベルギー→ドイツ→フランス

長期滞在の始まりであり、この間バイヤーの出入りも頻繁で被告人竹久が同行している買付もある。柳田は仕入本部紳士用品部長桜田守彦、本店紳士用品部主任宮崎照男と一緒に出発し、いったんフランスのアパートに寄った後ドイツに行き、右桜田らと九月二〇日ころまで同一行動を取りその買付に同行。その間イタリアでは本店輸入特選部課長川南盛充の買付にも同行。次いで仕入本部小林通曉婦人子供用品部課長と一〇月一〇日ころまで行動を共にし買付に同行。その後仕入本部家具電器部課長高橋良夫とドイツで合流し同月末ころまでその買付に同行。続いて一一月初めころドイツに来た仕入本部呉服部課長友竹智に付き一〇日間位買付に同行し、同人より一日遅れて帰国。

□ 第二一回(昭和五六年一月八日~四月一六日) フランス→ドイツ→フランス→(省略)→ドイツ→フランス

この間被告人竹久も二回買付に同行しており、常務取締役仕入本部長斎藤親平も訪れている。柳田はバイヤーに先立ちフランスに入り数日過ごした後、高橋家具電器部課長に合わせてドイツに赴き、一〇日間ほど同一行動をしたのを始めとして、右出張中の大半を次々やってくるバイヤーの各国での買付の同行に費やしている(二月九日ころから同月二〇日ころまで仕入本部婦人子供用品部副部長平出昭二、三月上旬本店輸入特選部社員大庭恒和、同月中下旬及び四月上旬小林通暁婦人子供用品部課長、同月下旬竹並同課長、四月上旬姶良同課長等)。この間の若干の特徴的な行動としては、二月四、五日のイスラエル行き(秋に予定されていたイスラエル展の商品調査のため東京三越の指示でパリ三越の天野が同国の展示会に行ったのに同行)、同月二三日、二四日のドイツ行き(単独で行きドイツ三越の吉川らのアテンドによりインターナショナルメッセを見学)、三月二八日ないし同月三〇日のスペイン行き(天野のアテンドにより自らジャケット三点を買付)等である。

□ 第二二回(同年六月二八日~七月一四日) フランス→ドイツ→フランス→イタリア→フランス

単独でフランスに行き、三日遅れて入って来た榎本仕入本部次長、岡村篤本店紳士用品部主任のバレンシアガの買付に同行。次いで同人らとイタリアへ行き、営業統括室海外担当付部長天野治郎(五月二八日付でパリ三越から異動)と合流し、同人らのバレンシアガ等の買付に同行。天野とフランスに戻り二日後帰国。

□ 第二三回(同年八月一一日~一七日) 香港(省略)

□ 第二四回(同年八月~一一月六日) フランス→イタリア→(省略)→ドイツ→フランス

秋の定期買付であり、被告人竹久の同行する買付もある。柳田はバイヤーより数日前にフランスに入った後イタリアに行き、ローマ三越の社員のアテンドを受けて展示会場でバイヤー抜きでアクセサリー類の買付。その後フランスに入った仕入本部呉服部長小林昭三郎とフランス、ドイツ、スイスへ、続いて小林通暁婦人子供用品部課長とフランス、スペイン、イギリスへ、さらに同部主任原敏治とイタリア、ドイツ等を回り、それぞれの買付に同行。

□ 第二五回(同年一一月二九日~一二月六日) フランス→ドイツ→イギリス→イタリア→フランス

被告人竹久の指示により準直方式をコミッション方式に切り替えるため海外基地との連絡打合せに出張。

□ 第二六回(昭和五七年一月一二日~二月二六日) ドイツ→フランス→イギリス→(省略)→イタリア→フランス

フランスに立寄った後すぐドイツに入り、既に来ていた家具電気部副部長高橋良夫と合流し出張の前半の期間を同人の買付に同行、後半の期間は紳士用品部課長青木英雄の買付に同行。その中間において約五日間にわたりパリ三越の斎藤峰明に同行してスペインに赴き、準直方式の場合にメーカーのオリエント交易に対するインボイス上に記載されるコミッション受領者のパリ三越の名前が表示されないようメーカー等との交渉を右斎藤において行う。

□ 第二七回(同年三月九日~四月六日) フランス→オーストリア→イタリア→(省略)→スペイン→フランス

柳田は営業統轄室総合バイヤー平出昭二、仕入本部婦人子供用品課長小林通暁と同時にフランスに入り、出張の前半の期間を両名の買付に同行し、途中姶良同部課長の買付にも同行。後半の期間を鈴木悟郎仕入本部次長の買付に同行。

□ 第二八回(同年四月二六日~五月一六日)

□ 第二九回(同年七月六日~二〇日)

□ 第三〇回(同年九月八日~二九日)

(右の各出張先はいずれもヨーロッパであるが、アクセサリーたけひさ経由で三越へ納入された商品は概ね前回までの出張分の買付で終了しているので省略)

(3) 右のとおり、柳田は昭和五四年一一月の第一六回目の出張までは三越のバイヤーと一緒か、または少し遅れて海外に赴き、経費の関係でフランスにアパートを借りるようになった翌五五年一月の第一七回出張時ころからは時折バイヤーに先立ち一人でフランスに渡ることもあったといえる程度であって、全体的にみれば、バイヤーとほぼ同時期に出発していたということができる。そして、右出張中の柳田の行動は、ほとんどバイヤーの買付同行に費やされており、しかもそれらは海外基地で事前に作成されたバイヤーの買付スケジュールに従ってなされているものである。もっとも、柳田の長期にわたるヨーロッパ滞在中には、フランスを拠点としてバイヤーと離れて行動している形跡もないわけではない。例えば、ドイツの場合は、第一七回目の出張時(昭和五五年一月)以降三、四回単独で同国へ行き、ドイツ三越の吉川、岡部らのアテンドを受けてメッセやフェアーに行っていること(柳田証言資料173参照)、スペインの場合は、第二一回目及び第二六回目(昭和五六年三月及び同五七年一月)の出張時の二回パリ三越の天野あるいは斎藤のアテンドにより同国のメーカーを訪れていること(同資料184参照)、イタリアの場合は、第一七回目の出張時以降五、六回単独で同国に赴き、ローマ三越の杉本、中山のアテンドにより展示会場等へ行っていること(柳田証言によれば、バイヤー抜きでアクセサリーを買付けたのは二回で、このうち一回はチッキーニの弟と二人で行ったと言う)、フランスの場合は、パリ三越のソニア、和田等のアテンドを受けてイタリアの時以上に展示会場へ行き自らアクセサリーの買付をしていることなどである。しかし、柳田単独の行動があったとしても、それは、専ら昭和五五年ころからであるうえ、回数もそれほど多くなく、しかも同人には語学力がないため、必ず各基地のアテンドを受けなければならないという状況であったのであるから、自立的な行動といえるものではない。したがって、柳田の行動に独自の商品開発活動あるいはバイヤーの商品買付のための事前準備または下調査と評価できるものがないのは当然である。アクセサリー類に関するバイヤー抜きの買付も、バイヤー以上に柳田に買付能力があったためとはとうてい認められず、かえって全品納入が予定されている商品の買付を納入者側の社員に一任していたという事実こそ、三越とオリエント交易との特殊な関係を示す証左である。バイヤー買付時の柳田の行動、役割の実際については、バイヤーが買付商品を選定し、メーカーとの価格・船積時期等各種の交渉をするにあたって、柳田が何らか有用な働きをしたことを窺わせる証拠は全くない。このことは、三越のバイヤー達がいずれも担当商品分野に関し、仕入や販売の長い経験を有するベテラン社員であることと対比して、柳田の経歴、語学力等を考えれば、むしろ当然のことと思われる。バイヤー達の証言によれば、柳田は被告人竹久に報告するため、買付時のバイヤーの傍らで買付数量・金額をメモしたり、商品の写真を撮り、あるいはオーダーシートの写しを回収し、時にバイヤーに言われて自ら署名するという程度のことをしていたに過ぎないのであり、同人のこうした行動は、バイヤーに対し、勝手に竹久絡み商品から外さないよう監視している印象を与え、バイヤーの買付の判断にはマイナスの影響を及ぼしていたものと認められる。柳田自身検察官に対する供述調書において、「買付をするようになったといっても、アクセサリー関係の一部を除けばマーケットリサーチから実際の買付業務、オーダーシートの作成などはすべて三越サイドでやっていたことで、具体的にはこれといった仕事をしていたわけではありませんでした(一項)。オリエント交易には海外駐在所もなく私の手足となって働いてくれる者もおらず、また私自身も英語が少々話せる程度でそれもごく普通の日常会話がなんとかできる程度ですから、三越の海外基地の人に手助けしてもらわなければ自分一人ではとてもマーケットリサーチや商品買付はできない状態でした。ですから私がヨーロッパでマーケットリサーチや買付をする時には三越の海外基地の社員についてきてもらって通訳やらオーダーシートの作成やらをやってもらっていたのです。ですから私が買付けたアクセサリーについてさえ、オリエント交易が買付けたと胸を張って言えるようなものではなく、たとえ私の働き分を評価してもらうにしてもオリエント交易がとる五パーセントのマージンでも充分過ぎる程で、そのうえにアクセサリーたけひさが一五パーセントものマージンを取ってよい理由にはならないと思っていました。アクセサリー関係以外のものについては、私を含めてオリエント交易の者にはほとんど商品知識もありませんでしたから、マージンを取るために三越のバイヤーにくっついて行っただけというのが実情で、三越のバイヤーやアテンダーの人達から見ればついてきてくれない方がよいと思われたとしてもやむを得なかったと思います。だいたい自分の所が高いマージンを取って納品する品物を納品先の会社のバイヤーがわざわざ海外へ出張して買付けてくれるというようなめちゃくちゃな取引形態は日本中どこをさがしてもないと思います(八項)。」と述べており、この供述は事の実態をほぼ正確に伝ええいるものと思われる。

2 これに対し、弁護人は、商品買付における柳田の行動の実績を高く評価し、オリエント交易が竹久絡み商品についてマージンないしコミッションを取得するに値する十分な活動をしていた旨主張しているので、次に論点ごとに検討を加えることとする。

(1) 買付前の三越仕入各部との打合せについて(被告人竹久関係弁論要旨三六三頁以下)

弁護人は、三越は買付計画の参考にするため、柳田が海外においてバイヤーが帰国した後収集した相当量のサンプルや、オリエント交易に海外基地から送られた商品情報、オリエント交易に届けられたカタログ、さらには柳田がデパートなどを回って得た商品の売行動向の情報等の提供を受け、常時柳田との間で打合せを行っていたほか、国別の商品取入計画が立てられた段階で柳田と竹久絡み商品の買付数量、買付金額、メーカーとの交渉事項等について詳細な打合せを行い(その内容につき弁二〇三、二〇四号証)、バイヤーに先立ち海外基地に出向く同人に対し事前の調査依頼をしていたと主張する。

しかし、三越がオリエント交易から提供されるという商品サンプルについては、柳田がバイヤーより長くヨーロッパに止どまってサンプル収集を行った事実はなく、また同人が帰国した際商品を携帯荷物として業務通関した回数は五回程度に過ぎず、しかもヨーロッパ関係はファブリスのアクセサリーが一回あるだけである(柳田証言資料一七〇参照、なお同資料によれば三越社員がオリエント交易扱いの商品を多数回持ち帰っていること、さらに同証言資料一七二によればサンプルのほとんどが三越に有償で納入されていることが認められる)。海外基地からの情報については、商品買付に必要ならば本来三越に送られるべきものであって、それで十分であり、それをわざわざオリエント交易に送らなければならなかったことが問題である。オリエント交易へ送られたカタログやサンプルにしても、海外基地社員らの収集したものを利用させてもらったに過ぎず、また、国内の他店における販売動向などは、常時三越社員らが調査しており、柳田の動向調査も、三越にとって無意味ではないとしても、取り立てて評価すべき事柄でもない。次に買付実施の際の柳田との打合せに関する点については、柳田は竹久絡み商品の買付内容を把握するとともに、被告人竹久の要望をバイヤーに伝え買付に反映させる必要からバイヤーと接触するのであり、反面バイヤーとしては買付内容について同被告人の了解を得る必要があるため柳田に説明するというのが実情であったと認められる(小林通暁証言ほか)。弁護人指摘の各資料(弁二〇三号証「貴金属岡部部長打合せ」と題する書面等)はなるほど詳しいが、内容的にみて三越のバイヤーの話しを聞き単にそれをメモしただけのものと認められる。このように、三越と柳田との事前の打合せなるものは、三越のバイヤーにはほとんど不用のものであっただけでなく、かえって納入者側の被告人竹久の要望を取入れる必要があったため買付計画策定にあたってバイヤー独自の判断ができず、三越にとっては有害であったとさえいい得る(小林通暁、宇田真、原敏治の各証言ほか)。また柳田に対する事前調査依頼については、柳田がバイヤーに先立って出発することが多くないことは先に認定したとおりであり、また同人に事前調査依頼をした事実もないことは、前記小林通暁等バイヤーの証言内容に照らし明らかである。所論は、前掲弁二〇三、二〇四号証に見られる買付方針、検討事項、メーカーとの交渉事項の記載をもって右主張の根拠とするが、これらはバイヤーから海外基地へ適宜の方法で容易に連絡依頼できる事柄であり、柳田に対し特に依頼しなければならない性質のものではない。現に三越では、バイヤーの出張に伴う海外基地に対する事前調査依頼その他もろもろの連絡は、ファックスや電話によりひんぱんに行われていることが証拠上明らかである。したがって、柳田が海外基地の社員と打合せをすることがあるとしても、それは被告人竹久の要望を伝達するためとか、自己が基地の社員のアテンドを受けてバイヤーの買付に同行するための必要からであると考えられる。

(2) 柳田の海外での活動について(同弁論要旨三八六頁以下及び三三一頁以下)

弁護人は、昭和五三年以降の新規商品の買付はそれまでにオリエント交易が開発し、あるいは関与したメーカーとの間における開発商品が中心であったため、オリエント交易の社員の同行・関与が必要であったのであり、また柳田は海外と日本との間を頻繁に往復し、あるいはパリにアパートを借りて常駐する体制を作り、海外基地の社員の間でリーダーシップを取って商品開発、情報収集を精力的に実行するようになったと主張する。

しかし、昭和五三年までの商品開発が三越の信用力と交渉力によってなされ、それに対するオリエント交易の寄与がなかったことは、前記四「ヨーロッパにおける商品開発」の項で述べたとおりである。また、柳田の渡航が多くなったのは竹久絡み商品の買付が多くなったためであり、アパートを借りて常駐の体制を整えたのも経費削減のためであって、三越から出張する多数のバイヤーに同行するオリエント交易社員は柳田を中心とする少数の社員であったから、同人の行動が一見精力的に見えるとしても、同人の商品開発に対する貢献とは無関係である。柳田の海外における行動はほとんどバイヤーの買付に同行することに費やされており、同人のスケジュールから考えても同人に独自に商品開発活動をする時間的余裕が無かったことは容易に推測することができる。そして、買付に同行した時の柳田の役割も前述したとおりであって、同人の行動がバイヤーの足手まといになることはあっても、その業務をサポートする役目を果たしたとは到底認められない。もともとアクセサリーの販売経験が少しある位で語学力もない柳田に対し、海外において独自の商品開発を期待するのは無理なことである。したがって、柳田が商品の専門家である海外基地社員をリードして商品開発を行ったという所論は根拠の乏しい主張といわなければならない。

なお弁護人は、イタリアでは、柳田はオリエント交易の商品開発に地元の貿易ブローカーであるチッキーニ兄弟を使い、同人にアテンドさせたりして商品の新規開発や買付を行い、その紹介にかかるメーカーは昭和五五年度で三二にも上っていること、またスペインにおいては、オリエント交易は昭和五五年秋ころ在日スペイン大使館を通じてブルギニオンと知合い、柳田が同人の案内で下見してバイヤーの発注を待つとか、ブルギニオンが関係会社を連れて東京で展示会を開催した時などの機会に三越が買付けたりしていたなどと主張している。

そこで検討すると、まずイタリア関係については、証人中山勝彦の証言等によれば、三越ではローマ三越設立後もしばらく三井イタリア、吹田イタリア等四社を利用し、そのアテンドを受け五パーセントのマージンを与えてイタリア関係の商品買付を行っていたが、中山勝彦が昭和五一年一〇月ローマ三越に赴任してからは同三越において自ら貿易業務を行うようになっていたところ、右中山らローマ三越の関係者はミラノ、フィレンツェ等で開かれる商品展示会に頻繁に足を運び、あるいは地元の貿易ブローカーのベンディーニ及びチッキーニを使って商品開発を行い(バルトロメイは前者の適例である)、買付に来た三越のバイヤー及びオリエント交易の社員をアテンドし、ローマ三越がシッパーとなって商品を三越ないしオリエント交易宛輸出していたことが認められる。所論は柳田が右チッキーニと事前の下見などしたり商品開発をしていたなどというけれども、柳田がチッキーニと二人だけでメーカー、展示会回りをしたことが少ないことは、前述の同人の行動経過によって窺えるだけでなく、柳田証言(反対尋問)も半ば認めるところである。右のとおりローマ三越はチッキーニを利用して商品開発を行っていたものであり、同人が紹介する商品に関し柳田に同行するときは、たいてい三越のバイヤーやローマ三越の社員も同行していたものである。したがって、チッキーニの取扱った商品が多かったからといって、柳田の商品開発に係るものということはできない。次にスペイン関係についてみると、関係証拠によれば柳田がスペインへ行ったのは、昭和五二年九月(第二回出張)から同五七年四月(第二七回)までの間に合計八回あり、うち六回が阿部真太郎や小林通暁らのバイヤーの買付に同行したものであり、うち二回がバイヤー抜きでパリ三越の天野治郎及び斎藤峰明に同行したものである。そして、右バイヤーとの同行分はいずれも同人と一緒にスペインに入り同一行動をとっており、天野らとの同行分も終始同人らと行動を共にしているから、柳田がスペインにおいて単独ないし独自の行動をとる余地はほとんどないはずである。他方、パリ三越の社員のスペイン行きは柳田よりはるかに活発であって、スペイン関係の商品の開発に関し、柳田がパリ三越以上に寄与したとは考えられない。ブルギニオンとの出会いに関する所論に添う証拠は柳田の主尋問に対する証言であるが、同証言は反対尋問によって動揺しているのみならず、ブルギニオンは昭和五五年九月のデルタの買付にメーカー側の関係者として登場し、翌五六年一月の東京でのスペインファッションフェアーにもデルタの代理人として来日していること、同年五月二二日付テレックスでパリ三越の天野よりオリエント交易宛にスペインの窓口をブルギニオンに一本化したいとの提案がなされていることを考えると、柳田の右証言はたやすく信用し難い(以上につき柳田証言資料一八三ないし一九〇参照)。

3 なお、オリエント交易の海外出張旅費明細(甲二257ないし259、297ないし300)等によれば、オリエント交易では柳田以外にも社員を海外に出張させて三越のバイヤーの買付に同行させており、ヨーロッパ方面についてみると、昭和五二年には丹野薫、渡辺康廣(二回)、佐々木三雄、長谷川保子、武藤登、同五三年には小島裕美子、谷絹子、右武藤、同五四年には右武藤、右小島、右渡辺、同五五年には小田嶋麻知子(二回)、田中常男、同五六年には西川理子(二回)、右田中、同五七年には右田中がそれぞれ渡航していることが認められる。これらの出張は、一週間から二週間程度の期間のものが多く、被告人竹久に終始同行している場合もあり、春秋の三越の定期買付期間中のものが比較的多い。また右出張中佐々木、長谷川、小島、谷、田中はアクセサリーたけひさの社員であり、担当職務も営業部員ばかりでなく秘書、運転手等様々である。こうした買付同行者の出張回数、期間、時期、職務等にかんがみると、これらの者は、買付同行の際柳田以上の働きをしたとは考えられず、竹久絡み商品の確保・推進のために派遣されたものと認められる。

(二) 被告人竹久の活動について

オリエント交易が設立されて以来、被告人竹久の海外渡航の回数は甚だ多く、昭和五七年八月までの間にフランスを中心とした欧米方面で三四回、香港を中心とした東南アジア方面で四六回に及んでいるが、同被告人の渡航が被告人岡田の渡航にスケジュールを合わせて行われているのも特徴的であり、昭和五〇年以降でみると被告人岡田の合計四五回にわたる渡航にはすべて時期を同じくして被告人竹久も渡航している。そして、行く先々で被告人両名が親密に行動する姿を三越バイヤーや海外基地社員の面前で公然と披瀝し、これが三越社員の意識、行動に大きな影響を与え、被告人竹久に強大な力を付与する背景事情となったことは、先に認定したとおりであり、竹久絡み商品の開発、買付、維持、推進もこうした事情のもとになされている。そこで以下に被告人竹久の竹久絡み商品に関する活動の実態をみていくこととする。なお、マッピンアンドウェッブ、ファブリス、ポール・ルイ・オリエ等オリエント交易が比較的初期の段階で取扱った竹久絡み商品に関する被告人竹久ないしオリエント交易の貢献度については、既に「ヨーロッパにおける初期の商品開発」の項で触れたので、ここでは専らこれらの商品以外のものについて述べる。

1 証人天野治郎、同武田安民、同宇田真、同小林通暁、同小林昭三郎、同姶良和伸、同吉川政孝の各証言等によれば、次の事実が認められる。

(1) 買付同行の経緯について

被告人竹久が買付に同行し、あるいはオリエント交易関係者を同行させることによってバイヤーの買付商品が竹久絡み商品となることは、冒頭で触れたところであるが、この買付自体が被告人竹久の意思に左右され、しかも買付の同行・関与の有無が同被告人の自由な判断によって決められているのであって、このことは竹久絡み商品の実態をよく表している。その一端を示すと、貴金属部長武田安民は、就任早々ベルギーでの宝石買付を被告人竹久に連絡しないで行い、同被告人に謝罪するという経緯を経て、その後被告人竹久と昭和五二年一一月以降数回香港で宝石の買付をするにあたっては、いつも同被告人から「この時期に出張したいので買付をして下さい」と指示されて実施しており、昭和五三年六月から始まったハッセンフェルドからのダイヤモンドの買付では、被告人竹久に取引の話をしたところ、同被告人の「それはいいですね、私も一緒に買付に行きましょう」との一言で竹久絡み商品となり、買付の際も同被告人から「社長がアメリカに行くので、合流したいのでその際買付に行きたい」と言われて実施している。呉服部では昭和五四年にドイツで開発した羽毛布団を直輸入で買付けていたところ、二回目の同部課長友竹智の買付の時に柳田が買付に同行することになり、同部長小林昭三郎から柳田の同行しない分は直輸入で扱うよう指示されていたにもかかわらず、ほとんどが準直商品になり、次いで同部長が被告人岡田の指示により第三回目の買付にドイツに出張することになったところ、被告人竹久からデザインルームに呼ばれ、買付内容の説明を求められて買増しを勧められたうえ、オリエント交易の柳田を同行させたいと告げられている。ドイツ三越の吉川政孝は、開発した毛皮のメーカーのサンプルを持って昭和五四年八月ころ帰国した際、婦人子供用品部長宇田真に連れられて大手町のデザインルームに行き、被告人竹久に商品の説明をしたところ、同被告人は宇田に対しすぐバイヤーを派遣するよう求め、吉川に対しては「私も協力しますからいい商品があったらどんどん情報を送って下さい」と指示し、その結果同年一一月同部主任姶良和伸が毛皮の買付に出張したときには、被告人竹久の意を受けた宇田部長から柳田との同行を命ぜられ、買付分は準直商品になっている。

ところで、三越のバイヤーは竹久絡みに関係する商品買付に出張するときは、たいてい被告人竹久のもとに挨拶に伺うのを常としており、この点も三越における被告人竹久の立場、力関係を示すものであるが、特に同被告人が毎日買付に同行していた三越の春秋の定期買付の際には、出張議案の決裁を受ける前に、仕入本部輸入担当次長、各商品担当部長等の仕入本部の幹部社員が各バイヤーを引率して、大手町の三越別館にあるデザインルームなどで被告人竹久と会い、出張議案書に添付された買付計画表等に基づき、竹久絡み商品のブランド名、出張するバイヤー、日程、買付先、買付金額等の説明を行い、その際被告人竹久から買付に同行させるオリエント交易社員の指示・伝達を受けるほか、同被告人の都合に合わせて各バイヤーのスケジュールを調整し、さらに各バイヤーは同被告人との間で個別に打合わせを行う場合もあった。右の説明の席で被告人竹久が強く関心を寄せたのは各国で催される展示会であり、同被告人はできるだけこれに参加できるよう自己のスケジュールを組立て、バイヤーのスケジュールの調整を行っていた。それは、バイヤーの新規商品の開発は、かなりの部分が展示会における買付に依存しており、被告人竹久の同行する展示会での買付商品はすべて竹久絡み商品となるため、同被告人の展示会への参加は竹久絡み商品の拡大・増加へと直結していたからである(天野証言参照)。また、バイヤーと被告人竹久との打合わせにおいては、同被告人の意見・指摘は専ら買付額を増大させる方向でのみなされていて、三越の販売能力、在庫等に対する配慮はほとんど欠けており、もともと買付予定額が被告人竹久や被告人岡田の意向を取入れたかなり無理な額であることが多かったため、被告人竹久の意見は絶えずバイヤーを困惑させていたが、結局増額修正を余儀なくされることがしばしば生じていた。

(2) 買付同行の実質について

被告人竹久は、毎年春秋に行われる三越の定期買付期間中の一時期海外に赴き、バイヤー等と行動を共にしていたものであるが、同被告人の海外での行動には、常に三越バイヤーの最上席者、すなわち買付団の団長格である仕入本部次長クラスの幹部社員、例えば仕入本部次長兼輸入部長松本健太郎、仕入本部次長兼婦人子供用品部長宇田真、仕入本部次長兼貴金属部長安田安民、仕入本部次長兼婦人子供用品部長兼紳士用品部長榎本勝善ら、あるいは被告人竹久の最側近社員とみられていた本店輸入特選部課長幸前誠らが同行しており、これを迎える海外基地では、支配人あるいは副支配人クラスの幹部社員がアテンド役として終始同行していた。

被告人竹久の海外における行動の実際を、ヨーロッパにおける買付の拠点であるフランスの場合についてみると、およそ次のようなものである(以下の事実は主としてパリ三越に勤務していた天野治郎の証言による。同人は昭和五〇年五月から同五六年五月まで同三越に出向し、その間副支配人、支配人代理を歴任し、昭和五一年以来被告人竹久のアテンド役を勤めていた者である)。

被告人竹久のアテンドは空港での出迎えに始まる。被告人竹久はたいてい大きなトランク二つとホテルの洋服だんすが一杯になるほどの洋服を持参する。これらの荷物はパリ三越の社員やバイヤーが税関の特別の許可を得て運搬し、用意した荷物専用車でホテルまで運ぶ。一方ホテルでは、既にパリ三越社員がチェックインをして部屋に花を飾り、お茶や果物を準備し、チップ用の小銭を用意するなど万全の態勢を整えて待機している。天野はホテルで被告人竹久が一息ついたころスケジュール表(案)を渡し、内容の点検、修正を受け(案と記するのは、当初確定案として渡したところ同被告人から「勝手に決められては困る、私が全部チェックする」と叱られたためである)、その後右表はバイヤーに配られる。被告人竹久のスケジュールはしばしば予定表の内容と変わることがあり、天野ら基地社員は、あらかじめメーカーにアポイントメントを取っているため予定変更の断りを入れねばならず、専ら事態に対処するため、パリ三越には連絡要員として常に一名を待機させていた。被告人竹久はオリエント交易の社員を同行させるバイヤーを指定し(通常継続買付のメーカーに同行させていた)、同被告人の行く先はセルッティ、ショーメイ等の主要ブランドメーカーと展示会(主に紳士服、婦人服、アクセサリー等。同被告人が展示会を重視していた理由については前述)である。被告人竹久は、展示会のあるときは、午前が展示会で、午後は一軒位のメーカーを回り、展示会のないときは、午前一軒午後一軒のペースでメーカーを回るのが普通である。バイヤーは展示会では必ず買付を行い、下見に一日かけ、オーダーには最低二日をかけるが、被告人竹久は展示会の初日に二時間程度商品の下見をし、二日目以降の実際の買付にはほとんど行くことはない(オリエント交易の社員がいれば社員は同行する)。展示会での滞在が二時間程度では足早に通り過ぎるのがやっとであり、被告人竹久は天野に対し、パンフレットやメーカーの住所を書いたカードを取ってくるよう命じる位で、商品を選定したり、メーカーと商談することはほとんど無かった。被告人竹久は三時半か四時にはホテルに戻り、昼寝をしたり、マッサージを取り、あるいは美容院、ショッピングに行くなどし、会話ができないためその間終始天野が付いていた。被告人竹久は、夕食はホテルで取らず、レストランで天野、パリ三越の支配人及び同被告人の指定するバイヤー(Aグループと称され、指定されないバイヤーはBグループと称されていた)と一緒に取り、度々メーカーの者を同席させていたが、アポイントメントもなく当日の夕方ないし直前になって呼ぶよう指示するため、天野らは三拝九拝して出席してもらっていた状況であり、食事代も一回あたり四〇万円ないし五〇万円かかり、すべてパリ三越の負担となっていた。また、被告人竹久は毎夜ミーティングと称してホテルの自室に全バイヤーと基地の社員を集合させ、各バイヤーに当日の買付金額、数量等を報告させたり、翌日の買付にどのバイヤーにオリエント交易の社員を付けるかを指定し、買付商品や買付数量、金額の増加をも要求したりしていた。さらに、バイヤーの数が多いため同行できるオリエント交易の社員がいないときは、その席でバイヤーに対し、「うちの社員は付かないが一つよろしくお願いします。買付けた商品については必ず報告して下さい」と指示し、買付後にはオリエント交易社員をしてオーダーシートを回収させるなどして竹久絡み商品の維持・拡大に意を用いていた。右ミーティングは被告人竹久がホテルに戻るのが遅いため夜遅く始まり、終わるのが午前一、二時ころであり、バイヤーが退出した後も、天野や支配人は被告人竹久からその日の総括的な注意事項の伝達がなされたり、翌日のスケジュールの確認などがあるため、ホテルを出るのが三時ころで、その間ロビーには翌日のスケジュールの変更に備えて連絡係として基地の社員を置いていた。メーカーを回るときはバイヤーは先行しており、被告人竹久はバイヤーの選品のアドバイスをしたりその手伝いをすることはなく、ただ衣桁にかかっている婦人服などについて、あれもいいですねとかこれもいいですねなどと言ったり、気にいったものを抜き出して鏡の前で当ててみたり、メーカーの人と天野の通訳で雑談する程度であった。

以上が被告人竹久のフランスにおける買付同行の実態であり、この状況はイタリア、ドイツ、イギリス等同被告人が買付に同行して回った他のヨーロッパ諸国においても同様であったと認められる(なお、香港商品等の一部について存在した準直商品の買付同行における被告人竹久の活動の実態についても、後記九の香港コミッションと被告人竹久ないしオリエント交易の関係の項で検討したとおり、右ヨーロッパ商品の場合と同様である)。

(3) 右によれば、三越のバイヤーのヨーロッパにおける商品の買付はバイヤーと海外基地社員の協力によって行われ、かつそれで十分であったのであり、いかなる面からみても、被告人竹久の関与が必要であったとは認められない。被告人竹久の買付同行は、まさしく形ばかりのものであって、そこには商品の開発や買付に対する貢献の片鱗も見い出すことができず、竹久絡み商品の維持・拡大のためにのみなされたというほかはない。被告人竹久の一連の行動をみると、同被告人はバイヤーや海外基地社員に終始多大の犠牲、負担を強いており、後述のバイヤーに対する種々の圧力をも併せ考えると、被告人竹久の買付同行は、三越の海外商品取入れにとってむしろ有害に作用したと評価せざるを得ない。

2 これに対し被告人竹久の弁護人は、(イ)被告人竹久は買付にあたってバイヤーから意見を求められればこれに応じ、展示会などで選品に協力したほか、商品の的確な選別を行うため、セルッティ、ショーメイ等の一流ブランド商品の発表会に欠かさず出席して常々ヨーロッパの時流を把握し新鮮な商品の鑑別力の涵養に努め、また取引の円滑を図るため、メーカーのオーナーやデザイナーを表敬訪問したり接待したりし(弁論要旨三五〇頁、三九二頁)、(ロ)直輸入の分野で立ち遅れていた三越が一流ブランド商品の販売権を取得することができたのは、被告人竹久の昭和五二年ころまでの精力的な活動の結果であって、この実績が三越社員に受け入れられて準直方式という取引形態が自然に形成され、昭和五三年以降の三越の買付打合わせ、買付同行、海外基地との緊密な関係に発展していったものであるから、このような昭和五二年ころまでに果たした被告人竹久の貢献度を十分に評価すべきであり、また三越社員の旧態依然たる売場意識を変革させた被告人竹久のトータルファッションを志向するデザイナーとしての能力も軽視さるべきではないと主張する。

まず右(イ)についてみると、被告人竹久の買付同行の実態は先に認定したとおりであって、同被告人がバイヤーの商品選定等買付手続きの過程において、何らか有用な働きをしたとは認められない。天野証言にもあるように、三越のバイヤーはいずれもが担当商品分野において一〇年以上の経験を有するその筋の専門家であり、こうした経験の無い被告人竹久が彼らの買付に対し、自分の好み程度のことは言えても、適切なアドバイスを与えるがごときは不可能というほかはない。オリエント交易発足のころ被告人竹久が取扱ったヘレン郭のドレスや、バイヤーの婦人子供用品部課長小林通暁に指示して買付させたジュールマルのドレス及びカデットのドレス(甲二147、148)の例は、同被告人の商品選別能力の一端を示している。また、一流ブランド商品の発表会に毎回出席することの効用はあるとしても、それが本件買付の実際に生かされた形跡はない。メーカーへの表敬訪問や接待は、オリエント交易が、メーカーの商品を三越に売り込む立場として考えれば、むしろ当然のことであり、三越の立場からすれば、わざわざそのようなことをする必要はなく、また、商品開発にとっては、付随的、従属的な事柄であって、重視するに足りない。次に(ロ)については、所論は昭和五二、三年ころまでにおける被告人竹久のヨーロッパのブランド商品開発に対する実績・貢献を前提とするものであるが、前記四でヨーロッパの主要ブランド商品の開発状況について述べたとおり、各種ブランド商品の販売権はすべて三越の信用力と交渉力で獲得したものであり、これに対する被告人竹久の貢献は無きに等しい。そして、準直商品が三越社員に自然に受け入れられたのではなく被告人岡田の指示によるものであること、社員は右方式が極めて不合理であると思いながら、究極的には被告人岡田の人事権の行使を恐れやむなくこれを受け入れ実行してきたものであることは、当公判廷に出廷した三越社員が口を揃えて強調するところである。なお、被告人竹久のトータルファッションなるものが本件においていかなる意味合いを持つのか、必ずしも明らかではないが、明白であることは、そのようなものが、本件の商品開発ないし買付に対する貢献と無縁であったということである。

七 準直方式とアクセサリーたけひさの業務

準直方式は、三越社員が海外において買付業務を行った商品を、オリエント交易がインポーターとなって輸入し、その商品がさらにアクセサリーたけひさに転売された上、アクセサリーたけひさから三越に納入されるものであり、しかも右商品はそのすべてが完全買取制で三越に納入されることとなっていたため、オリエント交易あるいはアクセサリーたけひさにおいて、販売先を開拓したり販売を拡大していく必要はなく、在庫負担もないので、両社が輸入商品のリスクを負担することは全くなかったことは、既に述べたとおりである。したがって、アクセサリーたけひさは、オリエント交易の輸入した商品が三越に納入される過程において、単なる通過点あるいは窓口として形式的役割を果たしていたに過ぎない(かかる形態が採られるようになった原因が、オリエント交易が三越に取引口座を持ち輸入商品を納入していたことがマスコミ等で喧伝され、それらの批判、攻撃をかわすためであって、アクセサリーたけひさの業務上の機能の有用性に着目したものでないことは先に認定したとおりである)から、アクセサリーたけひさの業務を論述する必要性は乏しいのであるが、アクセサリーたけひさの介在による利得が三越の損害として把握されているので、以下簡単に準直商品との関係におけるアクセサリーたけひさの組織、業務等について触れておく。

1 樫村武、篭橋正好の各証言、同人ら及び市川吉昭の検察官に対する各供述調書その他の関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(1) アクセサリーたけひさの業務の内容は、自社オリジナルアクセサリーの製作、渋谷及び六本木のブティックにおけるアクセサリー類、衣料品等の販売が若干ながらあったものの、主力は三越への輸入商品の卸売であり(総売上高の九八、九パーセントを占めている)、オリエント交易の取扱商品の増加に伴い、同社の業務も当然拡大していったと思われるが、賃金台帳によって同社が給料を支払っている者をみると、昭和五三年八月で三〇名(マネキンを除く、以下同じ)、同五四年八月で三四名、同五五年八月で三八名、同五六年八月で三一名、同五七年八月で二五名となっている。右の員数中には多くの派遣店員、製作従業者、顧問税理士、業務に従事していない取締役も含まれており(なお、昭和五七年一月以降アクセサリーたけひさの業務にアクセサリーたけひさ学院の業務、マンション管理業務が組込まれたので、同年分の人数にはこの関係者四名が含まれている)、アクセサリーたけひさの事務所が置かれていた竹久ビルにおいて実際の業務に従事していたのは、昭和五四年以降では被告人竹久、その長女で取締役小島裕美子、総務部長(兼任)篭橋正好、運転手、経理課員を含めて八名前後であったものと認められる。ちなみに、オリエント交易の従業者は、昭和五三年以降被告人竹久、代表取締役篭橋正好を含めて終始八、九名前後で推移している(なお、前記柳田満は昭和五六年八月まではアクセサリーたけひさの、翌九月からはオリエント交易の従業員として給料を得ている)。そして、右事務所で働いていた従業員はどちらの会社に所属しているのか特に意識することなく互いの仕事を手伝っていた。

(2) 次に商品の納入過程をみると、シッパー(海外基地あるいはサプライヤー)から送られてきた買付商品は、日通などの乙仲業者を通して商品荷揚げ(通関)がなされた後竹久ビルに搬入され、同ビル三階の倉庫(多量のときは車庫にも)に保管されるが、三越で直ちに店頭に陳列したい物や、商品そのものが大きく再梱包に手間がかかる物、あるいは壊れ易い物などは、事前に三越の商品担当者と話合い、直接三越に送り仮の保管を依頼することもあった。商品がオリエント交易に入ると、紳士・婦人衣料、毛皮、バッグ等のアクセサリー類を除いた商品については、同社社員樫村武が中心になってインボイスに基づき数量等の検品を行い、アクセサリー類については、アクセサリーたけひさの社員の田中常男が中心になって同様の検品をしたうえ、種類ごとにサンプルを抜出しこれにインボイス上の商品番号、単価等を記入した荷札を付けたうえ、複写機でそのコピーを取っていた。アクセサリーたけひさでは、オリエント交易からの商品を、輸入原価に関税、保険料等の諸掛を加算した額(その計算がオリエント交易に有利となっていたことは後述のとおり)に五パーセントのマージンを上乗せした価格で受入れ、三越へは原則としてこれに一五パーセントのマージンを上乗せして納入していた。そして、三越への具体的な納入価格(下代)は、納入方法(正味、直納の別)、納入日等とともに右の検品作業の後樫村、田中らがインボイス、原価計算書、サンプルのコピー等を持参して三越に赴き、商品担当者と打合わせをして決めていたが、右方法によって算定された納入価格について、三越担当者が値下げを要求することは殆どなく、またそれができる状態でもなかった。納入価格等が決まると、正味納品分については、正味商品仕入伝票を起票し、この伝票を商品よりも先に三越の担当部へ提出して検印(担当者、課長、部長の承認印)を貰い、こののち商品を右伝票とともに東雲ストックセンターに搬入し、三越の受渡部員による伝票と商品との照合点検(引合い)を受けた後納品されることになるが、納品完了後に数量不足が判明したときは返品伝票が切られる。アクセサリー類の多くが対象となっていた直納品については、三越で決めた上代の値札付けをしたうえ、本店、各支店等納入先ごとに仕入伝票を起こし、正味納品と同様伝票の検印を受けた後、商品を東雲配送センターへ搬入し、検品をうけて納品するという手続となっていた。他方、社内処理としては、オリエント交易では、検品後アクセサリーたけひさへの納入価格が算出されると、仕入価格等とともに仕入売上台帳に記入され、アクセサリーたけひさにおいても、同様の形式の仕入売上台帳にオリエント交易からの仕入価格及び三越への納入価格が記入されていたが、アクセサリーたけひさでは、このほか商品番号、品名、数量、仕入単価、納入単価、納入先等を明らかにした表(納品リスト)が作成されていて、オリエント交易の右台帳の写しや三越への納品伝票の控えをもとにその都度所要の事項が記載され、これらは雑貨、婦人、紳士、貴金属、その他に五分類され一か月ごとにファイルされていた。また、商品の仕入、販売にともなう伝票の作成については、両社の経理の責任者である市川吉昭が右の納品リストをもとに三越への納品伝票の控及び三越の買掛金支払明細書をも照合しながら、オリエント交易の売上伝票、アクセサリーたけひさの仕入伝票及び売上伝票をカーボンを使用して同時に起票していた(したがって、オリエント交易の売上とアクセサリーたけひさの売上が同一日付となる)。

2 アクセサリーたけひさの業務の概要は以上のとおりであるが、検察官、弁護人の主張にかんがみ、次の点について若干補足する。

(1) 検品について

検察官は、オリエント交易の検品の実態は、通常商品を箱から出すことなく数量を点検する程度しかしておらず、しかも伝票作成にあたってインボイス記載の数量をそのまま記載するなど相当杜撰であったと主張し、弁護人は、アクセサリーたけひさ側の検品は極めて真面目かつ慎重に実施されており、長年月にわたる多数回、多量の商品を対象にした検品である以上誤りがない方がむしろ奇異であると主張する。

そこで検討するに、もともと検品については、次に述べる値札付けや派遣店員の問題と同様、アクセサリーたけひさが三越への商品納入の窓口となるに伴い必然的に求められる事務であって、正確にこれを履行して当然の事柄であり、このことをもって準直方式を正当化させる事由とならないことをまず指摘しておかなければならない。そして、前認定のようなオリエント交易・アクセサリーたけひさの組織、従業員数等をみると、大量の海外商品を輸入し、これを納入する業者としては甚だ手薄であり、倉庫等の設備も狭く通常の納入業務に不可欠な検品を行える体制にあったとは認め難い。本件において、オリエント交易あるいはアクセサリーたけひさが検品にどの程度手間をかけたかについては、篭橋正好の証言と樫村武の証言とでは精粗があるが、樫村証言の言うように、高価な物にはそれなりに慎重に、反対に数が多く値段の安い物には数量だけあたって済ませたことは事実であろう。他方、弁護人の所論のように、多数回、多量の検品においては、時に誤りがあるのもむしろ自然のことと思われる。篭橋証言は、検品の入念さ、正確さを強調するけれども、同人にたいする反対尋問で明らかになったように、三越に納品後数量不足が判明して返品伝票が切られたり、三越の東雲センターにおける納品時の引合いで数量違いが発見されて伝票の訂正がなされたりした例が少なからずあることを考えると、篭橋証言はいささか誇張に過ぎるものと思われる。また、前述の再梱包の問題が生じる商品の取扱いや、根本邦彦証言によって認められるところの、三越の締日の夕方などに梱包したままの物を東雲センターに持ってきてインボイスに基づいて伝票を書き納品する場合があったことなどの事実に徴すると、オリエント交易ないしアクセサリーたけひさの検品に対する態度には三越の好意に甘えるところがあったと指摘することができる。

(2) 値札付けについて

検察官は、準直商品のうち、主力商品ともいうべき婦人用品、紳士用品、羽毛布団、ハンドバック等の雑貨商品については、いずれも九五パーセント以上が値札付けを要しない正味商品とされており、値札付けを要する直納による納品が行われたのは、主として雑貨及び貴金属部のアクセサリーの約半数であり、準直商品全体からみると、金額面で僅かに約一五パーセントに過ぎないものであって、この程度の値札付けをもって準直方式を正当化できないと主張し、弁護人は、値札付けを行うことは最小限三越がその作業をしないで済むという経済的利益を受けるのであるから、それ相当の寄与をしており、しかも値札付けを要するのは高額でない多量のアクセサリー類であってその仕事量は極めて大きく、全納入商品の過半数に値札付けをしたのに匹敵すると主張する。

値札付けに要する作業量の大なること及び値札付けを了した商品については三越がその作業をしなくて済むことについては、弁護人所論のとおりである。しかし、そもそも値札付けは直納品の場合に当然付随する事務であって、アクセサリーたけひさのみに課された負担ではないのであり、作業量が多いのもそれだけアクセサリーたけひさの三越への納入量が多いからであり、一部について値札付けを履行した事実をもって準直方式を正当化させる寄与として評価することはできない。かえって、根本証言によれば、アクセサリーたけひさが納入するアクセサリー類は初めのころは正味納品が多かったが、昭和五三年ころから直納品が増え、数量・金額面で約半分程度になっていたところ、アクセサリーたけひさの値札付けに関しては、多量に納品される場合三越で雇ったパートを動員してその作業を行ったことが認められ、アクセサリーたけひさの組織・陣容を考えると、納入業者が当然行うべき値札付けにおいてすらきちんと行える体制にはなく、この点についても三越の好意に甘え、かなり優遇されていたことが窺われる。

(3) 派遣店員について

検察官は、派遣店員名簿(甲二444、445)によれば、昭和五六年三月一日現在のアクセサリーたけひさの派遣店員は本店で一三名(昭和五七年三月一日現在では三名)であるのに対し、同時期に三越の取引業者中取引金額が上位を占める株式会社樫山は六〇名(同六四名)、株式会社山陽商会は三八名(同二七名)であり、アクセサリーたけひさの取扱う商品範囲が右二社(いずれも衣料品)に比較してはるかに広範囲であることを考慮すると、店員の派遣は準直方式を正当化する理由にならないと主張し、弁護人は、右名簿記載の派遣店員は三越の給料負担の対象となっている店員であり、実際にアクセサリーたけひさが派遣していた店員はもっと多いうえ、派遣店員の数は取引形態が買取方式なのか委託方式なのか売上計算方式なのかによって異なり、結局は三越との協議によって決定されるものであるから、他の業者と比較すること自体が不当であると主張する。

確かに弁護人の主張するように、派遣店員の必要数は納入商品の取引形態によって異なってくるものと思われ、取引金額を基準にその多少を論ずることは適当でないが、それにしてもアクセサリーたけひさの派遣人数は、他の納入業者と比較して少なすぎるものと認められる(弁護人主張のように準直商品の大多数が買取方式であるため派遣店員をあまり必要としなかったとすると、こうした仕入方式が採られたこと自体がより問題となろう)。なお、弁護人のいうような三越給料負担の派遣店員なるものは派遣店員としては有り得ないと考えられる。

八 香港コミッション方式と被告人竹久ないしオリエント交易社員の関与

香港等東南アジアの商品につき被告人岡田からコミッション方式への統一が指示されたのち、三越の銀座支店等に売店を持ったミンクマジックの毛皮やバンバンのジーンズの商品等について被告人竹久にコミッションが支払われたのを嚆矢として、香港コミッション方式はその後宝石、毛皮、衣料を中心に対象商品を拡大して行き、既に昭和五五年度において準直方式分を含めたいわゆる竹久絡み商品の香港三越輸出取扱高に占める割合は七〇パーセントを超えていたが、その全体の経過及び個々の商品群の取入れの経緯については前記三で明らかにしたので、次にその事実関係を前提に、香港コミッション方式において被告人竹久及びオリエント交易社員の関与ないし貢献の度合がどの程度のものであったかを見ていくこととする。

1 証人奥山清秀、同萩原秀彦、同関根良夫、同松田祐之、同三輪達昌、同鈴木賢治、同井上和雄、同姶良和伸、同武田安民の各証言等によれば、次の事実が認められる。

(1) 宝石について

三越において香港宝石を本格的に取入れるようになったのは昭和五一年八月の買付からであるが、これは被告人竹久が仕入本部貴金属部長三輪達昌に買付を要請したことによるものである。そのころ既に被告人竹久が何らかの形で関与した商品は竹久絡み商品となることが定着し、しかも仕入担当の幹部社員は同被告人に買付を求められれば断ることができない状態になっており、被告人竹久としてはともかく買付を実行させれば確実に利益を得ることができる立場にあったもので、三輪に対する買付の要請もこうした状況の下になされたことが認められる。三輪は、当時三越ではかなり宝石の在庫を抱えその処理に苦慮していたため、買付に消極的であったが、被告人竹久から求められ上司と相談の結果、やむなく買付けることにしたものである。他方、香港三越支配人の萩原秀彦は、そのころ陳谷峰から、被告人竹久に宝石店を紹介して欲しいと言われているという連絡を受け、相前後して右三輪から宝石買付のための調査方を依頼されたため、陳の案内で宝石店のメイフェアー及びフーハンへ行った。三輪らによる最初の買付には被告人竹久も同行し、萩原支配人のアテンドと陳の案内で右メイフェアー、フーハンへ行き買付を行なったが、同被告人は少し話しをしてすぐ帰るという程度のことで、もとより宝石の選品その他の買付手続きに何らかの関与をしたわけではない。この買付で被告人竹久の行なったことは、萩原支配人に対し、宝石の買付についてはコミッションベースですることを求めたことと、三輪の買付額に不満を持ち、同人に追加の買付を求めたこと以外に特段のものは認められない。二回目の買付については、三輪としては一回目の買付が終わったのち部下にも相談した結果、買付の継続はしないという結論を出していたところ、被告人竹久から前の買付が少ないということでもう一回買付に行くことを求められ、やむなく実施したものである。この時の買付にも被告人竹久は同行したが、その行動も前回と同様で買付額の少ないことに不満を述べたこと位である。こうした結果、ついに三輪は担当部署を外され後任に武田安民が就任したが、被告人竹久は、その後同人に対し執拗に買付を要求し実行させている。その背景には被告人竹久の行動を強力に援護する被告人岡田の折りに触れての買付増加の指示があったことはいうまでもない。またその間に被告人竹久の行なったことも、単なる買付の同行(被告人岡田との同行もある)と自分の日程に合わせた買付実施の要求、買付額の増加の要求程度であったと認められる。なお陳谷峰の紹介にかかる宝石店は前記二店のほかトーホンがあるが、関根良夫が昭和五二年七月香港三越に赴任してから独自に開拓した、サクセス、ケーシー、オーバーシーズ、ミネラルジェム等での買付においても被告人竹久にコミッションが支払われている。

以上によれば、香港宝石の買付については、最初に買付を行なった宝石店のメイフェアー、フーハン及びトーホンはなるほど被告人竹久が陳谷峰に依頼して香港三越に紹介したものではあるが、それは、被告人竹久の立場からすれば、これを三越に紹介して買付が行われることにより、自己の利益につながるというただそれだけのことに過ぎないうえ、右にみたように本来この買付は三越としては買付けたくなかったものを被告人竹久に要求されてやむなく行なったいわば買付の強要とみるべきものであったのであり、また陳は、被告人竹久とのつながりで数年前から香港三越に出入りし、同三越において時折利用していた群小の一ブローカーであって、メイフェアー等の宝石店も被告人竹久や陳の関与がなければ三越において宝石の買付をすることのできなかった店ではなかったのである。したがって、本件買付を全体的に考察すると、被告人竹久にコミッションを支払うべき理由に欠けていることは明らかであり、せいぜい初めの買付においてなにがしかの謝礼をすればそれで十分である程度のもので、その後の継続買付を含めて恒常的にコミッションを支払うほどの合理性は認められない。なお、弁護人は、関根良夫から貴金属部長武田安民宛の書簡(関根証言資料三八の一「ネックチェーンを手初めにサンプル製作致したいと思い先生のアドバイスをいただき、二四パターンの新しいデザインを起し」)にあるように、被告人竹久は品質の落ちる宝石については新しいデザインの指導をして指輪など付加価値のついた商品を製作させて買付させていたもので、宝石の買付につき同被告人の役割と貢献度の一面を窺わせていると主張するが(被告人竹久関係弁論要旨一八一頁)、関根証言によれば、昭和五三年七月ころ被告人岡田及び被告人竹久を香港の宝石店に案内した後、被告人岡田から安いものをどんどん買い、デザインなどをして付加価値を付け大量に売りさばいて行けばいいとか、デザインは被告人竹久に相談しろと指示されたため、アクセサリーメーカーのツ・スイ・ルエン社のデザイナーにデザインを書かせ、これを被告人竹久に見せたところ、「いいんじゃない」と言われたのでそのような手紙を書いたもので、被告人竹久がデザインを書いたことは一度もなかったことが認められる。

(2) 毛皮について

被告人竹久のコミッション収入の柱となっていた香港の毛皮の取入れは、仕入本部長井上和雄らの商品調査を経て、昭和五二年九月同部輸入特選部社員高橋章文らがインターナショナルファー及びロイヤルファーのメーカーで行なった買付に始まるが、この時は被告人竹久の関与はなくコミッションの支払いはなされておらず、同被告人にコミッションが支払われるようになったのは、翌五三年秋のサイベリアンファーの買付からで、その後すべての香港毛皮の買付に及んで行ったという経過を辿る。右サイベリアンファーの毛皮の開発の経緯は前記三で述べたとおりであって、昭和五二年七月に香港三越に赴任した松田祐之の開発にかかり、三越では同社の商品が他と比べて価格が高いことなどから買付を控えていたところ、被告人竹久が仕入本部婦人子供用品部長宇田真に対し、情報販売用の商品としてサイベリアンファーの毛皮を買付けるよう求めるとともに、香港三越支配人萩原秀彦に対し、陳谷峰に同社の紹介を頼んでいると言ってその商品をコミッションの対象とするよう暗に働きかけたため、同社からの買付が行われるようになったものである。この情報販売用の商品は毛皮とニットを組合せたオリジナルもので、三越の小野岡デザイナー(加藤松子)のデザインにかかり、被告人竹久にそのデザイン画を見せて説明した際、同被告人は「これでいいでしょう」とか、「このようなデザインが人気があるんですね」と言った程度である。サイベリアンファーの買付は仕入本部婦人子供用品部主任姶良和伸が昭和五三年九月末から一〇月にかけて松田祐之のアテンドにより行ったが、被告人竹久も右の買付に合わせて香港に赴き、姶良の買付作業の途中で仕入本部次長榎本勝善や同宇田真を伴ってサイベリアンファーを訪れ、バイイングの状況を少し見てすぐ帰っており、この外の同被告人の行動としては、香港三越の社員関根良夫に対しこのコミッションをパゴダ宛入金するよう指示した程度である。その後の継続的な買付においても、被告人竹久は三回位同行しているが、その時にもサンプルを見て「これはいいわね」などと言う程度であった。インターナショナルファー等からの買付分に関して被告人竹久にコミッションを支払うようになったのは、サイベリアンファーの買付のころ、同被告人が萩原支配人に対し、「いい毛皮があれば社長に見せましょう」と申し入れ、その後被告人両名が香港に来てインターナショナルファー及びロイヤルファーを回り、その際被告人岡田が萩原らに毛皮の買付に被告人竹久を関与させるよう指示し、被告人竹久もその意思を明らかにしたため、萩原ないし関根から担当者の松田祐之に対する指示により、ロイヤルファーについては昭和五三年秋ころから、インターナショナルファーについては翌五四年秋ころから、さらに松田の開発したスノーファーについては昭和五五年六月の最初の買付から被告人竹久にコミッションが支払われるようになったものであるが、被告人竹久自身はこれらの買付に一度も同行していない。

以上によれば、被告人竹久が初めてコミッションを受取るようになったサイベリアンファーについては、香港三越において既に調査、接触済みのメーカーであり、買付けようと思えばいつでも買える状況にあり、被告人竹久ないし陳谷峰の紹介を特に必要としなかったものである。そして三越が同社の毛皮を買付けるようになったのは、宝石の場合と同様被告人竹久による買付の押し付けのためであり、しかも実際の買付にあたって同被告人が何の貢献、働きもしていないことは明らかである。インターナショナルファー、ロイヤルファーについては、以前ミンクマジック社の買付につき被告人竹久にコミッションの支払いがなされていたことは窺われるものの、この件は同社と被告人竹久との間にトラブルが生じて取り止めとなっており、その後サンマルコ社が同社らから買付をするにあたり香港三越が関与してコミッションを取得していたことが認められるのであって(萩原証言)、三越買付の段階では被告人竹久とはもはや関係の無い状態になっていたことが明らかである。したがって、香港毛皮の買付においても、被告人竹久がコミッション取得を正当化できるような活動、貢献をしていたとは認められない。

(3) 衣料品等について

香港の衣料品については、当初コミッション方式の対象となる商品は少なく、奥山支配人の時代のバンバンのジーンズやブラウスのメーカー一社程度であったのが、昭和五四年ころから急激に増え、最終的には香港三越の松田祐之が担当する婦人衣料品等のほとんどがその対象となっている。衣料品に限らず、コミッション方式の対象とすべきか否かの具体的指示は、初めのころは荻原支配人からなされていたが、被告人竹久の側近と目されていた関根良夫が、昭和五二年七月同被告人に推挙されて香港三越に赴任し、同被告人が香港に来た時必ずそのアテンド役を勤めるようになってからは、右の指示は専ら関根を通じてなされるようになっていたところ、関根が赴任したころは既に被告人竹久が何らかの形で絡んだ商品については同被告人にコミッションが支払われるようになっており、被告人竹久はこれを当然視し、三越仕入本部においてもこの取扱いが被告人岡田の強力な指示によるものであったためやむなく認容しており、関根はこうした状況のもとで被告人竹久の意を体しコミッションの指示を行なっていたものと認められる。衣料品の買付についても被告人竹久の関与の主たる内容は、買付に同行しあるいはオリエント交易の社員の大原明、樫村武らを同行させることであり、自ら同行する場合は訪れたメーカーに少しだけ留どまってサンプルを見たりする程度で、バイヤーの買付手続に具体的に介入することはまずなかった。他方、オリエント交易の社員も会話はできず商品選別の能力にも欠けていたため、ただ買付内容をメモしたり、商品の写真を撮ったりする程度であり、この点はヨーロッパ商品の買付における柳田満の同行内容と変わるところはなく、バイヤーに対し監視しているような印象を与えていた。そして被告人竹久は、バイヤーと共に香港に赴いた時は、毎夜ホテルの自室にバイヤー及び香港三越の幹部社員を集め、ヨーロッパの場合と同じようにミーティングを行い、買付の内容を必ず報告させたほか、関根に対しては、しばしば「買付の報告はきちんとしなさい」とか、「新しく開発されたサプライヤーをできるだけ案内しなさい」などと指示し、オリエント交易社員を同行させるときは事前に買付の手伝いをさせる旨伝えるなどし、さらに被告人岡田においても、香港に出張した時はいつも被告人竹久と行動を共にし、右のミーティングに加わったり、被告人竹久を同席させてバイヤー達に竹久の協力を仰ぐよう指示していたこともあって、関根はもとよりバイヤーも被告人竹久の関与する商品はすべて竹久絡みとせざるを得ない状況に置かれていたことが認められる。

弁護人は、衣料品についても、ウイリアムチェン等被告人竹久の人脈を通じ、同被告人の助言や選択でセンスのあるメーカー、サプライヤーが開拓され、デザインに工夫を加えるなどして付加価値を付け、ファッショナブルな商品として買付けられ、また昭和五三年に入り、陳谷峰の紹介で知合ったタイの貿易商鄭発霖に働きかけ同人の経営するタイリムからタイジュエリーの買付が進められたほか、同人の斡旋でタイ製の衣料品等の買付も継続的になされるようになり、三越の輸入実績が向上していったと主張する(弁論要旨一八一頁)。

松田祐之の証言等によれば、三越ではオーキッドファッションが買収した工場の元経営者で同社の役員をしていたウイリアムチェンの経営するテキスタイルマニファクチャリングからブラウス等を買付け被告人竹久にコミッションを支払ったことが認められるが、この買付はウイリアムチェンの売込みにかかり、被告人竹久は買付には同行すらしなかったことが認められ、同被告人の口利きによって買付が行われたとしても、被告人竹久がテキスタイルマニファクチャリングからコミッションを貰うならともかく、三越から取得すべき理由とはならない。また、松田証言によれば、被告人竹久は仕入本部婦人子供用品部長宇田真らのバイヤーと共に、右ウイリアムチェンや陳谷峰の紹介のメーカーを数社同人らの案内で回ったことがあるが、いずれも買付に至らなかったことが認められる(なお、昭和五二、三年ころ被告人竹久と陳谷峰が組んでオリジナルセーターを開発して三越に売込もうとしたが、製品の質が三越の水準に合わず不調に終わったことが認められる)。もっとも、コミッション台帳等によれば、陳谷峰と被告人竹久が共同でコミッションを取得していた商品(したがってコミッションの流れはパゴダからライエンサンへとなる)には、ラオハイシンの紳士服及びカポックガーメントの婦人セーターがあり、これらには陳が関与していたことが窺われるが、三越としては右商品の買付に陳や被告人竹久の尽力を必要としたわけではなく、売込に来たのを受けて買付けたに過ぎないと認められる。鄭発霖のタイリムの商品等についても同様であって、商品を買付けて貰いたいのはタイリムの側であり、三越としては被告人竹久にこれらの商品の開拓を依頼したものではなく、鄭の側に立った同被告人の買付の要求に応じて三越が買付を行なったと見るべきものであり、被告人竹久が三越からコミッションを貰おうというのは本来筋違いというべきものなのである。

2 以上が香港コミッション方式における被告人竹久らの活動の実態であるが、弁護人の主張にかんがみ次の点を補足して説明する。

(1) 「カトリーヌ」のデザイン企画について(同弁論要旨一八九頁以下)

弁護人は、被告人竹久は、香港に設立されたオーキッドファッションで生産される三越のプライベートブランド商品「カトリーヌ」のデザイン企画・指導と生地の選択・買付を委ねられ、大手町の三越別館に八戸縫製企画株式会社としてのデザインルームを設けてこれを行うなど、三越の仕入機構の一員としての自覚に立ち三越に協力していたと主張する。

関係証拠とくに証人原敏治、同志村好英、同藤村明苗の各証言によれば、三越が被告人岡田の発案主導のもとに推進されたオリジナル婦人既製服「カトリーヌ」の生産につき、被告人竹久はオーキッドファッションの設立段階から積極的に介入し、カトリーヌのデザイン等を自ら主宰する八戸縫製企画株式会社で行わせていたことは所論のとおりであるが、被告人竹久やその推薦でオーキッドファッションの工場長兼デザイナーとして就任した工藤武敏はデザイン画を描く能力すらなく、オーキッドファッション設立の当初はカトリーヌのデザイン企画は実質的には三越の専属デザイナー及び婦人服関係のスタッフにより行われ、八戸縫製で採用したデザイナー達も三越のデザイナーの指導助言によりようやく独り立ちできるようになったものであり、カトリーヌのデザイン企画を支えてきたのは三越社員であるといっても過言でなく、これに対する被告人竹久の実績として評価すべきものは無い。他方、カトリーヌの販売面については、その売行きは芳しくなく販売に見合った生産調整をしなかったため在庫が累積していったところ、カトリーヌの生地の買付にはオリエント交易がコミッションを取得し、オーキッドファッションの工場出価格の七パーセントをデザインフィーとして八戸縫製と被告人竹久個人が取得しており、右の在庫過剰はこうしたコミッション及びデザインフィー取得の構造にその一因があったと考えられ、被告人竹久のカトリーヌへの関与は三越の業績にむしろマイナスの影響を与えたものと認められる。

(2) コミッションの決め方について(同弁論要旨一九九頁)

弁護人は、被告人竹久らが三越のバイヤーに同行することが即対価の要求であるという検察官の主張は全く根拠がなく、萩原秀彦及び関根良夫の各証言によれば、被告人竹久からコミッションの支払いについて要求めいた申し入れはなく、コミッション率の決定についても予定の売価や売率に変動を来さないよう配慮されていたと主張する。

確かに、被告人竹久らが買付に同行した際その都度コミッションの支払いについて香港三越の関根らに指示したり、同人らと相談したりはせず、関根らにおいて香港三越の商品担当者にコミッション及びコミッション率の指示を与えていたことは所論のとおりである。しかし、証人萩原秀彦、同関根良夫の各証言によれば、萩原支配人は初めて被告人竹久をアテンドした昭和五一年八月の第一回目の宝石の買付時に、同被告人から、「香港からの宝石についてはオリエント交易経由の商売じゃなくてコミッションベースでやって欲しい」などと言われており、関根良夫は香港三越に赴任して間もなくの昭和五二年秋ころマンダリンホテルで被告人竹久に宝石買付の話しをした際、同被告人から、「自分へのコミッションをお願いしますね」と言われ、昭和五三年秋のサイベリアンファーの毛皮の最初の買付時にそのコミッションをパゴダ宛入れるよう指示され、さらにコミッション方式の対象商品が増加してきた昭和五四年初めころには、「東南アジアの輸入が増えていくのでアクセサリー以外はコミッションベースにして欲しい」と言われていることが認められ、被告人竹久は肝心な時には香港三越の責任者にコミッション支払いの要求の意思を明示しているのである。そして、前記1の(3)(衣料品等について)で述べた被告人竹久のコミッション取得についての三越仕入本部の実情、香港における同被告人の態度等をも併せ考えると、香港三越の社員が被告人竹久らの買付の同行をまさにコミッション要求そのものであると受け止め、それに対応してきたのは至極当然のことであったと認められる。コミッション率についても、バイヤー及び香港三越の萩原、関根が販売目的や売価などを考え、被告人竹久の了解のもとにコミッション率を決め、時には低い率で定めたりしているが、これは東南アジアの買付商品は価格訴求を目的にしたものが多く、高率のコミッションをあたえることができないことや、三越の利益をできるだけ損なわないようにしようとの三越社員の努力のあらわれであって、もとより被告人竹久のコミッション取得を正当化させる事情ではない。

九 準直商品と香港コミッション商品における仕入原価と売益率について

本件起訴の対象となっている準直方式及び香港コミッション方式はもとより、ヨーロッパコミッション方式を含めたいわゆる竹久絡み輸入方式が、三越の直輸入方式の場合と比べて、オリエント交易及びアクセサリーたけひさのマージン分あるいはオリエント交易ないし被告人竹久のコミッション分だけ三越の仕入価格の高騰をもたらすことは、明白な事実であり、この点は本件の損害についてどのような考えを取ろうと変わることはない。当裁判所は、本件の損害額算定の基礎を右の仕入価格の高騰分に求めているので、以下において、輸入商品が竹久絡み商品となることにより、どのように仕入価格の高騰をもたらすか、その具体的内容をみることとする。

1 準直方式の場合

(1) オリエント交易のアクセサリーたけひさに対する納入価格について

証人篭橋正好、同柳田満、同樫村武、同滝沢義明の各証言及び右篭橋、柳田、樫村の検察官に対する各供述調書によれば、次の事実が認められる。

準直商品は、オリエント交易がインポーターとなって輸入し、これをアクセサリーたけひさに転売するという形式が採られる。オリエント交易は、商品入荷後にインボイス記載のF・O・B価格(本船乗価格)あるいはC・I・F価格(運賃・保険料込価格)等を円換算し、これに関税、物品税、乙仲費用、銀行手数料等の輸入諸掛を加算し、右輸入原価の五パーセント(昭和五三年四月ころまでは、オリエント交易及びアクセサリーたけひさのマージンはそれぞれ一〇パーセント程度であったが、被告人竹久の指示により変更したものである)をマージンとして上乗せした金額をもってアクセサリーたけひさへの納入価格としていたが、実際は右輸入原価を算出するにつき、インボイス記載の建値を邦貨換算するにあたり、実勢レートより高めのレートを設定して計算(その結果オリエント交易は多額の為替差益を取得し、その額は昭和五二年九月期から同五六年九月期までで合計約三億八〇〇〇万円に上っている)しており、また輸入諸掛の計算にあたっても、輸入代金決済にユーザンスを使用していない場合にも同使用の時と同様三パーセントの銀行利息を計上し(ユーザンス使用の頻度は、例えば昭和五五年八月分では三六回の決済のうち一七回である)、さらにL/C(信用状)決済を行っていない場合にも同決済の時と同様銀行手数料を計上するなど、過大計上がなされているほか、「電報代」や「運送費」あるいは「その他」という経費の名目の架空計上分もあるなど、マージン算出の前提となる商品原価自体が実際よりもかなり過大となっており、したがって、アクセサリーたけひさへの転売価格も原価に対し五パーセントをはるかに超える額が上乗せされていたことが認められる(検察官の試算によると、輸入原価に対する上乗せ率は、昭和五二年九月期で一三・二パーセント、その後漸減して昭和五六年九月期で八・四パーセントとなっており、平均すると九・三パーセントである。これに為替差益分を加算して利益率を計算すると平均一三・七パーセントとなっている――以上篭橋証言資料167、168参照。したがって、証人小林通曉が準直商品の場合三越の直輸入の場合と比べて二五パーセント位高くなっていたと証言しているのは正しい理解である)。

なお、オリエント交易では、海外との輸入代金の決済には、高額の銀行手数料を要するL/C決済、B/C決済等の方法が多く用いられており、また代金支払いにいわゆるユーザンス金融を利用することも多く、その場合には利息の負担を余儀なくされるが、三越直輸入の場合には、シッパーとなる海外基地との間の輸入代金の決済は、原則として電信送金(T・T送金)の方法で行われており、銀行に支払う送金手数料は送金金額にかかわらず、一件あたり数千円の負担で済み、このような輸入諸掛の差異をも考慮すると、準直方式の場合と直輸入の場合とでは、三越の仕入原価の格差はさらに大きくなることが明らかである。

(2) アクセサリーたけひさの三越への納入価格(三越の仕入原価)

前掲各証拠によれば次の事実が認められる。

アクセサリーたけひさはオリエント交易から輸入商品をすべて買取り、これをそのまま三越へ転売するもので、右商品の原価は代金額のみであり、これに加算すべき経費はない。したがって、アクセサリーたけひさの三越への納入価格は仕入価格にアクセサリーたけひさのマージンを上乗せしたものであるが、納入価格を具体的に決めるにあたっては次のような方法で行われていた。

① アクセサリーたけひさのマージンは一五パーセントを基本とするが、商品の種類、販売目的等から三越の上代(販売価格)設定に制約がある場合には、時に三越側の要請により右の率を下げることがある。しかし、そのような場合は他の商品の納入にあたり高い率のマージンを取って埋合せ調整し、平均すれば一五パーセントのマージンを確保できるよう努めていた。

② アクセサリーたけひさの売価設定の手法として、外貨の邦貨換算レートを基礎にマージンを加算した修正レートを作り、インボイス記載の商品単価に右修正レートを乗じることによって納入価格が算出できるような方法が用いられていた。

③ 商品がオリエント交易に入荷後すぐ三越に納入されるような場合には、オリエント交易の原価計算及びアクセサリーたけひさへの納入価格の決定が間に合わないため、インボイス記載の金額にオリエント交易の経費を三〇パーセントとし、これにオリエント交易のマージン五パーセントを加算し、さらにアクセサリーたけひさのマージン一五パーセントを加算した額をもって三越への納入価格としていた(したがって、オリエント交易のアクセサリーたけひさに対する具体的な納入価格は後で決定されることになる)。

④ 一通のインボイスで入荷された商品は、メーカーや商品が異なっても、原則として(時期を隔てて分納したり、時期を隔てて各店に直納する場合は別として)同じレートで売価を設定していた。

アクセサリーたけひさの売価決定の実務は右のとおりであるが、三越へ納入された商品の具体的な納入価格を個別にみていくと、アクセサリーたけひさのマージン率にかなりの高低があり、そこには一定の基準が無いかのように見えるが、その原因の主たるものは右①、③などの事由によるものであり、年間を通じてみれば、一五パーセントの線を確保していることが認められる(その内容は検察官の証拠説明書に詳しい)。

弁護人は、アクセサリーたけひさ側としては、三越側の上代や店出率を念頭に置き三越の担当者と協議して納入価格を決めており、アクセサリーたけひさの利益率〇・三パーセントの極めて低い率のものや赤字納入の取引があることは、三越の店出率の確保が優先されていたことを示していると主張する。

確かに、個々の商品については所論のように低率・赤字納入のものがあり、さらにアクセサリー類あるいは家電商品等については、相当数の返品や返品商品を再納する場合にも返品金額より再納金額が下回るものが存在していて、アクセサリーたけひさに差損が発生しているのが見受けられることも事実である。しかし、低率・赤字納入分については、他の納入分で埋合せしていたことはアクセサリーたけひさ側の樫村武の証言(反対尋問)、柳田満の検察官に対する供述調書(第七項)等によっても明らかにされているところである。また、アクセサリーたけひさの差損についても、大量在庫の処理等のため三越の仕入本部の実務担当者とアクセサリーたけひさの社員とが協議したうえ、返品差損あるいは返品再納差損を、例えばアクセサリー類については「貸借調整」、家電商品については「歩積み」と呼ばれる方法により、別途他の商品の新規納入金額に上乗せさせて補完する方法が講じられていたものである(根本証言等。なお、最も頻繁に「貸借調整」が行われたアクセサリー類の新規納入商品の差益率は平均二〇パーセント以上に達している)。したがって、所論指摘の事実は、その実質をみると、アクセサリーたけひさないし被告人竹久の三越に対する前記のような立場をよく示しているものといえる。

このように、アクセサリーたけひさの三越への商品の納入は通常一五パーセントのマージン確保を基本に置いて行われていたものであり、納品にあたりアクセサリーたけひさの社員と三越の担当者との間で交渉が持たれていたとしても、それは納品に伴う必要な連絡打合せか、上代設定に事情のある個別商品についての協議であったと認められ、三越の担当者が自由な立場でアクセサリーたけひさと仕入価格を協議していたものではないのである。なお、オリエント交易の代表取締役篭橋正好の検察官に対する供述調書によれば、同人は、昭和五三年四月ころオリエント交易とアクセサリーたけひさのマージンの比率を各一〇パーセントから五パーセントと一五パーセントに変えた際、被告人竹久から、「アクセサリーたけひさの方のマージンは一五パーセントは必ず取ってよ」と念を押されていたこと、また柳田満の検察官に対する供述調書によれば、同人は同年七月ころアクセサリーたけひさの決算の概要を被告人竹久に報告した際、マージンの取得率がやや低かったため、同被告人から、「もっとアクセサリーたけひさのマージンを上げるよう真剣に努力しなさい」と叱られ、そのため三越への納入事務を担当していた樫村武に対し、「アクセサリーたけひさのマージン率が一五パーセントを維持できるよう三越への納入価格を決めて貰いたい」と指示したほか、その後同被告人からは何度もアクセサリーたけひさのマージン率を聞かれ、その都度「一五パーセントは取るようにしています」と答えていたことが認められ、被告人竹久はアクセサリーたけひさの一五パーセントのマージン率確保にかなり執着していたことが認められる。

(3) 三越の売益率(店出率)について

証人井上和雄、同斎藤親平、同宇田真、同姶良和伸、同矢追秀一、同小林通曉の各証言等によれば、次の事実が認められる。

店出率とは個々の商品毎の粗利益率(商品の売価と原価の差額を売価で除したもの)をいい、売益率とは商品グループ(商品の品別あるいは部別)の粗利益率をいう。

三越における直輸入品の一般的な店出率は、概ね大量に売る商品で三〇パーセント位、比較的販売回転の遅い高級品、美術品等の商品で六〇パーセント位であり、多くの商品はこの中間に位置しているが、個々の商品の店出率は終始一貫しているわけではなく、販売動向(売れ行きの状況)、販売目的等により低下することがある。とくに、前者に起因する店出率の低下に関しては、輸入品が買取制であるため、適正な売価設定と売れ行きに見合った買付が行われないときは、在庫となって商品の陳腐化を招き、在庫処理のため札下げを余儀なくされることがしばしば生じるのであり、竹久絡み商品においてはこの傾向が顕著であった。

三越では、竹久絡み商品に限らず直輸入商品の買付にあたっては、販売計画とともに買付計画を立て、あらかじめ買付商品、原価、売価、店出率等を定めて決裁を受け、さらに買付実施後に買付報告書を作成して買付商品・金額等のほか店出率をも記載することになっており、竹久絡み商品についても店出率は概ね四〇パーセントないし五〇パーセントとなっていて、三越の純粋の直輸入品とさして変わらぬ率となっていたことが認められるが、これら商品の店出率は、あくまで三越の希望しあるいは期待する率であって、右の店出率で現実に売価設定がされその利益が確保されたわけではない。斎藤、矢追、小林の各証言にみられるように、竹久絡み商品の売れ行きは総じて芳しくなく、在庫となって残ったため値下げをしたものが多く、場合によっては原価を割って販売したものがあるというのであって、竹久絡み商品の実際の粗利益率は買付計画等における店出率よりはるかに低かったことが認められ、この原因がオリエント交易及びアクセサリーたけひさの中間マージンによる仕入価格の高騰によるものであることは明らかである(この点については後記第五節の損害論の項で論述する)。

2 香港コミッション方式の場合

既に述べたとおり、香港コミッション方式の場合には、商品の取入過程にオリエント交易及びアクセサリーたけひさは関与せず、商品自体は三越直輸入として入荷されるものであり、通関手続き等の輸入に関する諸事務はすべて三越の貿易管理部が行うものであるが、三越が右輸入にあたってシッパーとなった香港三越あるいはメーカー・サプライヤーに支払う輸入代金中には被告人竹久に支払われるコミッション相当額が上乗せされているため、右コミッション相当額だけ三越の仕入原価を高騰させることになる。

一〇 竹久絡み輸入方式による直輸入品在庫の増加

百貨店が商品を海外から直輸入して販売する場合の最大の利点は、国内仕入において商社・問屋等が取得している中間マージンを完全に排除できる点にあり、そのため仕入原価が低廉となり売上利益率の向上や、同業他店との価格競争における有利性を実現できることとなる。また、商品の直輸入にあたっては、仕入担当社員が直接海外に赴き、顧客のニーズに合致した商品を選定することができ、国内問屋等から仕入れるナショナルブランド商品とは一味違う優れた商品の買付が可能となることから、同業他店との商品差別化が推進され、自店特有の商品構成による販売が促進されることにより、利益を増大させることができることも大きな利点である。

他方、国内問屋等から商品を仕入れる場合には、売れ残り品が発生すれば、委託仕入、売上計算の場合はもとより、買取仕入の場合であっても業界慣習上返品が可能であるのに対し、直輸入商品の場合は、返品が全く不可能な完全買取りの形態を取らざるを得ず、そのため商品のリスクは全てデパートが負担することとなり、販売能力を超過する過剰在庫が発生すれば、陳腐化した商品の価値の下落による値下げ(特に、衣料品等売れ行きが流行に左右される商品については顕著となる)等を行わざるを得ないばかりか、在庫滞留中の金利負担も無視することができず、本来中間マージンの排除による仕入原価の抑制、同業他店との商品差別化による利益増進を目的とする直輸入が、逆に売上利益率を低下させ、業績を悪化させる原因にもなりかねない。

このように、デパートの直輸入品の取入れには利害得失があり、これを実施するにあたっては、右の諸点を十分勘案し、過剰在庫を発生させないよう販売能力とバランスの取れた仕入を行うことが肝要であることはいうまでもない。

ところで、三越においては、昭和四六年以来パリ三越を始めとして海外に基地を設け、被告人岡田の経営戦略である直輸入推進策にもとづき、右基地を拠点として積極的に海外商品の輸入を図ってきたことは、これまで再三述べてきたところであるが、三越の直輸入システムの最大の特色は、直輸入品取入れの過程に被告人竹久ないしその関連会社を介在させたことであり、本来中間マージンの排除を目的とする直輸入仕入方式にとっては極めて異例のことである。したがって、この場合必然的に、直輸入品取入れのデメリットである在庫に関する問題が生じることが考えられるところである。そこで、以下に竹久絡み輸入方式を介在させた三越の直輸入品がどのように在庫及び業績に影響を及ぼしたかをみることとする。

証人斎藤親平、同井上和雄、同石井一美、同内田春樹の各証言によれば、次の事実が認められる。

オリエント交易初期のころの取入れにかかるビーズバッグ等の香港商品が三越に大量の在庫を発生させ、三越がその処理に苦慮したことは、前記二(準直方式の成立過程)で述べたとおりである。そして、その後も三越の直輸入仕入の拡大・推進に伴い、年々直輸入品の在庫が増加していき、例えば昭和五一年一一月棚卸し時の三越売場における直輸入品の残高は三四億八六〇〇万円、同五二年二月時では三七億四〇〇〇万円、同年八月時では四六億二一〇〇万円、同年一一月時では六六億九八〇〇万円と一年間でほぼ倍増し、全売場商品残高(五一二億一六〇〇万円)の一年間の増加額五二億円のうち六〇・八パーセントを占めるに至っていた。

直輸入品の在庫の推移 (単位:百万円)

年度(末)

在庫

売場在庫

正味商品(倉庫在庫)

残高

直輸入品(内数)

構成比

残高

直輸入品(内数)

53

50,079

(指数)

100

11,523

(指数)

100

23%

3,852

(指数)

100

2,540

(指数)

100

54

59,001

118

13,959

121

23.6%

6,328

104

4,932

194

55

71,708

143

18,743

163

26.1%

12,704

330

10,676

420

56

85,544

171

25,593

222

29.9%

13,187

342

11,599

467

(注) 売場在庫は売価であり,正味在庫は原価である。

直輸入品売上の推移 (単位:百万円)

年度

売上

全三越

直輸入品(内数)

直輸構成比

53

469,338

(指数)

100

19,534

(指数)

100

4.2%

54

489,514

104

20,515

105

4.2%

55

544,114

116

24,771

127

4.6%

56

584,813

125

31,622

162

5.4%

斎藤親平が仕入本部長に就任した昭和五四年以降も直輸入品の在庫は益々増加の一途を辿っており、その状況を売上の推移と対照させて数値で示すと次のとおりである。

右によれば、昭和五三年度から同五六年度の間の三越の全売上高は、約一・二五倍に増加しており、この間の直輸入品の売上高も約一・六二倍の増加を示し、売上高の伸びにおいては直輸入品は他の商品を上回っているものの、他方、直輸入品の在庫の増加率は右売上高の増加率をはるかに上回り、売場在庫で約二・二倍、正味在庫で約四・六七倍の増加を示しており、直輸入品の売上・在庫の伸び率を比較すると、販売力を上回る直輸入品の仕入が継続的に行われ、在庫過剰の状況に陥っていたことが指摘できる。

他方、昭和五三年二月期以降の全店の商品回転率(売上高を期末原価で除したもの)をみると、一三・一(年間回転回数、以下同じ)、一二・二、一〇・三、八・六、七・九と年々大幅に低下し、粗利益率(売上総利益を売上高で除したもの)も二五・九(パーセント、以下同じ)、二五・九、二五・五、二四・九、二三・九と徐々に低下し、それに伴って経常利益も、総売上が年々上昇しているにも拘わらず、ほぼ横這いあるいは低下の傾向にあり、これらの現象は明らかに直輸入品の在庫増に起因するものと認められる。

以上によれば、三越における他に類を見ない特異な直輸入システムは、やはり過剰在庫を発生させ、商品の回転率の低下及び商品の陳腐化に伴う値下げによる利益率の低下等を招来させていたことが認められるのであって、この兆候は既に昭和五〇年代の初期の段階で現れており、通常の経営常識による限り、この時点で唯一最大の原因である竹久絡み輸入方式を直ちに廃止して本来の直輸入システムを復元し、販売力とバランスの取れた仕入れを行うべきであったことは明らかである。

被告人岡田の弁護人は、三越の在庫はデッドストックではなく、被告人岡田が意図的に商品を備蓄させたいわば待機商品と呼ぶべきものである。すなわち、被告人岡田は店頭販売だけでなく、テレビ・カタログ等による情報販売、イベント販売・会社法人に対する販売等の外商販売のために在庫を増やし、また昭和五七年一一月の三越創業三一〇周年記念セールのために商品を備蓄していたと主張し、被告人岡田も当公判廷で右主張に添う供述をしている。

しかし、三越では店頭販売はもとより情報販売、外商販売等による販売努力を相当しながら、なおかつ多量の在庫を生じさせたのであって、その在庫量がこれら販売用のために必要とされる量をはるかに超えていたことは、仕入の責任者である証人斎藤親平、同井上和雄の等しく証言するところである。三越の記念セールのための備蓄にしても自ら限度があるのみならず、過剰在庫の問題は昭和五〇年初期のころから生じていた事柄である。

また弁護人は、被告人岡田の右の経営戦略による在庫とは別に、客観的な要因、すなわち昭和五五年春ころからの景気後退による在庫増、バイヤー制度上の買入商品の増加、海外基地の独立採算制からくる商品増加、エージェント契約による輸入増、受注生産からくる商品増加、流通国際化・貿易摩擦解消のための輸入増等により在庫増が生じたこともあると主張し、被告人岡田も同様の供述をする。

しかし、一般的にいえば、右の諸点については、いずれも被告人岡田において十分対応することのできた問題である。景気の後退により消費が低迷し在庫が増えればそれに応じた仕入の抑制を考えるべきであり(これとは逆に被告人岡田が一層直輸入品の取入れを指示していたことは既に述べた)、バイヤー制度や海外基地の独立採算制からくる買付増にしても、もともとこれらの制度は被告人岡田の発案主導のもとに作られたもので、三越の最高責任者としてたやすくコントロールできた事柄であり(実際は同被告人はバイヤーや海外基地社員に対して絶えず買付の拡大・増加を求めていた)、エージェント契約や受注生産の問題についても、実務サイドで解決できることである。貿易摩擦解消等を理由にする在庫増についてはまさに取って付けた弁解であるとしか考えられない。

さらに、弁護人は、商品回転率について、輸入品は本来三越全体の品揃え、集客のためのディスプレイ的要素が強く、回転率が悪くても売上を伸ばすための戦略として必要であり、また当時の経済状態から国内商品の回転率も悪化していた時期でもあり結果論的な面もあると主張し、被告人岡田も当公判廷において同旨の供述をしている。

確かに、高級品、ブランド品等の直輸入品については、国内品あるいは価格訴求品と異なり、本来的に回転率が悪い面があることは否定できないが、売上と在庫のバランスを考慮する必要のない販売商品はなく、直輸入品についても結局は程度の問題である。前記斎藤親平、内田春樹らの証言ももちろん在庫自体が悪いと述べているわけではなく、所論指摘の点を斟酌したうえでなお三越の昭和五〇年以後の商品回転率の大幅な低落傾向は経営効率の面から憂慮すべき状態にあると判断しているのであって、十分首肯することができる。国内商品回転率の低下もその在庫の増加傾向から窺えないわけではないが、直輸入品在庫の伸び率及びその在庫全体に占める割合からすると、全体の商品回転率の低下は主として直輸入品在庫の増加に起因することが明らかである(なお、有価証券報告書等により同業の高島屋、大丸、そごうの商品回転率をみると、ほぼ一定していることが認められる)。

また弁護人は、三越の在庫商品が陳腐化していないことは、被告人岡田の後任社長がマスコミとのインタビューで不良在庫はないと発言していることや、「五六年度直輸入計画」(甲二3)の中で販売計画が出されている「直輸入品部別在庫売上表」において、売益率を国内商品より高い三五パーセントと見込んで販売計画が立てられていることからも明らかであると主張する。

しかし、先に述べたように、在庫が商品の陳腐化につながることは自明のことで、斎藤証言にもあるように、まさに在庫は値引きの予備軍的存在であり、比較的陳腐化のしない宝石等についても、これを販売しようとする者にとって必要以上の在庫は無益である。被告人岡田の後任社長となった元仕入本部長市原晃のマスコミに対する発言内容は所論のとおりであるが、これから在庫処理を図ろうとする者が自店の商品を不良在庫というはずがないことは当然のことである。しかし実際には、三越ではその後思い切った在庫処理(例えば、小林通曉の証言によって認められるように、被告人竹久の指示で買付けたジュールマルのドレスは定価六万八〇〇〇円のところを五八〇〇円で、同被告人が買付けたカデットのドレスは定価八万八〇〇〇円のところを二万八〇〇〇円で売り捌いたことなど)をした結果、昭和五七年度の決算で約五〇億円、同五八年度で約一〇〇億円の赤字を出したことが被告人岡田の供述により認められる。また、在庫品の販売計画についての売益率が三五パーセントであることも所論のとおりであるが、これはあくまで計画であって具体的な販売の結果ではない。所論指摘の証拠によれば、昭和五五年三月から一一月までの販売実績における計画達成率は、直輸入品全体で六五・八パーセントであり、竹久絡みの主要商品である婦人部門、雑貨部門の商品は五〇パーセントに満ちていないことが認められるのである。

また、弁護人は、売上と在庫のバランス論からする批判は結果論であって、商売の見通しが狂うことは営業に必然的に伴うことであり、三越では毎年十分な販売計画が立てられていたと主張する。

しかし、三越の直輸入品の在庫過剰は単発的なものではなく、昭和五〇年以後継続的に生じしかも年々状況の悪化していた問題なのであり、その原因も処方も明白であったのであるから結果論として済ますことはできない。三越で毎年販売計画が立てられていたことは事実であるが、販売計画だけでは過剰在庫は解消できない。

一一 まとめ(被告人岡田の忠実義務)

(一) 右に述べたように、三越の直輸入商品の仕入業務は、仕入本部による集中仕入方式であって、三越は、海外商品の開発、メーカー等との交渉、買付商品の日本への輸出等の業務を遂行するために海外基地を有し、常時相当数の社員を配置しており、海外における買付業務は、すべて三越独力でその処理が可能であった反面、被告人竹久の経営するオリエント交易及びアクセサリーたけひさは、その人的・物的な能力に甚だしく劣り、三越の行う大量の商品取入に関し、何ら有用な活動を行える状況にはなかったものであり、香港等商品に関しても被告人竹久個人の協力を必要とする場面は全くなかったのであるが、本件において直輸入業務に関し採用された準直方式は、三越の買付担当者が海外において買付けた商品を、形式上オリエント交易において輸入し、これをアクセサリーたけひさに転売したうえで納入される仕組みになっており、その間において、アクセサリーたけひさがオリエント交易からの仕入価格に対し概ね一五パーセントの売買差益を取得することとされていたのであり、また、香港コミッション方式は、三越の買付担当者が買付けた仕入価格に被告人竹久個人の取得すべき二ないし五パーセントのコミッション分を上乗せして支払うこととされていたのであり、したがって、これら方式によって三越が仕入れる場合、右アクセサリーたけひさの取得する売買差益及び被告人竹久の取得するコミッションは、三越にとって、本来支払う必要のない出費であり、その分だけ仕入価格の高騰を招いていたものである。

(二) 三越のような百貨店においては、仕入商品を販売し、その売買差益を取得することが営業の基本姿勢であるところ、直輸入商品は、ことの性質上買取仕入となるものであり、国内商品に比べて回転率も低くなり易いため、的確な販売予測に基づく商品選品力、強力な物流体制及び販売力が伴わないと在庫の陳腐化や評価減を招来し易いから、一般的に国内商品よりも高い売益率を確保しておかないと利潤の低下を招きかねない。

ところで、百貨店において販売する商品については、同業他店、スーパー、専門店等との間で自由な販売競争が行われるから、必然的に同種商品の販売価格は、他店の販売価格を大幅に上回ることはできず、したがって、概ね他店との横並びで決定されざるを得ないのであり、この理は、直輸入商品といえども例外たり得ない。それ故に、個々の仕入を行うにあたり、仕入原価と仕入に伴う諸経費をできるだけ抑制することが、仕入業務の基本的義務であり、それは同時に仕入業務全般を統括すべき代表取締役の会社に対する忠実義務の一内容でもあるといわなければならない。

(三) 本件において、前記アクセサリーたけひさに取得させた売買差益及び被告人竹久に取得させたコミッションは、前記のとおり、三越にとって無用の出費であり、被告人岡田の意思によりこれを支払わずに済ませることが可能であったことは明らかである。したがって、三越直輸入商品につき、右竹久絡み輸入方式により仕入を行い、三越に無用の出費をさせたことは、これを客観的にみて、代表取締役たる被告人岡田の三越に対する右忠実義務を著しく怠る任務違背の行為といわなければならない。

第二節竹久絡み輸入方式の内容に関する被告人岡田の認識(共謀の間接事実)

一 海外出張議案の決裁

被告人竹久の要請を受け被告人岡田の発案主導のもとに始まった竹久絡み輸入方式は、三越の直輸入システムの中に確立され、長期間日常的に運営されてきたものであるが、右方式の対象となる商品及びその具体的な買付については、被告人岡田は、仕入本部の担当社員との本社における業務上の接触、海外出張時におけるバイヤー、海外基地社員との接触、竹久絡み商品を扱うメーカー・サプライヤーへの訪問、メーカー関係者に対する被告人竹久同席のもとでの接待等公的場面のみならず、被告人竹久との夫婦同然の緊密な交際、同被告人宅における側近社員との交流等私的場面においても、これを認識する機会を持っていたものであり、かつそれを前提に強力に竹久絡み輸入方式を推進し、三越社員も同被告人の指示を受入れその実務を担ってきたことは、関係証拠によって認められるところである。そこで次に、被告人岡田の竹久絡み輸入方式による商品買付に対する具体的認識の機会となる三越社員の海外出張に対する決裁状況について簡単にみることとする。

被告人岡田の昭和五七年一一月二六日付検察官に対する供述調書、証人滝沢義明、同榎本勝善、同斎藤親平、同井上和雄の各証言、「海外出張議案」(甲二125ないし133)、「手帳三五冊」(同140)等によれば、次の事実が認められる。

三越においては、社員が海外商品買付のためバイヤーとして海外へ出張する場合には、仕入本部の各商品担当部で海外出張計画を策定し、仕入本部長(昭和五七年三月以降商品本部長)の決裁を得たうえ、同本部長等の名義で「海外出張の件」と題する出張議案を起こし、これを社長に稟議してその決裁を受けることになっていたが、右出張議案書には、出張先(都市名)、出張目的、出張予定者、買付金額の総額、出張期間が記載されることになっていたほか、付属書類として販売計画表とともに海外出張買付表及び海外出張日程表が必ず添付されることになっていて、具体的な買付商品名、買付金額、メーカー等が詳細に記載されていたため、決裁者である被告人岡田としては、出張するバイヤーがいかなるメーカー、サプライヤーを訪れ、いかなる商品をどの位買付ける予定であるか、一目瞭然に了知できる立場、状況にあったものである。

被告人岡田の実際の決裁の状況については、同被告人は海外商品の取入れに極めて熱心であったため、右出張議案の全てに自ら目を通し、納得すれば議案書上の「取締役社長」押印欄に赤鉛筆で署名をして決裁を了していたものであり、その際決裁を貰いにきた買付の責任者やバイヤーに対ししばしば質問したり指示したりし、さらに議案書上に赤鉛筆で出張者に対する指示事項(例えば「香港三越からタイ商品を購入すること」、「バイヤーシステム藤村連絡」等)を記入したり、横線を引くなどしていたことが認められる。被告人岡田が右の決裁事務を直輸入品買付に自らの意思を反映させる良い機会として重視していたことは、昭和五六年一月一八日ころ行われた社長帰国報告会で、「海外に出張に行く者は今後全員社長から直接指示を受けて行くように」との指示をして、従来同一商品担当部から数名が同時に出張する場合には最上席者だけが出張議案の決裁を受けに行くことがあったのを改めさせることなどによっても窺い知ることができる。また、被告人岡田の決裁時の特徴は、竹久絡み商品についてしばしば買付量の増加を指示していたことであり、これが少額の場合は「こんなものじゃ足代にもならない、もっと買え」(榎本証言)などと言って、なかなか決裁して貰えないことがあり、このためバイヤー達は、適正量を何割か多くした買付計画を持って被告人竹久のところに行き、事前に説明して根回しをし、被告人岡田の決裁を容易にするということも行われるようになっていた。

以上のとおりであって、被告人岡田は海外出張議案の内容を通じて具体的な買付商品、金額、メーカー等を知り、竹久絡み商品の買付の有無・内容をも十分認識したうえで、同議案の決裁を行っていたことが認められる。

被告人岡田の弁護人は、被告人岡田は、膨大な決裁書類が上ってくるのであるから、中身を詳細に続み認識することは不可能であり、決裁したからといって内容を了解しているとはいえないと主張し、被告人岡田も当公判廷において、誰がいつどこへ行くのかというところを見てざっとサインする程度であると供述している。

しかし、前記認定の諸事実によれば、被告人岡田の直輸入品買付に関する出張議案の決裁は、単なる形式的なものではなく、その内容を充分検討して行っていたことは明らかである。被告人岡田が買付金額、数量などの細かいところまで目を通し、買付数量の増加を指示していたことは、榎本証言が言う「足代にもならない」との同被告人の発言のみならず、証人井上和雄の証言によって認められるように、被告人岡田は昭和五三年秋ころ仕入本部雑貨部長阿部真太郎のアクセサリーの買付出張に関する出張議案の決裁にあたって、その買付計画が四、五千万円程度であったところ、仕入本部長井上和雄及び右阿部を呼び付け、「この買付量は少なすぎるんじゃないか。よく売れる商品であればもっと買わなきゃだめだ」と叱責し、買付金額を二倍にさせた事実によっても、裏付けられている。被告人岡田自身も、検察官に対する昭和五七年一一月二六日付供述調書において、決裁の状況に関し、「買付計画を持ってバイヤーと部長が私の所に海外出張の許可を受けに来た際、その買付計画を十分に点検し、買付内容の訂正をすべきところは訂正させるとともにその販売計画なども聞いておりました。そして四、五年前頃からは、できるだけ販売計画例えばいつからいつまでどういう催物をし、どのように売っていくかという具体的な計画を書いたものと買付計画を作らせ、それを持って私の所に来させるようになりました。中には販売計画書を作らないで買付計画だけ持って来る者もおりましたが、私は販売と仕入とを連動させなければならないことからこの二つをできるだけ作らせるようにしていました。そしてこのような書類を持って私の所に海外出張つまり買付の出張の許可を受けに来た際、その買付計画の具体的内容つまりどこで何をいくらぐらい買付けるかということをチェックするとともにその販売計画を見て買付計画が適当である時は出張を許可し、買付計画が大きすぎるとか小さすぎるとかというような場合には訂正させておりました」と述べているのである。

二 ヨーロッパにおけるエージェントコミッションに関する認識と推進

ヨーロッパにおける初期の竹久絡み商品は大半が準直方式によるものであり、コミッション方式によるものは、イギリスのマッピンアンドウェッブ、フランスのセルッティ、ショーメイ、イタリアのバルトロメイといった個別のブランド商品に限られており、これらの商品については、オリエント交易と各メーカーの間に「代理店契約」が締結され、海外基地がシッパーとなって商品を直接東京三越へ輸出し、オリエント交易はメーカーとの右契約に基づきいわゆるエージェントコミッションをメーカーから取得する(但し、マッピンアンドウェッブの場合はロンドン三越から送金を受けていた)方法が採られていたものである。右のエージェントコミッション方式は、竹久絡み輸入方式の中では例外的な存在ではあったが、準直方式及び香港コミッション方式と同様被告人竹久の経営するオリエント交易に利益をもたらす手段として、三越の直輸入システムの中に組み込まれ定着していたものであり、さらに昭和五五年以降被告人竹久の三越直輸入への関与に対する批判をかわすため、イタリア三越において採られていたレター交換方式による「輸出代理店契約」に基づくコミッション方式とともに、その拡大適用が図られた方式である。このように、エージェントコミッション方式は、竹久絡み輸入方式を構成する一方式であり、本件起訴対象となっている準直方式及び香港コミッション方式に関する被告人両名の共謀を推認させる間接事実でもある。そこで以下において、簡単に、オリエント交易がエージェントコミッションを取得していた商品に対する被告人岡田の関与、認識の状況をみることとする。なお、ここで取り上げる各商品の契約締結の経緯等については、前節四で認定したとおりである。

1 マッピンアンドウェッブ

昭和四八年六月オリエント交易とマッピンアンドウェッブ社との間で締結された独占輸入販売契約は、オリエント交易設立後初めてのヨーロッパ商品に関するコミッション契約であり、三越においても同年一一月本館六階特選売場にショップを開設するなどして同商品の販売に力を入れていたものである。そして、証人岡部明の証言、アルバム(弁291)等によれば、仕入本部雑貨部長岡部明らがマッピングアンドウェッブ社と契約締結の交渉をしていた昭和四八年五月六日ころ、被告人岡田は、被告人竹久と共にロンドンの同社の店頭を視察し、同行の岡部らに対し、「ここはなかなかいい商品を扱っているじゃないか。エージェント権取得に協力してやれ」と指示し、さらに同日夜被告人竹久の主催で開かれたパーティに出席し、招待されていたマッピンアンドウェッブの社長と歓談するなどしたことが認められる。なお、被告人竹久の検察官に対する昭和五七年一一月一六日付供述調書によれば、同被告人は、ロンドンに行く前被告人岡田に対し、「イギリスにマッピンアンドウェッブという世界的に有名な店があるのですが、オリエント交易がそのエージェントを取れるかもしれないのでロンドンへ行ってきます」と話したところ、被告人岡田は、「そうか行ってこい」と言って賛成してくれた旨述べている。また、マッピンアンドウェッブとの契約は当初同社とオリエント交易・三越との三者間の契約であったが、昭和五一年ころ右契約から三越が抜け、オリエント交易との二者契約に切り替えられているところ、証人斎藤親平の証言によれば、当時仕入本部長であった同人は、昭和五四年五月三一日の報告会において、被告人岡田から、「コミッションのことだが」と前置きがあった後、「マッピンアンドウェッブは初め三者契約だったけれどもしばらくしてからこれを表面上二者契約にしたんだ。こういうこともあるということをこれから考えておけよ」と言われたことが認められ、被告人岡田は右契約内容を十分知悉していたこと及びこの契約の形式を被告人竹久と三越との癒着に対する批判を回避する方法として重視していたことが認められる。

2 セルッティ

昭和五三年秋契約が締結されたセルッティの商品は、当初デビ夫人がパリ三越の天野治郎に販売権の話を持ち込み、同社との交渉の過程で被告人竹久が介入し、オリエント交易にエージェント権を与えざるを得なくなった商品であり、また三越に取入後一階のインショップでブティック展開のなされた商品であるが、証人松本健太郎の証言によれば、パリ三越の天野治郎により右契約の交渉が進められていた昭和五三年一月ころ、被告人竹久は、セルッティのマネージャーのデビシアが来日した際、同人を自宅に招き、その席に被告人岡田も出て、同人に対し、三越は日本で一番古くて大きいデパートであることを強調し、セルッティを是非三越で展開したいのでよろしく頼むと申し入れたこと、その後松本健太郎は被告人竹久から、「セルッティについては是非うちでやらせて欲しい。社長の了解もうちで取ってありますからね」と言われていること、その後右天野の尽力で契約の交渉が進展していた同年三月ころ、松本健太郎は被告人岡田に対し、「セルッティの契約がほぼ煮詰まってまいりました。オリエント交易をソールエージェントとして五パーセントのコミッションを支払うという形で三越が独占販売権を取ります」と報告したところ、同被告人は、「それはよかったじゃないか。しっかりやれ」と激励したことが認められる。

3 ショーメイ

昭和五三年六月ころ契約締結のなされたショーメイの商品は、本店特選売場でブディック展開された主要商品であるが、この独占販売権も三越が独自で獲得しようとしたのを、被告人竹久の要求によりオリエント交易が取得することとなったものである。そして、証人松本健太郎の証言によれば、昭和五三年春同人が契約交渉のためフランスに出張するに先立ち、被告人岡田に対し、「ショーメイとの契約が取れそうです。ショーメイについてもマッピンアンドウェッブと同じようにコミッションベースでオリエント交易を通して入れます」と報告したところ、同被告人は、「それはよかったじゃないか。しっかり頑張ってくれ」と激励したこと、さらに被告人岡田は、同年六月三越恒例のヨーロッパツアーでフランスに行った際、ショーメイとの契約締結がなされた直後ショーメイを表敬訪問し、同社社長に対し、「販売は三越がやるから安心して欲しい」と述べたことが認められる。

4 バルトロメイ

昭和五三年六月契約締結のなされたバルトロメイの商品は、イタリア三越関係最初のコミッション方式による商品であり、本店一階でブティック展開されているが、この独占販売権も契約交渉の途中で被告人竹久が要求した結果オリエント交易に与えられたものである。そして、証人松本健太郎の証言によれば、同人は昭和五三年春前記のとおりショーメイの件で被告人岡田に会った際、バルトロメイについてもコミッションベースでオリエント交易が取り扱う旨報告し、同被告人の了解を得たことが認められる。

以上のとおり、オリエント交易がエージェントコミッションを取得していた商品については、被告人岡田はその契約の交渉経過、内容を十分認識していたことはもとより、メーカーを訪問したり、本店でブティック展開させるなど、その取入と販売に積極的に取り組んでいたことが認められる。

三 右方式の推進と具体的指示

三越の各海外基地における輸出取扱高の増加に伴う三越の直輸入商品の増加及び海外基地の右輸出取扱高に占める竹久絡み輸入方式対象商品の割合の増加に伴う同商品の増加については、第一章第一節二の(七)において認定したところであるが、これらの事実は、竹久絡み輸入方式が三越の海外商品仕入システムの中に定着し、被告人岡田の経営戦略の核となっていた直輸入推進がそのまま竹久絡み輸入方式の拡大・推進に結び付いていたことを示している。そして、被告人岡田が社内の各種会議等において事ある毎に直輸入推進を強調・指示し、これを実行させていたことは、当公判廷に出廷した三越社員が等しく証言するところであるが、直輸入推進に関する同被告人の発言の具体的内容については、当時の仕入本部長井上和雄のノート(甲二110)及び同斎藤親平の手帳(甲二140)に明らかにされており、とくに斎藤の右手帳の記載内容については同人の証言により詳細に補充説明がなされている(その主要なものは論告要旨269頁以下に引用されているとおりであると認められる)。他方、三越社員は、竹久絡み輸入方式が被告人岡田の指示により三越直輸入システムに組み込まれ、直輸入の実行が被告人竹久ないしその関係会社の利益に直結していることを熟知していたが故に、被告人岡田の右の直輸入推進に関する指示・発言が純粋に三越のためになされていたと考える者はなかった。この点に関し、被告人岡田の社長在任中、仕入部長、本店長、営業統括室長等を歴任した証人杉田忠義が当公判廷(第二五回公判)において、検察官の質問に対し、「もちろん直輸入の推進でございますとか、あるいは貿易摩擦を解消する一助にも、三越が直輸入を推進するということ自体は問題はないわけでございますが、そういう背後に竹久先生がいるということはもうすでに社員全体と言っていいくらい知っておりましたので、社長の話を額面どおり受け取る者はいなかったんじゃないかというように存じます」と証言している部分は、当時の三越社員の気持ちをよく代弁している。

このように、被告人岡田の直輸入推進に関する指示は、竹久絡み輸入方式の拡大の指示を意味するものであったが、同方式が定着化し、対象商品が拡大するに至った根本の原因は、もとより被告人岡田が三越幹部社員に対し、同方式を是認しその推進・拡大を図る指示・発言を繰り返していたことによるものである。その具体的内容に関しては、本件犯行ころまでのものは既に触れたので、以下には主としてそれ以後のものについて述べることとする。

1 一般的指示・発言

被告人岡田が、昭和五二年六月及び同五三年六月のヨーロッパツアーに際し、二度にわたり、当時のパリ三越副支配人でその後フランスを中心としたヨーロッパ商品の準直方式・コミッション方式の拡大に実務面で重要な役割を果たすことになる天野治郎に対し、竹久絡み輸入方式の拡大のための協力を求めたこと、昭和五三年春ころ、当時の仕入本部長井上和雄に対し、竹久絡み輸入方式を是認正当化する発言を行ったこと、同年暮れころ、当時の総務本部長宮崎喜三郎に対し、東南アジア関係の直輸入商品に被告人竹久にコミッションを支払う意向を明らかにし、その実行を井上仕入本部長に督促するよう指示したことなどについては、既に述べたとおりである。その後の被告人岡田の指示・発言等については、証人斎藤親平、同藤村明苗、同萩原秀彦の各証言等によれば、次の事実が認められる。

(一) 昭和五四年五月ころ開催された労働組合との連絡協議会において、組合幹部から仕入本部長斎藤親平に対し、直輸入品の在庫とくにセルッティ、バレンシアガ、タイリング等が多い、特定業者に返品できないのはなぜか、企業のためにやっているのか特定業者のためにやっているのか、などと明らかに竹久絡み商品を批判する指摘がなされていたところ、被告人岡田は斎藤から右組合の指摘について報告を受けた後の報告会において、同人に対し、「返品や残高ばかりをがたがた言っているやつもいるが、直輸に関しては仕入予算などないんだ。そのときいいものがあったら買ってしまわなければだめなんだ」などと竹久絡み輸入方式を擁護・正当化する発言を行った。

さらに被告人岡田は、昭和五七年三月ころ、右斎藤に対し、被告人竹久に関する投書があったことに言及し、「オリエント交易とかアクセサリーたけひさなどが入っていることについてとやかく言うやつがいるけれども、うちは東郷たまみとだって取引してるじゃないか。ただ竹久の場合は会社であるというだけだ。竹久はデザイナーとして使用すればいいのであって、これは直輸をどうのこうのということとは関係ないんだ」などと述べた。

(二) 昭和五四年七月ころ、被告人竹久は、当時の仕入本部長代理藤村明苗と共にバンコクに赴いた時、同人に対し、「これから東南アジアの輸入がますます増加します。私の方は漸次直輸入に切り替えてコミッションをいただくようにしていくつもりでございます。このことは社長も了解していますし、また社長もそれがいいだろうと言っておられますから」などと言って、東南アジアからの直輸入品については被告人岡田の了解のもとにコミッションを取得する意向であることを告げていたところ、被告人岡田は、同年九月ころ、オーキッドファッションの役員会に出席するため香港に赴いた際、同行の右藤村に対し、その時同時にヨーロッパから香港に入った被告人竹久がたまたま足を痛めていたことに関連して、「竹久は足を悪くするくらいよく働いて大変だ。三越のために三越の社員以上によく働いている」と述べた後、被告人竹久がどのくらいコミッションを取っているか尋ね、藤村が大体二パーセントから五パーセントである旨答えたところ、「じゃあ、せいぜい香港で安い商品をうんと集めて東京にどんどん輸出するんだな」と言って、暗に竹久絡み輸入方式で香港はじめ東南アジアの商品の輸入の拡大を図るよう指示した。

次いで昭和五五年二月ころ、被告人岡田は、右藤村明苗が香港三越の専務取締役として赴任するにあたり、同人に対し、東南アジア商品の開発と三越への輸出推進を指示した後、「香港は非常に安く買えるし、労働力も大変安いが、センスが悪い。いいセンス、いいデザインで商品を作らせて日本に持ってこなくちゃならない。そういう意味では竹久はなかなかいいセンスをしているからあいつを利用するといいよ」と述べて、東南アジア商品の被告人竹久の関与を正当化しその推進を図る発言をした。

弁護人は、前記昭和五三年暮れころの宮崎喜三郎に対する被告人岡田の発言について、被告人岡田の発言は同被告人が被告人竹久のコミッションにつき全く認識していないということを前提にしなければ理解できないから、昭和四九年三月末ころの奥山清秀に対するコミッション方式への変更の指示や、昭和五〇年五月ころの香港三越に対する税務調査での宮崎喜三郎に対する指示と相容れないし、また、「あいつがかわいそうだ」との点も、準直方式を直輸入方式に切り替えると被告人竹久の利得がなくなると理解していたということを前提にしているが、当時の香港三越取扱いの主要商品である宝石、毛皮、ジーンズ等はすべて直輸入商品で、準直商品は少量・少品種のアクセサリー類であったに過ぎず、被告人岡田の発言は前提を欠いていると主張する。

しかし、被告人岡田の発言は、今後香港を中心とした東南アジアの商品が直輸入方式で飛躍的に増大する(あるいは同商品を増大させる)ことを指摘して、右直輸入品につき被告人竹久にコミッションを与える意思を宮崎喜三郎に明示し、併せてその理由・弁解を述べたものである。すなわち、従来香港コミッション方式の対象商品は、金額的には多額であったが、商品アイテム的には宝石中心であり、その他には極く一部の衣料品にとどまっていたところ、三越では昭和五三年後半以降、毛皮・婦人衣料・紳士衣料等広範な商品アイテムにつき香港商品の大量直輸入を行なっているのであり、被告人岡田の宮崎に対する前記発言は、これら新たに開始された大量直輸入に伴う被告人竹久の利益の確保を考えたものであったと理解できるのであり、被告人岡田が香港コミッション方式の存在を認識していたことと何ら矛盾するものではない。

また、弁護人は、前記東南アジア出張中藤村明苗に対する昭和五四年七月ころの被告人竹久の発言及び同年九月ころの被告人岡田の発言について、二パーセントないし五パーセントのコミッション率に関する右藤村の証言の信用性を弾劾し(但し、その論旨は難解で正確に把握できない)、また同証言中の被告人竹久のコミッション切り替えの発言についても、当時ほとんどの商品が直輸入取引となっており、漸次直輸入に切り替えるという段階ではなかったのであるから、被告人竹久が直輸入への切り替えとコミッションに関する希望を述べるはずがなく、藤村の右証言部分は虚偽であると主張する。

しかし、藤村証言は、これを素直にみれば、とくに不自然、不合理な点はない。藤村証言のいう被告人竹久の発言内容は、要するに、今後増大していく東南アジアの輸入商品について、被告人岡田の了解の下に香港コミッション方式により二パーセントないし五パーセントのコミッションを取得する考えであることを、藤村に対し明らかにしたものである。また、コミッション切り替えの発言についても、東南アジア商品の大量直輸入の実施とそれに伴う自己の利益をコミッションにするという方針は、ヨーロッパ商品を含む竹久絡み輸入方式の対象商品全体をコミッションベースに切り替えていこうとする大きな流れの中の一場面として理解すれば、被告人竹久の発言中にコミッション切り替えの言葉が出てきても何ら不自然ではない。

さらに弁護人は、前記萩原秀彦らに対する昭和五四年初めころのマンダリンホテルでの被告人岡田の発言について、被告人岡田の発言は百貨店商法としては極めて当然のことを指摘し、職員を指導したものであり、また被告人岡田が被告人竹久を信頼していたからこそそのセンスを利用するようアドバイスしたに過ぎないのであって、これがどうしてコミッション支払いの示唆とか正当化の発言になるのか理解に苦しむと主張する。

しかし、香港等の商品の買付は香港三越によって行われていたものであり、被告人竹久はこれらの買付に何ら寄与するところはなかったのであるから、被告人岡田がこうした者を利用するよう指示しコミッションを与えようとすることは、百貨店商法のみならずいかなる商法においても許容されないことは明らかである。そして、被告人竹久が商品買付に関与することによってコミッションを取得する仕組みになっていたのであるから、同被告人が関与する商品の買付を指示することは、とりもなおさずコミッション支払いの指示を意味していたのである。

2 個別商品群に対する指示・発言

(準直商品関係)

(一)  ポール・ルイ・オリエ

ポール・ルイ・オリエは、ファブリスがフランスにおける最初の準直方式の対象となった商品であるのに対して、フランスにおける準直方式拡大のきっかけとなった主要商品であり、昭和五〇年秋ころパリ三越により開発がなされ、被告人竹久の要求により準直商品となったものである。そして、証人松本健太郎、同萩原秀彦、同榎本勝善の各証言によれば、ポール・ルイ・オリエの第一回買付分が入荷する直前の昭和五一年初めころ、当時の本店特選部長兼仕入部総合企画室外国部長の松本健太郎が、本店六階の特選売場において、売場巡視に来た被告人岡田に対し、「フランスの新人デザイナーのポール・ルイ・オリエという商品を今度買付けます。六階のここで展開をしたいと思います。この商品はオリエント交易経由で入ってまいります」と報告したところ、同被告人は、「ポール・ルイ・オリエというのはなかなかいい商品だそうじゃないか。あれは(被告人竹久)いいセンスをしているからこれからもどんどん使うんだな」などと言って、同商品を被告人竹久から聞いて知っている旨発言すると共に、同被告人の関与を正当化し、これからもオリエント交易経由で積極的に輸入するよう指示したこと、さらに同商品が特選売場でブディック展開されて一年位経った後、被告人岡田は右松本に対し、もっと積極的に展開した方が良いと言って同商品を三階の婦人用品売場に移すよう指示し、同部長の榎本勝善に対しては、同人のもとにまだ連絡がなされていないうちに同商品が来ることを知っているか確かめ、今度君のところで売るんだぞ、と念を押したことが認められる。

(二)  バレンシアガ

バレンシアガのハンドバッグ、皮小物等は昭和五一年ころから、同婦人服は昭和五三年ころから、いずれも三越の純粋の直輸入品として取入れられていたが、被告人竹久の要求により昭和五四年ころからコミッション方式の対象となり、さらに新しく生産の始まったバレンシアガの紳士服については、同被告人の要求によりそのころ準直方式の対象となった(後にこの商品もコミッション方式となっている)ものである。そして、証人天野治郎、同小林通曉、同矢追秀一の各証言によれば、被告人岡田は、バレンシアガが竹久絡み商品となった直後に、総務本部に直接指示し、竹久側近グループの代表的人物であった幸前誠を小林通曉に代えバレンシアガのブディック店長に就任させたほか、バレンシアガのファッションショーを帝国ホテル等で大々的に開催させるなどしたこと、また被告人岡田は、昭和五五年六月ころ、ヨーロッパツアーでパリに行った際、パリ三越副支配人天野治郎に対し、「バレンシアガの商品というのはいい商品だな。ああいうものはどんどん売っていかなければいけない。パリ三越でも思い切って買付をしろ」と指示し、さらに被告人竹久、パリ三越支配人横山哲、天野を伴ってバレンシアガ社を表敬訪問し、その際同社社長に対し、被告人竹久の方を指して、「彼女が日本でデザインをやっている。デザインのことは彼女にいろいろ相談して欲しい」などと話して、バレンシアガに力を入れている姿勢を天野らに示した。

(三)  毛皮

三越の直輸入の毛皮は米国のバードルフ・グッドマンの商品を除いて、最終的にはすべて竹久絡み輸入方式の対象となったものであり、このうち香港関係の毛皮はコミッション方式であり、ヨーロッパ関係の毛皮は準直方式(後に一部商品がコミッション方式となった)であった。証人吉川政孝、同宇田真、同姶良和伸、同斎藤親平の各証言等によれば、ヨーロッパ関係の毛皮の主流を占めていたドイツ毛皮については、ドイツ三越支配人代理の吉川政孝が市場調査をしてサンプルを集め、支配人岡部明の指示により、昭和五四年八月末ころ、これを持参して帰国し、婦人子供用品部長宇田真に連れられ被告人竹久のところに赴き商品の説明をしたところ、同被告人から宇田に対し買付の要請がなされ、同年一一月同部主任姶良和伸がオリエント交易社員柳田満の同行の下にヨーロッパに出張して毛皮の買付をし、準直方式で三越に輸入されるようになったことが認められる。そして、既にこのころ香港関係の毛皮もコミッション方式の対象となっており、こうして昭和五四年末ころには三越直輸入毛皮の大部分が竹久絡み輸入方式の対象商品となる体制がほぼ確立したが、その直後ころから被告人岡田は社内の各種会議等で毛皮の買付を強く指示している(論告要旨「岡田の直輸入推進指示一覧表」参照)ものである。

(四)  羽毛布団

証人吉川政孝、同小林昭三郎、同斎藤親平の各証言等によれば、次の事実が認められる。

呉服部所管の羽毛布団は、昭和五四年秋の買付の段階では三越純粋の直輸入商品であったが、翌五五年秋仕入本部呉服部課長の友竹智がヨーロッパに出張して買付を行った際、オリエント交易社員柳田満が同行したことから準直方式で輸入されることになった。その後、被告人岡田は、昭和五六年六月のヨーロッパツアーの際、被告人竹久を伴ってドイツ三越に立ち寄り、店頭で羽毛布団を販売しているのを見てサンプルを買うなどし、帰国後、帰朝報告会及び経営企画会議の席上、日本の大手の布団業者である西川産業がドイツ羽毛布団を年間三〇億円買付けていることを引き合いに出しながら、三越においても羽毛布団を積極的に買付けるよう指示し、その後も斎藤親平仕入本部長や小林昭三郎呉服部長に対し、再三その買付を指示した。他方、被告人竹久は、被告人岡田が帰朝報告会において羽毛布団買付の指示をした直後ころ、右斎藤に対し、「ドイツ三越へ行ったら羽毛布団が現地で大変売れていた。非常に安いから是非三越でも売りたい。それについて、斎藤さんからいろいろ全国にも話をして大々的に売ってもらうようにお願いしたい」と言って、羽毛布団の大量買付を要求した。こうした結果、昭和五六年九月ころ前記小林呉服部長が羽毛布団買付のためヨーロッパに出張することとなったが、立案の段階で売場視察に来た被告人岡田に対し、原価で一億円位の買付をする旨話しその了解を求めたところ、同被告人から少ないと言われ、結局約二億円に増額することとなった。またそのころ、被告人竹久は、右小林を大手町のデザインルームに呼び、買付計画の説明を受けた後、同人に対し、「岡田社長が西川産業で三〇億円と言っているのであるから、もっと買ったほうがいいのではないですか」などと述べて、買付の増額を要求したりしていた。

(五)  インテリア商品

家具・家電部所管のカーペット、テーブルクロス、タピストリー等のいわゆるインテリア商品は、昭和五五年秋の買付から準直方式で輸入されるようになったものであるが、証人斎藤親平、同天野治郎等の各証言によれば、その経緯は、次のとおりである。

昭和五五年六月に行われた三越主催のヨーロッパツアーに被告人両名は参加したが、その際被告人岡田は、パリのリッツホテルの居室において、部屋に飾ってあったタピストリーを見ながら、被告人竹久に向かって、「君のところはアクセサリーとか婦人服とかそんなものばかりやっていたんじゃ駄目なんだ。これからはこういうインテリア関係のものをやりなさい」と言って、竹久絡み輸入方式の対象商品をインテリア商品にまで拡大するよう勧めた。そこで被告人竹久は、同席していたパリ三越副支配人天野治郎に対し、右タピストリーのメーカーを調査するよう依頼し、その後天野からメーカーが「パンスー」であるとの報告を受けた。

その後の同年九月二日ころ、被告人岡田は、仕入本部長斎藤親平に対して、「これからはあらゆる商品を買付けられるバイヤーを養成しなければ駄目だ。特に海外の買付というのは、これからはインテリアとか家庭用品などがよくなってくるから、こういうものを買付けられるバイヤーを養成しろ」などと述べて、今後の海外での買付にはインテリア商品等にも力を入れるよう指示した。その結果、同年一〇月一二日から仕入本部家具電器部課長高橋良夫がバイヤーとしてヨーロッパに出張し、インテリア商品の買付を行うこととなったが、右買付には終始オリエント交易社員柳田満が同行し、このため前記タピストリーを始めとするインテリア商品は準直方式の対象商品となり、その後もしばしば柳田が同行するという形が続いたため、カーペット等家具電器部所管の準直商品が増加するに至った。

(香港コミッション商品関係)

(一)  香港宝石

香港コミッション方式の主要商品である香港宝石の本格的輸入は、昭和五一年八月ころの仕入本部貴金属部長三輪達昌の買付からであるが、同商品が香港コミッション方式の対象となり買付量が増大していった経緯については既に詳細に述べたとおりである。この過程において、被告人岡田は、三輪の最初の買付に際し、それまで三越では宝石在庫削減の方針が取られていたにもかかわらず、宝石の大量買付を指示し、翌五二年四月には右三輪が宝石買付に消極的であったことを理由に同人を横浜支店に転出させたこと、竹久側近グループの一員で後に香港コミッション方式の維持拡大に重要な役割を担うことになる関根良夫が昭和五二年七月被告人竹久の推薦で香港へ出向するようになった際、同人に対し宝石業者の開拓と宝石の大量買付を指示していること、昭和五三年一月ころ香港出張の際、フーハン等香港コミッション方式の対象となっている宝石業者を被告人竹久と共に香港三越の幹部社員を同行して訪れ、さらに同年八月ころ及び九月ころ香港において、香港三越支配人萩原秀彦や関根良夫に対し、被告人竹久を同席させたうえで、宝石の大量買付を指示していたことなどの事実を指摘することができるが、その後も被告人岡田は、社内の各種会議等において、宝石の大量買付の指示を強硬に繰り返していたものであり、その内容は論告要旨の「岡田の直輸入推進指示一覧表」記載のとおりである。

(二)  毛皮

香港の毛皮は、昭和五三年九月末ころ仕入本部婦人子供用品部主任姶良和伸が香港のサイベリアンファーから買付けた分から香港コミッション方式の対象となり、以後宝石と並んで香港コミッション方式の主要商品として買付額が増大していったものである。右の経緯についても既に述べたとおりであり、その過程において、被告人岡田は、昭和五四年ころ被告人竹久と共に香港を訪れ、香港三越の萩原、関根らを伴って毛皮業者を回ったうえ、同人らに対し毛皮の買付に被告人竹久を関与させるよう指示し、その結果香港毛皮が全部順次香港コミッション方式の対象商品となったこと、さらに昭和五四年末ころから各種会議で毛皮の買付を増やすよう指示を繰り返していたことなどの事実が認められる。

(三)  レディス・オープン記念企画ゴルフウェア

証人斎藤親平、同宇田真の各証言等によれば、次の事実が認められる。

昭和五五年五月ころ、被告人岡田は、仕入本部長斎藤親平に対し、翌年春に開催が予定されている三越主催のゴルフトーナメント「第一回レディス・オープン」の記念企画商品として三越オリジナルのゴルフウェアーを生産して販売するように指示をした。そこで、仕入本部婦人子供用品部長宇田真が中心となって種々検討した結果、伊藤忠(イトチュー)のデザイン企画に基づき株式会社樫山に生産発注する計画を立て、右案について被告人岡田の了解を得たうえ、樫山とも折衝を重ね、同社にゴルフウェアーの生産を発注した。

ところが、同年九月ころに至り、被告人岡田は、突然斎藤に対し、「今度のゴルフウェアーの企画はどこか香港で作らせろ。チョッカーというデザイナーがいるからこれにひとつデザインをさせろ」と言い出し、斎藤が既に発注済みであることや新企画は期間的に無理である旨話したのに対し、「高いマージンを払って国内なんかで作らせるよりも、東南アジアの安い労賃を使って作らせたほうがよっぽどいいじゃないか」などと言って生産方法の変更を求めた。

右指示を受けた斎藤は、その旨を直ちに宇田に伝えたところ、同人からやはり発注し直すことは無理であるとの返事を受けたので、同人を伴って再び社長室に赴き、被告人岡田に対し翻意を促したが、同被告人は、斎藤・宇田に対し、「お前達何回言ったら判るんだ。お前達は樫山から給料貰っているのか」と激しく叱責し、ゴルフウェアーを東南アジアのメーカーに発注するよう強く指示した。

一方、被告人竹久は、斎藤が右のように叱責を受けた直後ころ、同人を料理店に招き、竹久側近グループの特選部課長幸前誠、ローマ三越副支配人淀縄博司及びデザイナーのルイジ・チョッカーを同席させたうえで、斎藤に対し、チョッカーはイタリアの有名なデザイナーで被告人岡田も大変気にいっており、ゴルフウェアーはチョッカーにデザインさせ生産を香港でやらせたいと要求し、斎藤が前同様の理由を述べて困難であることを説明しても、被告人竹久の意思は堅く、斎藤の意見に耳を貸そうとしなかった。

また、右ゴルフウェアー生産に関する責任者の立場にあった前記宇田は、既に樫山に生産を発注済みであったことから、被告人岡田の下した方針変更に甚だ困惑し、右方針変更には被告人竹久の意向が強く働いていると考え、そのころ直接被告人竹久に会って右理由を述べ、従前の方針を維持させて貰いたいと要請したが、同被告人は、「やはり日本では高くていいものができない。東南アジアの方が安くていいものができるのだから、東南アジアで作りなさい」と言って宇田の要請を拒否した。

そこで斎藤・宇田は急遽発注メーカーを調査し、一方デザインを担当することとなった前記チョッカーがゴルフを全く知らなかったため、被告人岡田の指示で同人にゴルフウェアーを見せたり、同人をゴルフ場に連れていくなどして指導したうえ、台湾のイーコック、ジェイスン、ナイガイの三メーカーにゴルフウェアー発注することとしたが、樫山に発注した分はキャンセルできない時期にきていたため、そのまま生産を続行し三越のプライベートブランドのスポーツウェアーである「ファルファラ」として販売する方針を取った。

こうして台湾の三工場で生産することとなったゴルフウェアーは、当然のことながら香港コミッション方式で三越に輸入されたが、生産期間のこともあって染色不良、縫製不良のため売行は全く悪く在庫として残った。

ところで、弁護人は、右の個別商品に対する被告人岡田の発言等につき、これらはいずれも三越の営業方針、特に被告人岡田の経営方針に立脚するもので、ある場合には単に雑談的な内容として被告人竹久の能力を活用したらどうかという程度のものであり、またこれに呼応すると検察官が主張する被告人竹久の発言等も、日頃三越の納入業者として緊密に接触している三越社員との会話の中に、商品開発についての意見やコミッションについて意向を打診されてこれに同意するとか、流行の傾向等について意見を交換し合うという程度の会話であるとしか理解できないのであって、これらをもって被告人両名の共謀を立証する証拠となり得ないものであると主張する。

しかし、被告人岡田の前記発言等は、被告人竹久ないしその関係会社が三越の直輸入品取入の過程において経済的対価を受けるに価する活動をしていないことを十分に知りながら、同被告人らに利益を与える目的でなされたことは明らかで、営業方針とか経営方針とかいう枠をはるかに越えており、被告人岡田の経営方針の遂行という外形を装いつつ、あるいはその中に組み込んで行った商道を外れた行為であると評価せざるを得ない。また、これらの発言が単なる雑談的なものでは決してなかったこと、同様に被告人竹久の発言等も所論のいうような普通の納入業者との間で交わされる穏やかな会話でなかったことは、発言の内容、時期、状況、被告人両名の関係、竹久人事の実態、三越社員の受け止め方等に照らして明白である。結局、以上の被告人岡田の発言・指示は被告人竹久との共謀を裏付ける重要な間接事実である。

四 在庫増の認識

三越において直輸入品在庫が昭和五〇年ころから顕著に増加し、三越の経営、業績に深刻な影響を及ぼすに至っていたことについては、前記第一節一〇で認定したところである。そして、右の過剰在庫の状況及びそれが竹久絡み商品に起因するものであることは仕入本部長のみならず同商品の直輸入に携わる同部社員の等しく認識するところであり、被告人岡田もこれに対する正確な認識を有していたことは経営の最高責任者として当然のことといえる。ところが、弁護人は、三越の担当部署の者は自らの保身からことさら在庫を隠し被告人岡田の目に触れないように腐心していたことから、同被告人はその実態を知り得なかったと主張し、被告人岡田も当公判廷において同様の供述をしている。そこで、以下に被告人岡田が三越の在庫をどのように認識しこれに対処していたかをみることとする。

証人井上和雄、同斎藤親平、同藤村明苗の各証言等によれば、次の事実が認められる。

1 各種定期の報告

三越では、経理本部長が本支店の売上高、売場商品残高等を日ごとに集計した一覧表を毎朝社長のもとに持参し営業説明を行っていたほか、被告人岡田に対しては、経理本部が毎月の会計数字を集計して作成した「総勘定残高表」(甲二86、74参照)に基づき、毎月「月次決算報告」と称する報告がなされており、経理本部長が主要勘定科目の概要につき報告し、仕入本部長が在庫状況につき説明を加えていた。右総勘定残高表には、「正味商品」、「売場商品」、「仕入部商品」(店出しされた後売れ残ったりして仕入部に戻ってきたもの)、「未達商品」(搬送途中のもの)という勘定科目で、三越の現商品残高と前年同期と比較して増減額が記載されており、特にそのうち直輸入品が大半を占めている正味商品残高を見れば直輸入品在庫の増加傾向が把握できることとなっていたが、被告人岡田はこの表には必ず目を通しており、正味商品在庫の数値を認識したうえで、再々「在庫を東雲の倉庫なんかに置かないで全部なぜ出さないんだ」とか「販売計画が非常に弱い、もっともっと商品を店出しをして売場が足りなければ直輸商品の売場を増やせばいい」などと言っていた(斎藤証言)ものである。

また、三越では、毎年二月、八月の定期の棚卸と五月、一一月の臨時棚卸の合計四回の棚卸しを実施し、右棚卸後には被告人岡田に対し、経理本部長、仕入本部長、業務本部長から各種資料に基づき棚卸結果の報告がなされており、特に仕入本部長からは、仕入本部管理部が作成した「全店売上高・売場商品残高及び直輸入品の売上高・残高一覧表」(甲二98参照)、「正味商品主要商品残高表」(甲二66参照)等の資料を呈示し、これに基づき、三越の全売上高に占める直輸入品の売上高・前年比・構成比、全在庫に占める直輸入品の金額・前年比・構成比、主要な直輸入品についての個別商品ごとの在庫数量・在庫金額等について口頭で詳細な説明がなされていたものであり、これに対し被告人岡田は、「こんなに倉庫に置いておくだけではだめだ、一刻も早く出して完売してしまえ」(井上証言)とか「販売努力が足りない」(斎藤証言)などと言うばかりであった。

2 仕入本部長による報告、進言

昭和五四年四月井上和雄の後任として仕入本部長に就任した斎藤親平は、自己の在任期間中益々直輸入品の在庫が増加し三越の業績に影響を及ぼしていくのを懸念し、再三にわたって被告人岡田に対し直輸入品在庫の増加状況を説明し、その取入れの抑制を進言していたが、その事実のいくつかを指摘すれば次のとおりである。

(イ) 斎藤は、仕入本部長就任後初の棚卸である昭和五四年五月の棚卸の際、仕入本部の部長以上の幹部社員を同行し東雲商品センターに赴き棚卸作業を視察したが、その際直輸入品の在庫が余りにも多量であるのに驚き、当時直輸入品の在庫が特に多かった部門の婦人子供用品部長宇田真に問い正したところ、同人から準直でどんどん入ってくるのでどうにもならないと言われた。そこで斎藤は、貿易管理部の犬塚寿一に命じて準直商品の一覧表を作らせ、同商品が直輸入商品の中でかなりの割合を占めているのを知り驚きを覚えたが、棚卸の報告において、被告人岡田に対し、前記「正味商品・主要商品在庫表」を示しながら、直輸入品が在庫過剰であることを伝え、すべての正味商品の見直しと、仕入の抑制を進言したところ、被告人岡田は、右資料を払いのけ、「そんなこと聞いてるんじゃねぇんだ。これから一体何を売っていくかを仕入本部長というのは検討すべきなんだ。消極的なことじゃだめなんだ。在庫が多いと言うなら販売計画を作ってあくまで努力させるのがお前の責任だ」などと激しく斎藤を叱責し、同人の意見には全く耳を貸さなかった。

(ロ) 斎藤は、被告人岡田の右態度を見て、直輸入品の抑制を一般的に進言しても聞き入れてくれそうにもないことから、特に在庫と売上の不均衡が著しい直輸入品について認識してもらうことを考え、昭和五四年八月の棚卸の報告からは、「正味商品・主要商品在庫表」に在庫量等が記載された個別商品のうち問題商品に蛍光ペンで印を付け、被告人岡田の注意を喚起するよう工夫して在庫状況を説明するようにし、さらに、在庫が顕著になった昭和五六年二月の棚卸後からは、右の表に個々の商品の在庫について前年からの増加率をも記載するようにしていた。

(ハ) また斎藤は、右のような報告に加えて、昭和五五年春ころからは、仕入本部管理部をして、月ごとに直輸入商品の各店別あるいは商品担当部別の売上高・在庫高及びそれらの前年同時期との比較等を記載した「直輸入商品店別売上高表」(甲二104参照)、「直輸入商品部別売上高表」(同)、及び直輸入商品のうち大半が竹久絡み輸入商品で占められているブティック販売等を行っている個別主要商品について、同様売上高・在庫高、前年同時期との比較等を記載した「直輸入ブティック別実績」(同)、「直輸入ブランド別実績」(甲二97参照)等の各資料を作成させ、毎月これらの資料を被告人岡田に示したうえ、詳細な報告を行っていた。

(ニ) さらに、斎藤は、右の方法では全く効果がなかったことから、今度は具体的に直輸入品の抑制を進言するため、昭和五五年暮ころから同五六年春にかけて、部下の仕入本部長付部長平出昭二、同主任宮本恵司に命じ、各商品担当部長の意見をも徴したうえで、主要な直輸入商品につき個別に売上と在庫のバランス等を考慮し、仕入の中止を要するものや抑制を要するもの(全体で九割位に上っていた)を明らかにした資料を作成させ、この資料を被告人岡田に見せ直輸入の抑制につき進言を始めたところ、被告人岡田は、資料の一枚目を見ただけで、すぐに、「消極的な仕入というのはだめだ。直輸入の推進という方針が分からないのか」などと斎藤を叱責し、徹底した販売政策と年間計画を指示するばかりであった。

3 会議等における直輸入在庫に関する被告人岡田の発言及び在庫隠蔽工作

右のとおり、被告人岡田に対する直輸入品在庫の報告・進言はまさに日常的に行われていたのであり、斎藤の進言等に対する被告人岡田の過剰とも思える反応は、同被告人がかなり在庫問題に過敏になっていたことの表われともいえるが、会議その他の場面における次のような被告人岡田の在庫に関する発言・指示及び在庫隠蔽工作も同被告人が直輸入品在庫について十分な認識を有していたことを示すものである。

すなわち、まず昭和五二年に行われた経営企画会議において、参考資料として本社業務本部の作成にかかる「経営企画会議ご参考」と題する資料(甲二109)が配布され、右資料において、直輸入商品の売場残高が過去一年間に倍増し、全店合計の売場商品残高の増加額のうちの六〇・八パーセントを占めるに至っているとの指摘がなされたうえ、「直輸入商品は一般商品に比較して飛躍的に高度な商品選品力、物流体制、販売力が必要であり、それらの一つでも歯車が噛み合わなければ、直輸入商品の物流システムは崩壊し、いたずらに残高の増加となって、逆に当社の収益力を圧迫する要因となりかねない」として直輸入商品の在庫増加に対し警戒を要する旨の報告がなされていたところ、被告人岡田は、その席上、右資料に基づき、輸入商品の手持高の増加傾向を説明し、直輸入商品の在庫の増大を打開するために販売展開をいままで以上に強く、速く、徹底的にし、販売が停滞しているものについては果断な値引きで完売するよう指示している。このほか、「仕入の連中は在庫が多いとか回転が悪いとか消極論ばかり言っているが、ダイヤとか毛皮は回転だけで考えてはだめだ。インフレになれば在庫の商品を値上げして儲ければいいじゃないか」(昭和五四年一二月二九日報告会での発言)、「本店七階の貴金属サロンのケースを増やして東雲の在庫、売場の在庫を徹底的に店出ししろ。商品は天井まで陳列したっていいじゃないか」(昭和五五年九月三日斎藤に対する発言)、「東雲の倉庫に物を入れては絶対にいかん、倉庫にあるものは全部店出ししろ」(昭和五六年五月三一日社長出張前の会議での発言)、「東雲の正味商品は全部支店に店出ししろ。三か月たって売れなかった残品は本店へ持ってきて札下げして販売しろ。六か月を経過しても売れなければ原価を切ってもいいから売ってしまえ」(昭和同年一〇月三〇日営業統括会議での発言)、「東雲の在庫は全部店出ししろ。東雲商品センターの白根部長は商品をどんどん開梱しろ」(同年一一月二四日営業統括会議での発言)等の事実を挙げることができる。

在庫隠蔽工作に関しては、昭和五七年四月ころ週刊朝日誌上に被告人両名の関係と被告人竹久の三越仕入業務への介入の記事が掲載され、その中で三越の内部データである直輸入商品の売上高や在庫量が引用されていたところ、被告人岡田は、当時の商品本部長藤村明苗に対し、右資料の漏洩ルートを調査するよう命じるとともに、「こういう数字は大体作るもんなんだ。三越の奴は非常に正直で気が小さいけれど、裁判官の前で言うわけじゃないんだから、バランスのいい数字を作りたまえ」と言って、直輸入品の在庫数量の改ざんを命じた。そこで藤村は、部下の平出昭二に指示し、昭和五四年度に遡って直輸入商品の全商品に占める構成比等を改ざんし、当時直輸入商品の比率が実際は三四パーセントであったのを一七パーセントに、売益率を三五パーセントから四五パーセントに改め、右虚偽の数字に基づいて「直輸入商品在庫高売上高・売上高推移表」を作成して、被告人岡田のところに持参したが、被告人岡田は、右の在庫の比率を自ら一七パーセントからさらに一五パーセントに訂正して表を作り直させたうえ、藤村に対し「君のほうからマスコミへどんどん発表したまえ」と指示した。

以上によれば、被告人岡田は、月次決算報告や棚卸報告といった定期的な報告により直輸入品在庫の状況を詳細に把握しており、斎藤仕入本部長の度重なる過剰在庫の状況報告と仕入抑制の進言により、三越における直輸入品在庫の抱える問題を十分認識していたことが明らかである。

なお、弁護人は、右に指摘した被告人岡田の発言は同被告人の積極的な販売戦略による売上増、販売努力、販売方法の指示、要求であって、過剰在庫に対する認識を意味するものではなく、また藤村に対する在庫隠蔽工作の指示も単なるマスコミ対策に過ぎないと主張する。

確かに、被告人岡田は、終始積極的な販売政策を取り、しばしば社員に対し実行不可能な販売方法、販売努力を求めていたことも認められるが、このことは過剰在庫に対する認識と矛盾するものではなく、見方を変えれば、過剰在庫に対応してかかる指示・発言をしていたともみることができる。在庫隠蔽工作については、社内的には三越の最高権力者として社員の過剰在庫に対する批判をおさえることはできても、対外的にはやはり、正当化、弁解できない事実であったが故にかかる措置を取ったものと考えるのが相当である。

五 アクセサリーたけひさの取扱高増加の認識

アクセサリーたけひさの三越への納入商品のほとんどはオリエント交易が輸入した商品であり、したがってアクセサリーたけひさの三越への納入金額の推移は準直方式の推移そのものということができる。そして、アクセサリーたけひさの右納入金額は、前記第一節二の(一)③で認定したとおり、昭和五〇年に入って著しく増加し、三越の取引業者の納入金額の順位を表す「仕入高ベスト一〇〇」の中に、昭和五一年度年間で第七一位として姿を現したのを始めとして、以後急速な伸長を示し、昭和五五年度においては同年九月七日現在の累計で約二二億三四〇〇万円の第三位にまで上昇し、三越関連会社である上位の国際食品株式会社及び三越縫製株式会社を除けば、取引業者としては第一位となり、大手取引業者である株式会社樫山(約二二億一四〇〇万円)や株式会社レナウン(約一一億六七〇〇万円)等の一流企業をも凌駕するという状態になっていた。こうしたアクセサリーたけひさの三越への納入金額の増加は、もとより被告人岡田が被告人竹久と相謀り、三越の直輸入システムの中に竹久絡み輸入方式を組み込み、強力に直輸入を拡大・推進してきた結果であり、被告人岡田は右行為の指揮者としてアクセサリーたけひさの納入金額の増加について認識を有していたのは当然のことであるが、さらに被告人岡田は、次に述べるように、三越の社内資料である右「仕入高ベスト一〇〇」によって、アクセサリーたけひさの納入額及びその推移を正確に把握していたものである。

1 仕入本部長井上和雄の説明

証人井上和雄の証言によれば次の事実が認められる。

昭和五二年四月仕入本部長に就任した同人は、そのころ昭和五一年度年間の「仕入高ベスト一〇〇」が仕入本部管理部で作成されるや、これを社長室に持参し、被告人岡田に示しながら、三越の取引業者で組織する「三正会」の幹事会社を中心にその取扱商品や取引金額を順位に従って説明し、第七一位に顔を出していたアクセサリーたけひさについても同被告人が関心を持っているものと思い、取引金額が五億四九〇〇万円で前年は一九〇位くらいであると説明した。

次いで翌五三年四月ころ、井上は、アクセサリーたけひさが第四二位に位置していた昭和五二年度年間の「仕入高ベスト一〇〇」を社長室に持参したところ、被告人岡田が不在であったためそれを机の上に置いて戻った。

2 仕入本部長斎藤親平の説明

証人斎藤親平の証言によれば次の事実が認められる。

昭和五四年四月井上の後任として仕入本部長に就任した斎藤親平は、同年一〇月ころ「三正会」の昭和五五年度幹事(同会の名誉会長には三越社長が就任し、幹事の選定は仕入本部長が主要取引先の中から候補者を選び社長の決裁を受け決めることになっていた)を選定するにあたり、議案書とともに資料として昭和五四年一〇月七日までの累計による「仕入高ベスト一〇〇」を被告人岡田のもとに持参したところ、同被告人はこれを見ながら上位の取引業者の取引額の増減について順次感想を述べていき、第六位のアクセサリーたけひさのところへ来て同社が前年比八一・六パーセント増で第二〇位から躍進(三越の関連会社を除くと樫山、東京スタイルに次いで第三位)しているのを知るや、斎藤に対し、「誰がこんな表を作っているんだ。こんなものを下っ端に作らせたらだめだ。コピーなんかしちゃいかん」などと強い調子で同人を叱責した。

斎藤は、翌五五年九月ころ、前同様「三正会」の昭和五六年度幹事選定資料として、昭和五五年九月七日までの累計による「仕入高ベスト一〇〇」を被告人岡田のもとに持参し、同被告人は、これを見てアクセサリーたけひさが第三位に上昇し三越関連会社を除けば第一位になっていることを知ったが、前年第九九位から第一七位になっていた宝石業者の堀田商事株式会社につき、その商品の売益率が三〇パーセント程度であることを斎藤から聞くと、「仕入の奴は大体三〇パーセントぐらい売率があると当たり前だと思っているけれども、大体こういうものは三〇パーセントから五〇パーセントぐらいの売率を取らなきゃだめだよ。もしそれで嫌だったらそんなものやめさせればいいんじゃないか。かつぎ屋なんかからこんなものを買うんじゃないよ」と述べ、直輸入を推進するよう示唆した。

さらに昭和五六年一一月ころ、斎藤は、前同様「三正会」の昭和五七年度幹事選定の資料を被告人岡田のもとに持参したところ、幹事の人選に入る前に同被告人は、斎藤や同席した専務取締役杉田忠義らに対し、三越のプライベートブランド商品のカトリーヌについての投書に関し、「オーキッドファッションや八戸縫製は竹久とは関係がない。竹久は一取引先であってうちの優秀なデザイナーなんだ。みんなマスコミから話があったらそういう答えをしなくちゃだめだぞ」などと言い、その後「仕入高ベスト一〇〇」に目を通して、第七位に出ているアクセサリーたけひさの欄を見た時、斎藤に対し、大変強い調子で「アクセサリーたけひさの口座をこの表に出すのは止めろ」と指示した。

3 仕入本部長代理藤村明苗の説明

証人藤村明苗の証言によれば次の事実が認められる。

被告人岡田は、昭和五四年八月ころ、仕入本部長代理藤村明苗に対し、カトリーヌについて被告人竹久がデザインフィーを取得するという形で関与していることを確認した後、最近の取引先の状況を説明するよう求めた。そこで藤村は、昭和五四年八月八日までの累計による「仕入高ベスト一〇〇」を社長室に持参し、被告人岡田にそれを示しつつ、上位取引先の取引金額等について説明し、第八位に位置していたアクセサリーたけひさにつき、「これが先生のところでございますが、一〇億六〇〇〇万円ほどでございます」と説明したところ、被告人岡田は、藤村に対し、「頭のいい奴が商売を伸ばすのは当たり前だけれども、いろんなことを言う奴がいるから、こういうものの資料の管理は十分気をつけてやるように。コピーなんかとらないようにしろな」と話した。

次いで同年一一月ころ、被告人岡田は、右藤村に対し、やはりカトリーヌに関連して、「最近カトリーヌの仕立てが非常に悪いということを言っている奴がいる。それと、これは竹久がやっていて竹久がそのため商売が非常に伸びていると言っている奴がいるが、これは直輸入でやっているんだな」、「いろんなことを言っている奴がいるから、まあ、あまり気にすることはないんだけれど」などと言って再び最近の取引先の現状を報告するよう求めた。そこで又藤村は、取引額が前年比二〇パーセント以上増の取引先に緑線を引いている昭和五四年一一月八日までの累計による「仕入高ベスト一〇〇」を社長室に持参し、被告人岡田に示して、「竹久先生のところは売上高が一七億二四〇〇万円で、前年と比べて七七パーセントも伸びております」と説明したところ、被告人岡田は、右金額中にカトリーヌの分が入っていないことを確認したうえで、藤村に対し、「あまりこういうものは目立たないように線なんか引かないようにしたまえ」と指示した。

さらに、右藤村が商品本部長に就任して間もない昭和五七年四月ころ、前記のとおり、週刊朝日誌上に被告人両名の関係や被告人竹久の三越との取引に関する記事が掲載されたことをきっかけに、被告人岡田から取引先の状況を報告するよう求められ、藤村が昭和五六年度年間の「仕入高ベスト一〇〇」を社長室に持参し、これを同被告人に示しながら、取引高上位各社について順に説明し、二、三の質問を受けた後、アクセサリーたけひさの取引高につき「竹久先生のところはここにございます。昨年比二三パーセント減となっていますが、これは直輸入に漸次切り替わっていますから」と言って、暗にアクセサリーたけひさの納入金額は減っているもののその分コミッションの入る直輸入が増えている旨説明したところ、被告人岡田は、藤村に対し、「竹久のところは君のところで把握してコントロールしてくれよ。君は商品本部長だからそれをよく念頭に置いてやってくれたまえ」と言って、準直方式を余り世間に目立たせないようにするよう指示した。

以上、「仕入高ベスト一〇〇」に基づく仕入本部長等の説明及びそれに対する被告人岡田の言動によれば、被告人岡田はアクセサリーたけひさの三越への納入金額の増加状況、したがって又準直方式の拡大状況を極めて正確に認識していたことは明らかである。そして、被告人岡田自身も当公判廷において、アクセサリーたけひさの取引額や順位を認識していた旨供述しているところである(第九一回公判)。

六 準直方式の転換――ヨーロッパコミッション方式の採用

ヨーロッパにおけるコミッション方式の概要・推移及びその背景事情については、第一章第一節二の(四)③で説明したとおりであり、昭和五四年九月ころ被告人岡田の仕入本部長斎藤親平に対する指示を契機とする準直方式のコミッション方式への切り替えは、三越のヨーロッパ商品の取入に関し取引の表面から被告人竹久の関係会社を隠蔽し、三越と同被告人との癒着に対する批判を回避しつつ、被告人竹久ないしその関係会社の利益を確保しようとの被告人両名の意図から実行されたものである。したがって、準直方式の代替措置ともいうべきコミッション方式への転換は、オリエント交易の口座廃止にともなう準直方式の採用と基本においては同一の発想に基づく行動であり、既に竹久絡み輸入方式の一方の柱となっていた香港コミッション方式によって実証済みのものであった。このように両者は共に竹久絡み輸入方式の構成要素として密接不可分の関係にあり、ヨーロッパコミッション方式への切り替えに対する被告人両名の関与の事実は、本件起訴の対象となっている準直方式及び香港コミッション方式についての共謀を裏付ける重要な間接事実となるべきものである。そこで以下に、ヨーロッパコミッション方式の採用の経緯についてみることとし、次項では新ヨーロッパコミッション方式について検討することとする。

なお、本項でいうコミッション方式とは、海外基地がシッパーとなって東京三越へ商品を輸出する形態を基本とし(次項の新ヨーロッパコミッション方式はメーカー・サプライヤーがシッパーとなる点が異なる)、したがって、オリエント交易のコミッションは東京三越からその輸入代金に包括されてシッパー(海外基地)に送られる。その後のコミッションの流れは、オリエント交易が契約を締結している相手、すなわちそれが海外基地かメーカーかによって異なり、前者の形を取っていたイタリア三越関係の商品の場合は海外基地からオリエント交易へ、後者の形を取っていたパリ三越関係の商品の場合はメーカーからオリエント交易へとなるわけである。

証人斎藤親平、同天野治郎、同中山勝彦、柳田満の各証言等によれば、次の事実が認められる。

(一) 昭和五四年九月ころ、社長室で開催された報告会(後の常務会)の席上、被告人岡田は、仕入本部長斎藤親平に対し、「これからは直輸入商品をどんどん取り入れていかなくてはいけないんだ。それに対して仕入本部長というのはもっと貿易をわかってなくてはだめだ」などと発言した後、「今後は竹久の口座から入れるのをやめてバックマージンに切り替えろ」と述べ、竹久絡み輸入方式については従来の主力となっていた準直方式を改め、コミッション方式に切り替えていくよう指示した。

(二) 右と時期を同じくして、被告人竹久は、パリに赴いた際、パリ三越副支配人天野治郎に対し、「今、日本ではいろいろとうるさいんですよ。社長も心配をしているので、うちの直接やっているものをなるべくコミッションベースに切り替えて下さい」と言って、被告人岡田と相談した結果であることを窺わせつつ、被告人岡田から斎藤への前記指示と同趣旨の要請をし、その理由が従来の準直方式に対する批判を回避するためであることを明らかにした。被告人竹久の右要請に対し、天野は、フランスから送金する場合はメーカーとオリエント交易との契約が必要であり、メーカー側にはそれぞれの事情があるのでいっぺんに契約を結ぶのは非常に困難であることを伝えるとともに、一番簡単なのはオリエント交易とパリ三越間で契約を結ぶことであると提案したところ、被告人竹久から、言下に、「そのようなことができるわけがないじゃないですか」と拒否され、叱責を受けた。天野はこれを聞き、コミッションベースに切り替えることはパリ三越と東京三越との間にオリエント交易を介在させているという形をなくすためであるので、オリエント交易とパリ三越との間で契約を結ぶことはできないものと理解したが、被告人竹久が怒り出したため、それ以上の話はせずその場は終わった。

(三) 一方、被告人岡田から右のように指示を受けていた斎藤親平は、考えを重ねた末、どのみち三越の海外商品仕入について被告人竹久に利益を与えなければならないのであれば、オリエント交易・アクセサリーたけひさの二社にマージンを取られる準直方式よりはコミッション方式の方が、三越の仕入価格が高騰せずそれだけ三越の損害を少なくすることができると思うに至り、同年一一月ころ一時日本に帰国していた前記天野に対し、被告人岡田の指示内容と自己の右の考えを話し、オリエント交易経由の準直方式をなるべくコミッション方式に切り替えるよう指示した。天野は、この話は被告人竹久からも出ており、メーカー側の事情もあるので時間がかかるが努力してみると答えた。なおこの時斎藤は天野に対し、三越の仕入価格の高騰を防止するため、パリ三越が従来取得していた一一パーセントのコミッション率を引き下げ、その分オリエント交易のコミッションに充当してはどうかと提案したが、天野はこの問題はパリ三越の利益にかかわることであるので一存では決めかねる旨答え、返事を保留した(結局パリ三越のコミッション率は昭和五五年ころから五パーセントになっている)。

(四)  天野は、右のとおり被告人竹久と斎藤仕入本部長からコミッション方式への切り替えを指示されたが、コミッション送金のためオリエント交易とパリ三越間で送金に関する契約を締結することを被告人竹久から拒否されたため、コミッション方式を実現しようとすれば個々のメーカーと個別に交渉してオリエント交易との間にコミッションに関する契約を締結させ、メーカーからオリエント交易にコミッションを還流させるという煩雑な方法を採らざるを得ず、そのうえ被告人竹久も自己の利益が減少するコミッション方式への切り替えにさほど積極的でないように感じられたことから、すぐには具体的な行動に移らなかったが、その後昭和五五年三月ころ、タングチェリについて、婦人子供用品部長宇田真から被告人竹久の意向ということでコミッション方式への切り替えを指示され、次いで同年中ころポール・ルイ・オリエについて、パリに来た被告人竹久から同商品の在庫が目立ち始めて社長も心配しているということでコミッション方式への切り替えを指示され、それぞれメーカーと交渉してオリエント交易との間で個別にコミッションの送金を可能とする契約を締結してコミッション方式への切り替えを実施した。

(五)  イタリア三越においては、準直方式は昭和五一年ころから続いているが、コミッション方式によるものは昭和五三年ころ始まったバルトロメイが最初であり、これはイタリア三越をシッパーとし、コミッションはフランスにおけるセルッティ、ショーメイと同じようにエージェント契約に基づきメーカーを通じてオリエント交易へ支払われる方法が採られていた。その後昭和五四年四月ころから始まった三越のプライベートブランド商品カトリーヌの服地の買付に関し、同年秋ころ(契約日は同年二月一日付に遡らせている)オリエント交易との間で「オリエント交易がイタリア三越をエクスポートエージェント(輸出代理店)に指名し、イタリア三越はオリエント交易にコミッションを支払う」旨の契約をいわゆる「レター交換方式」によって締結し、イタリア三越がシッパーとなって商品をカトリーヌを製造している香港のオーキッドファッション宛輸出し、オリエント交易にコミッションを支払っていた。そして、昭和五五年初めころ、被告人竹久の意を受けたオリエント交易社員柳田満がイタリアに赴き、イタリア三越の社員中山勝彦に対し、「今後はコミッションベースのものを増やしますので、そのつもりでいて下さい。買付の都度バイヤーまたはオリエント交易の社員から指示します」と言って、右送金契約を利用して今後日本に送る商品についてもコミッション方式のものを増加させていく旨申し入れを行った。イタリア三越ではオリエント交易との右契約を基本契約としてオリエント交易にコミッションを自由に送金することができたため、柳田の申し入れを容易に実行に移すことができ、その後買付商品の一部(準直方式も併存していた)を柳田あるいはバイヤーの指示等に基づき東京三越へ直接輸出し、イタリア三越から東京三越への代金請求金額中にオリエント交易のコミッション分を上乗せし、右コミッションはイタリア三越からオリエント交易へ還流させるという方式がとられるようになった。

弁護人は、被告人岡田が報告会の席上斎藤に対しバックマージンへの切り替えを指示したとの斎藤証言は全くの虚偽である、同証言は天野に対する示達内容を含め不自然さが目立ち、おそらく被告人岡田がその時パリ三越等の海外基地がバックマージンを取って基地の経費をできるだけ少なくするよう指示したことを、作為的に竹久のバックマージンに作り変えたものであると推測されると主張する。

しかし、被告人岡田の発言及び斎藤の天野に対する指示に関する斎藤証言には不自然、不合理な点は全く認められない。斎藤証言によれば、九月の報告会で被告人岡田からバックマージンへの切り替えを指示された際宮崎喜三郎総務本部長、杉田忠義常務取締役が同席していたことが認められるところ、右宮崎、杉田はいずれも当公判廷において、この席上被告人岡田から被告人竹久のバックマージンに関する話があったと証言しており、さらに右三名とも報告会という公の席でこれまで被告人竹久に関する話が出たことがなかったので一様に驚いたとその時の印象を述べているのであって、各証言の信用性は高いと判断される。被告人岡田は、当公判廷において、九月の報告会では海外基地のバックマージンについて指示した旨弁護人の主張に添う供述をするけれども、右の指示は六月の報告会で行ったことであり、この点は斎藤メモにはっきり記載されており、同人も明確に証言しているところであって、右供述は信用できない。所論は、斎藤証言によれば、斎藤は六月の報告会における被告人岡田の指示は三越の利益に直結することであるのに、これを事務的な問題であるとして担当者に研究を指示するに止どめてほとんど無視し、他方九月の報告会における指示については、オフィシャルな発言とは理解しなかったといいながら、バックマージンの方が三越の利益の損なわれ方が少ないとして天野に切り替えを指示したというのは不自然であるというが、斎藤証言によれば、同人は六月の報告会で被告人岡田から海外基地の決済方法に関してバックマージン方式の導入の指示をうけるや、早速貿易管理部の犬塚寿一部長に決済の実状と右方式導入の是非を尋ねたところ、ヨーロッパでは香港と異なりメーカー・サプライヤーが貿易業務に慣れていないところが多く、商品の遅延、検品等で種々問題があるため、香港と同じようにはいかないと言われ、同人には貿易管理部と海外基地とで良い方法を研究するよう指示したというのであって、所論のように斎藤は被告人の指示を軽視したり無視したりしてはいないのである。他方九月の報告会でのバックマージンへの切り替えの指示については、斎藤は、被告人竹久に利益を落とすことには被告人岡田も極めて気を使っているうえ、こういうことは組織を通じて指示を流したりするものでなく、被告人岡田から直接海外基地へ頭越しに話がされるべきものと理解し、すぐには具体的な行動は取らなかったが、その後被告人岡田が在職している限り被告人竹久に利益を与えなければならないのであれば、準直方式よりもバックマージン方式の方が三越の利益の損なわれ方が少なくなると考えるに至り、パリ三越の天野が帰国した折にその旨話したというのであって、斎藤の右の判断・思考はまことに妥当なものと評価することができる。

また弁護人は、被告人竹久がヨーロッパ商品につきコミッションベースへの切り替えをするため具体的に行動を起こすようになったのは昭和五六年春ころからであり(小林通暁証言によれば、同年春オリエント交易社員の柳田満と仕入本部海外担当者との会議があり、同人からバックコミッション制度に変えていきたいとの提案があったと述べている)、昭和五四年九月ころの被告人竹久の天野治郎に対する依頼から二年近くも経過しており、この一事をもってしても被告人竹久及び被告人岡田の前記発言とコミッションベースへの切り替えとは全く無関係であることが明らかである、また天野はパリ三越副支配人で商品買付の権限はなく、商品買付にあたって準直扱いにするかコミッションベースにするかはバイヤーの専権に属することであるから、被告人竹久が無権限の天野に指示をするはずもないと主張する。

しかし、昭和五四年九月の被告人らの発言・指示の後翌五五年ころから、イタリア三越においてはコミッションベースへの切り替えが容易に実現し、パリ三越でもタングチェリ等主要商品について切り替えがなされているのであって、所論は前提を欠いている。小林通暁証言は、数年に亘って行われたコミッションベースへの切り替えの過程における一出来事を述べたものと理解できる。また、パリ三越関係の商品について準直扱いにするかコミッションベースにするかはバイヤーが決定できる事ではなく、コミッションベースにするにはまずメーカーと個別に交渉して契約の締結を行わなければならず、それらの事務はすべて天野が行っていたものである。したがって、被告人竹久がコミッションベースへの切り替えの指示を天野にしたのは当然のことである。なお、天野は当時被告人竹久の側近としてバイヤー達に相当の影響力を持っていたことも明らかである。

さらに弁護人は、イタリア三越とオリエント交易間のレター交換契約は、前記被告人岡田の斎藤に対する指示や被告人竹久の天野に対する依頼よりずっと前である昭和五四年二月に締結されその後間もなくレター交換方式による送金方法が採られるようになっていたのであるから、昭和五五年初めころ柳田満が中山勝彦に対しレター交換方式による送金とコミッション方式の増加を申し入れたというのは、時期的にみて不自然であり、また中山証言をみても送金方法をレター交換方式によるというような会話があったことは全く述べていないのであり、柳田の発言はコミッション方式が増加するという一般的な会話としてなされたに過ぎないと主張する。

しかし、イタリア三越・オリエント交易間のレター交換契約は元々オーキッドファッションが使用するカトリーヌの服地をイタリア三越がシッパーとなって香港所在の同社に輸出するためのものであって、コミッション方式への切り替えが問題となっている準直方式とは異なった脈絡のもとに存在していたのであり、その後右の切り替えがなされるにあたり、その契約方式が利用された(イタリア三越ではこうした契約が存在していたためコミッションベースへの切り替えがスムーズになされた)ものであるから、所論のような時期的な面からみた不自然さはない。また、中山に対する柳田の発言についても、なるほどその内容は前記に指摘した程度のものであって、送金方法に触れていないことは事実であるが、当時既にカトリーヌの服地のためのレター交換契約が存在していたのであるから、わざわざ柳田が中山に対し送金方法をレター交換方式によるということを言わなくても意思が通じたのであり、現に中山は右の程度の会話で柳田発言の趣旨を理解し実行しているのである。

七 準直方式の転換――ヨーロッパ新コミッション方式

前項の経過で、パリ三越において、フランス商品の一部につきコミッション方式が拡大適用され、またイタリア三越においても、イタリア商品につきカトリーヌの服地買付に関するコミッション方式が応用確立されたが、その後さらに新しいコミッション方式が採用されるに至った経過は、次のとおりである。

証人斎藤親平、同天野治郎、同中山勝彦、同柳田満の各証言等によれば、以下の事実が認められる。

(一) パリ三越副支配人天野治郎は、前記のとおり、斎藤仕入本部長及び被告人竹久の指示の後、ポール・ルイ・オリエ等一部のフランス商品についてコミッション方式への切り替えを行ったが、その後昭和五五年秋会議に出席のため一時日本に帰国した際、右斎藤らもいる席で、被告人岡田から、「バックマージンへの切り替えはどうなっているんだ。どんどんやらなきゃだめじゃないか」と言われ、パリ三越関係の商品のコミッション方式への切り替えを督促された。

その夜、天野が被告人竹久の自宅に赴いた際、同被告人から、「天野さん、今日社長から何か話がありましたか」と、明らかに前記のコミッションベースへの切り替えを進める被告人岡田の指示が被告人竹久と相談の下になされたことを窺わせる質問があった後、「うちのコミッションへの切り替えについて何か難しい問題でもあるのですか」などと聞かれた。これに対し天野は、準直方式からコミッション方式への切り替えのためにはメーカーとオリエント交易との間に個別にコミッション送金のための契約締結が必要であることなど、コミッション方式への切り替えにあたっての問題点の説明をしたが、被告人竹久は、「やはりなかなか切り替えるのは難しいのですね。まあコミッションへ全部切り替えられてしまうと、うちの利益も減ってしまいますからね」などと言っていた。

(二) 天野がパリに帰任する直前、被告人岡田のもとに挨拶に赴いた際、被告人岡田は、天野に対し、「バックマージンに切り替えるのが難しいらしいじゃないか」と、天野が被告人竹久に説明したコミッション方式への切り替えに関する問題点を既に被告人竹久から聞知していることを窺わせる発言をしたうえで、「切り替えができないんだったらパリ三越が裏になれ」と指示した。右指示の内容は、従来のフランスでの準直方式の場合には、パリ三越がシッパーとなってオリエント交易宛に輸出する方式を採っていたが、コミッション方式への切り替えができないために準直方式を維持する場合でも、今後はパリ三越がシッパーとなることをやめ、メーカーから直接オリエント交易に商品を輸出することとし、パリ三越がメーカーからコミッションを受け取る方式を採れという意味であり、後に新コミッション方式に伴って一部商品について実現した「L/C・Dベース」と呼称される方法、すなわち三越海外基地と東京三越との中間にオリエント交易が介在するという形態を隠蔽する方法を示唆したものであった。

被告人岡田から右の指示をうけてパリに帰任した天野は、その後昭和五六年初めころ、被告人竹久からアンドレチガネについてコミッションベースへの切り替えを指示され、次いで同年半ばころ、メンズ・バレンシアガについて同様の指示を受けて、それぞれメーカーと折衝し、オリエント交易・メーカー間の契約(前者はエージェント契約類似の契約、後者はレディス・バレンシアガについて行われていたレター交換方式によるコンサルタント契約)を締結し、コミッション方式への切り替えを行った。

(三) その後天野は、昭和五六年五月二八日付でパリ三越副支配人から本社営業統括室海外担当付部長に転任になったが、帰国後間もなく被告人竹久から、「このままでは危ないと社長がおっしゃっている。コミッションベースへの切り替えを急いで下さい」と催促され、種々考慮した結果、メーカー・オリエント交易間にレター交換方式で「買手紹介契約」(コミッション支払いのために、メーカーからオリエント交易に対し、日本で買付を希望する会社を紹介して欲しいという形式的なレターを出させ、オリエント交易が三越を紹介するという返事をレターで行うもの)を締結させたうえ、メーカーが商品を東京三越宛に輸出し、同三越への輸出代金請求にあたって、インボイス上にオリエント交易のコミッション相当額をスペシャルハンドリングチャージ等の名目で商品代金とは別途に計上し、インボイス記載の金額全額を受領後、オリエント交易に対し右契約によるコミッションを送金するという方法を採ることを考え付いた。そして、同年秋ころ被告人竹久に報告したところ、同被告人はその方法を了承したうえで、天野に対し、「何から何までコミッションベースにする必要はないんですよ。例えばアクセサリーだとか、かさばらないものについては社長からも自分がやっていいと言われているので従来どおりやって欲しい。ただ送る方はパリ三越ではまずいのでメーカーから直接オリエント交易に送って欲しい」と、準直方式を維持する商品とその場合は輸入ルートを変更し、メーカーがシッパーとなるいわゆる「L/C・Dベース」を採るよう指示した。

(四) そこで天野は、オリエント交易社員柳田満を交え、仕入本部の各商品担当部との間で、右の新コミッション方式を採り入れるメーカーについて協議し、その一覧表を作成するとともに、アクセサリー類あるいは右の方式に切り替えられない商品について準直方式を維持する場合でも被告人竹久から指示のあったL/C・Dベースの方法を採ることとし、同被告人の了解を得たうえ、各海外基地に指示を発した。また被告人竹久においても、右の新コミッション方式及びL/C・Dベースの切り替えを推進するため、オリエント交易社員の前記柳田を昭和五六年一一月末から一二月上旬にかけてヨーロッパに出張させ、各海外基地と連絡協議をさせた。

その結果ヨーロッパの各海外基地において、新コミッション方式及びL/C・Dベースへの切り替えについてメーカーと個別に折衝を行い、イタリア三越においてのみは為替管理制度が厳しく、新コミッション方式によるコミッション送金が実質上日本から送金される金が再び日本に還流するだけのものでイタリア国内法が禁止する資金のトランジットに該当するとの指摘がなされたため、新コミッション方式への切り替えが難航したが、他の海外基地においては順次新方式への切り替えを行っていった。

弁護人は、被告人岡田が昭和五五年秋ころ天野にバックマージンへの切り替えを督促した事実はないと主張し、昭和五六年春ころの柳田と仕入各部の担当者との打合せ後、ポール・ルイ・オリエ、エレクトル、ミッシェルフィレル、クリーバネッサをそれぞれコミッション方式に容易に切り替え得たように、コミッション方式への切り替えには何ら障害はなく、天野が被告人岡田から指示を受けたとすると、直ちにバイヤーや仕入本部担当者と協議して右切り替えを実施したはずであるのに、これをしなかったということは、とりもなおさず被告人岡田から指示を受けていなかった証左であるという。

しかし、フランスにおいては、オリエント交易へのコミッション送金のためにはメーカーとオリエント交易間で個々に契約を締結しなければならないという重大な障害があったことは既に述べたとおりであり、こうした状況のもとで、天野は被告人岡田の指示の後、被告人竹久と連絡を取りつつ、アンドレチガネ、メンズ・バレンシアガについて切り替えを実施しているのである。所論指摘のポール・ルイ・オリエについては、コミッションベースになった最初の商品は昭和五六年四月のオーダー分(同年六月シッピング)であるが、既に前年の半ばころ被告人竹久から指示を受け、契約変更の交渉を行っているのである。また、エレクトル(昭和五六年一〇月オーダー・同五七年二月シッピング)、ミッシェルフィレル(昭和五六年オーダー・同五七年一月シッピング)、クリーバネッサ(昭和五六年九月オーダー・同年一一月シッピング)は、ビュネル、ウナウエア、ラ・スクアドラ、ジェフ・サィール、アビランド等の商品と同じように、いずれも昭和五六年秋から末ころにかけて実行に移された新しいコミッション方式による切り替え分であり(甲二57・パリ三越輸出台帳記載のO・R・K欄に赤印を付しているもの)、所論は前提事実を異にする。

また、弁護人は、天野が本社に帰任後被告人竹久から危機を訴えられコミッション切り替えの指示を受けたとの点につき、被告人竹久は柳田満をして昭和五六年春ころ既にコミッション切り替えのため仕入本部の担当者と協議をさせているのであるから、右のような指示をするはずがなく、天野も指示に対応した迅速な行動を取っていないのであり、また天野証言のいうように、被告人竹久は一方において早急にコミッション切り替えを指示しながら、数箇月後には何から何までコミッションベースにする必要はないなどと矛盾する発言をしていることも納得できず、天野証言は措信できないと主張する。

しかし、フランスにおいては、イタリアのようにコミッション方式への切り替えは必ずしも順調にいっていなかったのであり、パリ三越の実務面の担当者として被告人竹久のために尽力し、この度本社の海外商品取入の責任者として帰任した天野に対し、被告人竹久が危機感を訴え、一層のコミッション切り替えを指示したことはごく自然なことである。そして天野は、被告人竹久の右指示を受けた後、思案を巡らした末考え付いたのが新コミッション方式であり、同人が速やかに対応していないという指摘はあたらない。また被告人竹久がコミッション切り替えを抑制する発言をした点についても、同被告人はコミッションベース切り替えによる危機の回避とオリエント交易・アクセサリーたけひさの利益確保の両面を考慮して右のような発言に及んだものであって、何ら矛盾するものではない。

さらに、弁護人は、L/C・Dベースはオリエント交易がインポーターとなることに変わりはないのであるから、オリエント交易を隠蔽する効果的な方法ではなく、また貿易の実態を十分理解している者でなければ到底発想し得ない取引形態であり、被告人岡田や竹久がかかる指示をするはずがないと主張する。

L/C・Dベースにおいては確かに三越への商品納入ルートは従来の準直方式と変わらず、オリエント交易やアクセサリーたけひさを取引の表面から隠す効果はないけれども、シッパーをメーカーとすることによって商品買付におけるオリエント交易の独自性を強調することができ、東京三越と海外基地との中間に介在することにより生じるトンネル会社との批判を幾分かは和らげることができるのであるから、かかる方法が無益とはいえない。またL/C・Dベースの方法は、東南アジア関係の準直方式の相当部分がこれと同様の方法であり、被告人岡田、竹久には十分発想し得る考えである。

八 まとめ(被告人両名の共謀)

(一) 既に述べたとおり、準直方式及び香港コミッション方式は、その構造自体が三越にとって無用の出費を伴うものであり、被告人岡田の任務に違背するものであることは明らかであるが、被告人岡田は、昭和四八年末ころから同四九年春ころにかけ、被告人竹久の要請を受けて右各方式による商品取入を部下社員に指示し、右各方式を実行に移したものであって、この段階において、被告人両名に右方式によることについての共謀があったことは明らかである。そして、右各方式による仕入対象商品は、被告人竹久の仕入本部社員らに対する要求ないし働きかけと被告人岡田の仕入本部社員らに対する指示等によって次第に拡大され、昭和五二年ころにはかなり多数の商品群に右各方式が取り入れられていたものであるが、こうした拡大も前記のような被告人両名の基本的な共謀に基づくものであって、右共謀の継続は明らかである。

(二) 検察官が、本件において公訴の対象としているのは、準直方式については昭和五三年八月以降、香港コミッション方式については同五四年四月以降の買付にかかるものであるところ、右に述べた本件の経緯を仔細に検討すれば、右公訴対象期間の各方式による買付は、それ以前のものの継続ないしは拡大と認められる。もとより、被告人岡田は、三越の代表取締役として大局的見地からその業務全般を統括すべき地位にあり、直輸入商品の仕入業務につき、右各方式による具体的買付内容のすべてを正確に認識していなかったことは明らかであるが、前述した本件の経緯にかんがみると、いったん竹久絡みとされた商品についての継続的買付にあたっては、常に竹久絡みとして扱われ、新たに被告人竹久が仕入本部社員らに要求して竹久絡み対象商品とされるものがあったため、本件対象期間以前において相当多数の商品が準直方式または香港コミッション方式の対象となっていたことは、被告人岡田においても十分認識していたものと認められる。そして、本件対象期間において、被告人岡田は、前記のとおり、アクセサリーたけひさの納入金額をトータルで把握していたほか、具体的な直輸入商品の買付内容についても、前記海外出張議案の決裁や出張者の挨拶・報告等により概ね認識したうえ、準直商品の買付量の増加を指示したり、社内各種会議等において、竹久絡み商品を含む商品の直輸入拡大を積極的に指示し、買付担当者らに対し竹久絡み商品の個別商品群についての積極的買付の指示をする反面、竹久絡み商品の在庫増加にはことさら目をつぶり、販売努力を要求するのみであり、わずかに準直商品の増加を危惧した同五四年九月ころ、社内外の批判をかわすため、準直方式からヨーロッパコミッション方式への転換を仕入本部長に指示した程度であったことが認められる。

(三) このように、被告人両名は、前記準直方式及び香港コミッション方式に関する基本的共謀を継続しつつ、本件対象期間においてもこれを維持・発展させてきたものであり、個々の商品に関し、これを右各方式の対象とするか否か、どの位の買付をするか等の点についての具体的な交渉等の一部は、被告人竹久らと仕入担当部員らによって決定され、その細部について被告人岡田が認識していなかったものがあるとしても、被告人岡田は、右に述べたような社長としての日常業務を処理する過程でその概略を認識しており、このほか前記のような被告人竹久との親密な交際や被告人竹久邸における社員らとの歓談の機会に知り得た事実が、被告人岡田の発言として現れている事実等を加味すれば、被告人岡田には、本件対象期間中における準直方式及び香港コミッション方式による仕入の実質とその内容を概ね正確に認識しながら、被告人竹久の要請に基づくものとしてこれを許容し、これを推進してきたことが明らかである。

以上によれば、被告人両名の本件共謀の存在は明らかといわなければならない。

第三節被告人岡田の任務違背行為と被告人竹久の加功

一 竹久絡み輸入方式と三越の仕入業務

三越の機構・職掌の概要は、第一章第一節二の(一)①で認定したとおりであり、このうち集中仕入方式を採用している三越の仕入業務を掌る機関である仕入本部は、昭和五一年五月の組織変更前は、本社機構の統括下にある本支店と同列の機構内に置かれていたが、右の組織変更により本社機構の中に独立した部として組み込まれ、次いで同五四年春以降本社統括室(同年一〇月以降営業統括室)の管轄下に入り、同五七年三月に商品本部と名称変更されるという変遷を辿るが、仕入本部の所管にかかる直輸入商品の仕入業務の仕組み、権限等について概観すると以下のとおりである。

証人渡辺真佐男、同滝沢義明、同井上和雄、同斎藤親平の各証言等によれば、次の事実が認められる。

三越における海外商品の直輸入は、年間の取入計画に基づいて実施されることになっており、右計画は、仕入本部の企画担当セクションにおいて、同本部各商品担当部及び各海外基地から過去の実績と販売予測に裏付けられた希望予算の申告を受け、仕入本部長及び海外商品担当次長を中心に協議・調整したうえ、年間の販売計画とともに立案し、社長の決裁を受けて確定することとなる。右の直輸入商品の取入計画は、各商品部の商品をどの国からどの位買付けるかという程度の年間の輸入計画の大枠を決めるものであり、具体的な商品の買付計画の作成は仕入本部の各商品担当部においてなされる。すなわち、各商品担当部長は、販売の目的・時期・動向に応じた具体的な商品の買付内容を部内で協議し、直輸入担当の次長と打合せをしたうえ決定する。商品の買付権限つまり仕入権限は、原則として仕入本部の各商品担当部長が有するが、海外商品については担当部長限りでは仕入を決定することができず、仕入本部長の決裁を必要とし、さらに本社議案として海外出張議案を社長に提出し、その決裁を受けることになっていた(海外出張議案の手続き・内容及びこれに対する被告人岡田の決裁の実情については前節一参照)。

このように、三越における海外商品の仕入れについては、年間の取入計画の策定から具体的な買付の段階に至るまで社長決裁を経て実施されることになっていたところ、被告人岡田は、右の年間の取入計画の段階から終始過大な買付予算の増額を指示し、このため仕入本部では同被告人の要求を受け入れようとして出来る限りの買付予算の増加を図っていたが、昭和五六年度の計画作成にあたっては、同五五年一二月二九日招集された年間計画会議において、斎藤親平仕入本部長が仕入本部の計画案を被告人岡田に提示し、報告・説明したところ、かねて、右計画をはるかに上回る買付量を指示していた同被告人は、途中で同人を激しく叱責し、「どういう理由で仕入計画を作るか仕入本部長は全然分かっていない。流通業界は非常に厳しいが、景気なんていうものは全然関係ない。景気が悪いからといって買付が消極的になるとか手持ちがどうのこうのとかは関係なく、販売テクニックをどれだけ考えていくかという勝負になる」、「倍増の販売計画を立てなければだめだ。香港三越はそういう意味で直輸入商品の基地として非常に大切になってくるんだ」などと発言して、右計画案を了承せず、このため仕入本部において販売計画を過大に見積もりながら、買付計画の修正作業を行なったが、結局被告人岡田の満足を得られるような成案をみるに至らず、同年度の確定案は成立しなかったことが認められる。さらに、被告人岡田は、具体的な買付計画の決裁の段階や海外出張時にバイヤーと接触した際にも、バイヤーに対し買付予算を考慮しない大量買付を指示し、他方被告人竹久も被告人岡田の権力と意向を背景に、買付出張前の打合せや現地での買付の時などに買付額の増大を求め、その結果しばしば買付計画案以上の買付けを行わせていたことは、前節一、三及び後記二、四等で述べたとおりである。

ところで、三越では、竹久絡み輸入方式を含めた海外商品の買付にあたっては、例外的に日本国内で行われる海外メーカー主催の商品展示会で買付ける場合等を除き、仕入本部の各商品担当部から特定商品分野に関する仕入あるいは販売経験を一〇年以上有する専門的知識を持つ社員がバイヤーとして直接海外に出張し、海外基地社員のアテンドを受けて、メーカーあるいは商品展示会場等に赴き、自ら買付商品の選定にあたるとともに、海外基地社員の協力の下に、メーカー側との価格・船積時期等に関する各種交渉を行っていたものであるが、右のバイヤーの買付権限に関して、三越では、昭和五二年一〇月ころ、海外商品の買付業務を集約して効率的に行うことを目的にバイヤー制度が導入され、世界各国を地域担当別に仕入本部次長及び各商品担当部長クラスの者一〇数名がバイヤーに任命されたが、地域別が障害となりうまく機能しなかったところ、昭和五五年九月右制度が改定され、東京本社バイヤーとして仕入本部次長、各商品担当部長が、海外基地バイヤーとしてアジア地域では藤村明苗、ヨーロッパ地域では岡部明をそれぞれ統括者として各海外基地の支配人、副支配人クラスの者が任命され、さらに同五六年九月から海外商品の仕入権限を営業統括室に移譲したのに伴い、従来仕入本部長付であったバイヤーを営業統括室付とし、統括バイヤー、海外バイヤー、国内バイヤー、ブティックバイヤーの名称のもとに合計三〇数名の者がバイヤーに任命された(なお、この制度はその後若干の変更を経たうえ昭和五七年一〇月廃止された)。

右のバイヤーシステムは、三越における海外商品の仕入権限を有する者の範囲を拡大するとともに、従来バイヤーの買付対象商品がその所属する商品担当部の商品に限られていたのを、その枠を取り外したことに特徴があるが、このシステムは、被告人岡田の直輸入推進策の一環として同被告人の発案と強力な指示によって導入されたものである。しかし、こうしてバイヤーに仕入権限を集中・拡大させた結果、被告人岡田及び被告人竹久の買付額の増大の要求・指示が受け入れられやすくなり、バイヤーの買付が、各商品担当部の仕入計画と連動せず、結局仕入の全体的統一がとれなくなり、三越の販売能力を超える在庫の蓄積という現象をもたらす一因となったことが認められる。

二 被告人岡田の仕入担当者らに対する具体的指示

被告人岡田は、すでに詳述したとおり、三越社長に就任する直前被告人竹久が貿易業務への進出を図る目的で設立したオリエント交易の業績を順調に伸ばすため、三越の直輸入に右オリエント交易を絡ませることを企図し、幹部社員らに対し、オリエント交易を通すように依頼したのを手始めに、その後の事情の変化に対応して、準直方式及び香港コミッション方式を発足させ、被告人竹久の要請に従い、右方式を維持・拡大してきたものであり、その過程において、幹部社員や買付担当社員らに対し、右方式による仕入を推進するための具体的な指示や発言をしばしば行なっているのである。すなわち、

(イ) 準直方式及び香港コミッション方式の各成立時における指示・内容等については、第一章第一節二の(三)、(四)及び第四章第一節一ないし三において認定したとおりであり、

(ロ) 初期ヨーロッパ商品の開発時における準直方式ないしコミッション方式対象商品に関する指示や被告人竹久を援助するための発言等については、第四章第一節四及び同章第二節二において、マッピンアンドウェッブ、ショーメイ、セルッティ、ファブリス、ポール・ルイ・オリエ、バレンシアガ、アルニス等に関して認定したとおりであり、

(ハ) その後の竹久絡み輸入方式の維持拡大過程において、社内で一般的な指示をしたり、個別の商品群について担当社員らに対し具体的な指示等をした状況については、第一章第一節二の(七)、第四章第二節三の1及び2において認定したとおりであり、

(ニ) また、準直方式におけるアクセサリーたけひさの取扱高の増加に伴い、被告人岡田がこれを心配して、コミッション方式への転換を指示した状況等については、第四章第二節六、七において認定したとおりである。

右事実を総合すると、被告人岡田は、三越の直輸入商品のうち、竹久絡み輸入方式の対象となる商品群を拡大しようとする被告人竹久の要請を安易に受け入れ、買付業務を担当する社員らに対し、具体的な商品に関し、被告人竹久の要求を受け入れるよう指示したり慫慂していたものであり、その姿勢は竹久絡み輸入方式の成立時から本件対象期間中に至る間、常に一貫しており、右のような被告人岡田の言動に接した社員らが、被告人竹久の要求は被告人岡田の意向に基づくものであるとの認識を抱いたのも自然の成り行きといわなければならない。

三 竹久人事について(第一章第一節二(六)の再掲を含む)

1 オリエント交易の輸入業務が本格化し始めた昭和四九年ころから、竹久絡み輸入方式に関する部門の人事を中心として、総務本部の人事案を待つことなく、直接被告人岡田からの指示で人事異動が実施されることがしばしば生じ、しかもその内容が竹久絡み輸入方式の維持・拡大に批判的、消極的な社員を左遷、転出させるなどして右部門から遠ざけ、反対にこの方式に積極的、協力的な社員を集めて優遇・抜擢するなど被告人竹久の利益確保に好都合な方向のものであったこと、及びその具体的な人事のうち、昭和五三年九月ころまでの数例については、先に判示したとおりである。

弁護人は、被告人岡田は、本社の役員クラスないし支店長以上の主な人事については、役員相互あるいは総務部との協議を経て適正な人事を行い、それ以下のランクの社員の人事については、総務部に任せていたもので、具体的な人事異動の詳細は知らなかったと主張し、被告人岡田の当公判廷における供述も右主張に添うものである。

しかし、証人宮崎喜三郎の証言によれば、総務本部は、主任以上の管理職について人事考査上の諸要因に関する資料を収集し、各支店長ないし本部長からの申請に基づき人事案を作成し、社長の決裁を受けることとなっているが、具体的な人事案の作成については、年功序列と能力主義のバランスを考えた公平な人事を指向していたところ、仕入本部及び海外基地のうち竹久絡み輸入方式に関係ある部門については、主任クラスから役員に至る人事について、しばしば本来のルートによらず、岡田社長から直接の指示があって、その指示に基づき総務本部が人事案を作成し、社長決裁が行われることがあったというのであり、前記の背景事情二(六)記載の具体的な人事異動は、いずれも本来のルートによらない社長指示に基づく異例の人事異動であると証言しているのである。しかも、市原晃の場合については、仕入本部長当時の竹久絡み商品の仕入については、かなり厳しく制限する方針を打ち出していたことは、宮崎証言のみならず証人井上和雄、三輪達昌、藤村明苗らの一致して証言しているところであり、したがって昭和五二年四月における仕入本部長の交代人事は、専ら竹久絡み輸入方式に厳しい態度を取っていた市原晃を当該部門から外すためにおこなわれたものであることは明らかである。また、前記の具体的な人事異動のうち、廣田宏二、二宮孝治、関根良夫、天野治郎らについては、同人らの地位がそう高くないのに、その人事について被告人岡田が宮崎に直接指示していることが明らかである。

2 次に本件犯行期間中における竹久人事の具体例を示すと以下のとおりである。

(イ) 井上和雄(昭和五四年四月仕入本部長から大阪支店長)

証人宮崎喜三郎の証言によれば、同人は、昭和五二年四月市原晃仕入本部長の後任として仕入本部次長から仕入本部長に昇格したが、竹久絡み輸入方式については市原本部長と同様あまり積極的でなかったうえ、同五三年暮ころ被告人岡田から香港コミッション方式の拡大を指示されたのに、なかなか実行しなかったところ、同被告人は宮崎に対し、「あいつは消極的で開拓精神がない」と大阪支店長への転出を指示し、右の人事異動が発令されたことが認められる。

(ロ) 横山哲(昭和五四年七月仕入本部紳士用品部長から仙台支店次長)

証人宮崎喜三郎、同矢追秀一の証言等によれば、横山哲は、昭和五一年三月から仕入本部紳士用品部長の職にあったが、前記第四章第一節四(ヨーロッパにおける商品開発)の4(バレンシアガ)の項記載のように、被告人竹久から準直扱いの要求を受け、部内で同被告人を批判したことが社内に伝わっていたところ、同五四年六月ころの常務会において、被告人岡田が、「横山は愛想が悪い。取引先の評判も悪いようだ。仙台へ出せ」と指示し、代わって紳士用品部長となった藤野孝一についても、同人が昭和五四年九月末ころオリエント交易の武藤から紳士用品部の直輸入商品について準直扱いを拡大して欲しい旨の要求を受けた紳士用品部課長矢追秀一に対し、右要求を拒否させたところ、同年一一月下旬の常務会の席上、被告人岡田が、「藤野はファッションを扱うような柄じゃない、土佐のデコ人形のような面をしやがって。ファッション商品は無理だろう、三越縫製工場なんかどうだ、仕事をし易いように仕入部の副部長を兼務させてやればいいじゃないか」と指示し、右人事異動が発令されたことが認められる。

(ハ) 宮崎喜三郎(昭和五六年五月常務取締役総務本部長から健康保険・厚生年金基金担当本社付取締役)

証人宮崎喜三郎、同内田春樹の各証言によれば、昭和五六年三月被告人岡田は、被告人竹久の推薦に基づきフリーカメラマンの高橋良侑を本店映像部長嘱託として採用し、支店長クラスの待遇を与えるよう指示していたが、その後被告人竹久が経理本部次長内田春樹に対し、右高橋が本店内で総会屋に脅されたことに関し、取締まりの衝にあたる宮崎が放任しているとして非難し、また被告人竹久と高橋の間柄につき宮崎がとかくの噂を流しているなどと非難したことから、同五六年四月ころ内田は、パレスホテルにおいて宮崎を被告人竹久に会わせて釈明する機会を設けたが、右席上同被告人は宮崎に対し、岡田社長を守るべき地位にありながら逆に足を引っ張っているなどと非難し、暗に常務取締役総務本部長の解任を示唆していたところ、同年五月二五日ころ、被告人岡田は、宮崎に対し、「お前は竹久のことを誹謗している。方々へ投書したのもお前じゃないか。そういうやつを本社に置いておくことはできない。少し脇に行って頭を冷やせ」と言い、同月二八日付で常務取締役からの降格を発令した。

(ニ) 武田安民(昭和五六年五月仕入本部次長兼貴金属部長からサンシャイン三越開設準備委員長付部長)

証人武田安民、同天野治郎、同小林通暁、同内田春樹の各証言によれば、以下の事実が認められる。

武田安民は、前記背景事情二(六)記載のとおり、三越入社以来家具・インテリア関係を専門とし、貴金属関係の経験がなかったのに、昭和五二年四月本店家具電器部長代理から仕入本部貴金属部長に就任し、以来被告人竹久の側近として竹久絡み商品の買付を行っていたもので、同五三年八月には本店輸入特選部長を兼務し、その後仕入本部次長兼貴金属部長、仕入本部長付バイヤーをしていたものであるが、昭和五五年秋、三越仕入本部社員による買付団の団長格として渡欧した際、被告人竹久から輸入特選部のバイヤー川南盛充が担当したハンドバッグの買付量が少な過ぎると不満を述べられ、買付数量を増やすよう要求されたが、これに応じなかったところ、「買付をしないバイヤーなんてとんでもない。あなたはそれをきちんと言う指導力もない。団長の資格もないから降りなさい」と叱責され、さらにミラノのエクセシオガリアホテルにおけるミーティングの席上、居眠りをしたことを咎められ退室を求められるなど被告人竹久の不興を買い、さらに同五六年四月ころ、香港三越副支配人関根良夫から香港コミッションの対象商品である宝石について被告人竹久から買付を要求されているので買付けて欲しいと要請されたが、これに消極的な見解を示したところ、その直後に被告人岡田から、「いったい貴様どこの社員だ。買付に消極的なのはどういうことだ。てめえなんかクビだ。辞めっちまえ」などと激しく叱責された。他方、天野治郎、内田春樹らの証言によると、被告人竹久は、昭和五五年秋のヨーロッパ買付のあと、天野治郎に対し、武田が宮崎の許に出入りしているとして警戒の念を表し、同五六年春ころ内田春樹に対し、「武田が大事な打合わせのときに居眠りしている」などと批判したが、そのころ被告人竹久宅で天野治郎らが同席している際、被告人岡田は、被告人竹久に対し、「武田は本当に出していいんだな。あいつは本当に駄目なんだな」と尋ねたところ、被告人竹久は強い調子で「絶対駄目です。出して下さい」と言って、武田の人事異動を求め、その直後に前記異動が発令された。

(ホ) 統括バイヤー人事(昭和五六年八月)

関係証拠とくに証人天野治郎の証言によれば、昭和五六年八月に、商品担当部の枠を越えてあらゆる商品の買付権限を持つ、いわゆる統括バイヤー制度を発足させたが、その人選の経緯につき、次の事実が認められる。

(1) 昭和五六年七月ころ、被告人竹久は、大手町のデザインルームにおいて、天野治郎に対し、「社長が新しいバイヤー制度について考えているらしいですよ。この制度は一人のバイヤーがいろんな物を買えるようにするんですよ。ヨーロッパ関係のバイヤーには天野さんになってもらう予定ですからそのつもりでいて下さい」と言い、天野の人事を示唆した。

(2) その直後ころ、被告人岡田は、社内の営業統括会議の席上で、仕入組織の簡素化を打出し、「バイヤーに専門的な知識は必要ない。これからは一人の人間がいろんなものを買わなければならない時代だ。買ったときに販売展開まで考える者でなければならない」などと述べて統括バイヤー制度の構想を明らかにした。

(3) 同年八月ころ、被告人竹久は、自宅において天野治郎に対し、「うちのコミッション等についてあんまり大勢の人に知られたくない。だからわざわざ日本からバイヤーが行かなくても海外にいる人をバイヤーにすればいいですね」と言い、その場でイタリア三越副支配人淀縄博司、香港三越副支配人関根良夫、ドイツ三越副支配人吉川政孝をバイヤーとし、パリについては、当時営業統括室海外担当付部長であった天野を充てることや、本社直属の統括バイヤーに天野の推薦した平出昭二を充てることとし、また海外基地の副支配人を統括バイヤーに任命した場合には支配人にも資格を与えないと仕事がやりにくいとの天野の助言を容れて支配人も統括バイヤーに任命することなどを協議した。

(4) そして、同年八月二〇日付で三越は本社直属の統括バイヤーとして天野治郎と平出昭二を、海外基地では支配人及び副支配人を統括バイヤーとして任命した。

(ヘ) 吉田瑞雄(昭和五七年七月銀座支店次長から札幌支店次長)

関係証拠とくに証人天野治郎の証言によれば、

(1) 昭和五七年四月ころ被告人竹久は、商品本部長藤村明苗及び天野治郎に対し、興信所に依頼して三越幹部社員数名の尾行調査をするよう指示したが、その対象者には経理本部次長内田春樹らと共に吉田瑞雄が含まれていた。そこで藤村、天野は「帝国探偵社」に依頼してこれら社員の尾行調査を実施した。

(2) 同年六月に行われた三越主催のエーゲ海ツアーには、被告人両名のほか吉田瑞雄が銀座支店関係のツアー参加者の団長格として加わっていたが、被告人竹久は、吉田がツアーの途中で多数の写真を撮影したのを「マスコミにでも流すのではないか」と咎め、島田忠男本店次長に指示して吉田のフィルムを没収し、天野に対し、その後の吉田の行動を監視するよう指示した。その直後吉田の右人事異動が発令された。

(ト) 昭和五七年八月人事

本店長(杉田忠義→横山昭)

新宿支店長(五十嵐秀→斎藤親平)

経理本部次長(内田春樹→氷室温彦)

関係証拠とくに天野治郎の証言によれば、昭和五七年七月ころ、藤村及び天野の両名は、被告人竹久から「今日社長が来て人事の大切な話があるから家に来るように」と言われ、その夜同被告人の自宅に赴いたところ、右両名の面前で、被告人岡田が、当時の本店長である専務取締役杉田忠義について、「杉田は代えなきゃだめだ」と言ったのに対し、被告人竹久が、当時取締役池袋支店長であった横山昭を後任に強く推薦した。さらに被告人岡田が、当時新宿支店長であった五十嵐秀が不始末を起こして流通センターに配転することに伴い、その後任として常務取締役販売本部長斎藤親平を充てるという異例の人事案を打明けたところ、被告人竹久はこれに同調し、斎藤親平を個人的感情を交えて批判したうえ、経理本部次長内田春樹について、「内田さんは信用できない。内田さんに代わる人は誰かいないかしら」などと話し、藤村が名古屋三越次長氷室温彦を推薦した。そして、その後、昭和和五七年八月一日付で右一連の人事異動が発令された。

(チ) 幸前誠(昭和五七年九月商品本部婦人子供用品部課長から六本木エレガンス副支配人)

幸前誠は、関係証拠によれば、竹久側近の代表的人物として竹久絡み商品のブティック店長など多数の役職を兼務し、海外買付の際には被告人竹久としばしば同行し、同被告人宅における飲食やマージャン相手の人選など被告人竹久の個人的な使い走りの仕事もしていた者であることが認められるところ、関係証拠とくに証人天野治郎の証言によれば、

(1) 昭和五七年八月ころ、天野治郎、幸前誠らが被告人竹久の自宅で雑談していた際、幸前が岡田社長の後任を話題にしたことで被告人竹久が激怒し、その帰途幸前が被告人竹久の言動に関し「末期的症状だ」とつぶやいたのを同行した取引業者が被告人竹久に通報するなどのことがあったため、同被告人はますます激怒し、商品本部長藤村明苗を呼び、幸前を米国オーランド所在のディズニーワールド三越ブティックに飛ばすよう命じた。

(2) そこで藤村は、天野と相談し、英会話の不得手な幸前を外国に飛ばすのは可哀想であるとし、梶山幹雄総務本部長と協議のうえ、幸前を六本木エレガンス副支配人に転出させるという人事案を作成し、被告人竹久の了承を得た。そして、同年九月一日幸前の前記人事異動が発令された。

3 弁護人らは、右事実のうち、宮崎喜三郎の降格人事は、同人に不祥事があったため、組織を維持するうえでやむを得ず行ったものであると主張し、被告人岡田の当公判廷における供述もこれに添うものであるが、その不祥事なるものの内容は必ずしも具体的かつ明確にされていないのであり、関係証拠によれば、同人は、被告人岡田の積年にわたるスキャンダルが外部に漏れないよう種々画策し、総会屋等の攻撃から同被告人を防衛するため最大限の努力を傾注し、三越内部においても反岡田の芽を摘み取るため社員の動きを監視し、そのため秘密警察とかゲーペーウーなどと呼ばれており、被告人岡田としても同人を重用していたため、岡田側近中の側近と看做されていた人物であることが明らかであるところ、同人が前記2(ハ)記載のように被告人竹久のあまりにも理不尽な行動に愛想をつかし、同被告人と対立するようになったものであり、その降格の経緯をみれば、被告人竹久の意向が反映されていることは否定し得べくもないのである。

また、弁護人らは、井上和雄、武田安民らの人事に関し、同人らの異動は三越の経営戦略上の観点からなされた合理的かつ公正な人事であると主張し、被告人岡田の当公判廷における供述もこれに添うものであるが、関係証拠を総合すれば、所論のような合理性は認めることができず、かえって、同人らが被告人竹久の利益確保の面で消極的な言動をとったことが発端となり、被告人竹久の意向を受けて行われたこと及び三越における前記人事異動の定石を無視したものであることが明らかであり、三越社内において左遷人事と認識されていたことも明らかである。

四 被告人竹久の仕入業務への圧力(任務違背行為への加担)

1 海外買付への同行

ヨーロッパ買付に際し、被告人竹久が自ら同行し、又はオリエント交易社員柳田満らをして同行させた経緯及びその実質は、前記第四章第一節四及び六において認定したとおりであり、また香港コミッション方式における同被告人らの同行の経緯及びその実質は同三及び八において認定したとおりである。

右事実及び海外出張議案(甲二125ないし133)、竹久パスポート(同432)等によれば、被告人竹久は、香港関係では、昭和四七年六月に岡部明の買付に同行したのを手始めに、三越仕入部員の買付に自ら同行し、同五一年二月には松本健太郎によるバンバンの買付に同行し、同年八月には岡部多佑、三輪達昌、牧野浩らの同年一〇月開催「全店宝石おすすめ販売」用買付に同行し、またヨーロッパ関係については、昭和四八年五月に岡部明、岡部多佑、岩瀬敬一郎らによる英国店用買付に同行し、同年六月には岡部明らによる英国、ギリシャ等への買付に同行し、その後同四九年六月及び一一月、同五〇年四月及び一〇月、同五一年四月、六月及び一〇月、同五二年三月(柳田同行)、五月、一〇月と三越が春秋に行う定期買付に自ら同行し、その間に行われた買付のうち同被告人が立会ったものについては、準直又はコミッションベースによることを要求して、仕入担当幹部社員らをしてこれに従うことを余儀なくさせ、同五二年三月以後の海外買付には、オリエント交易社員のうち主として柳田満を三越バイヤーに同行させて、個々の買付に立会わせることによりオリエント交易関与の仕入形態を採らせたものであり、しかも、このようにしていったん竹久絡み商品となったものについては、その後被告人竹久又はオリエント交易社員の同行の有無に拘わらず、以後継続して同様の形態を採るよう要求したものである。

そして前記事実を総合すれば、三越側担当者としては、被告人竹久又はオリエント交易社員が、海外買付に同行を申し出る場合、これを拒否することはできなかったのみならず、被告人竹久又はオリエント交易社員が敢えて自らの経費で同行すること自体、被告人竹久又はオリエント交易に対し、当該買付に関与したものとしての利益を要求することと理解され、オリエント交易社員らが買付に立会い、買付量や買付金額等のメモを取ることにより、当該買付商品を竹久絡み輸入方式によって取り入れる要求と理解されたが、これを拒否することにより蒙る人事上の不利益等を考慮すれば、その要求に従わざるを得なかったとしても無理からぬものがあったと認められる。事実、被告人竹久は、前記のとおり、自己の要求に従う社員を重用し、これに抗う社員を遠ざけ又は左遷する等の人事介入により、担当社員を自己の意のままに動かし、担当社員が同被告人に忠誠を示す場合には、その社員に働きかけて竹久絡み商品を拡大していったものと認められる。

弁護人らは、昭和五三年以降の被告人竹久やオリエント交易社員柳田満らの海外買付への同行は、昭和五二年ごろまでにオリエント交易が開発した商品の継続等である場合が多く、例えば、弁護人請求番号二〇〇の五八年度上期展開用買付計画書記載の商品群をみても、その大部分は昭和五二年以前にオリエント交易が開発した商品で占められていると主張するが、右書証に記載された商品のうち、フランス関係のセルッティ、バレンシアガについては、前記第一節の四で認定したとおり、被告人竹久ないしオリエント交易の開発した商品ではなく、タングチェリは、証人天野治郎の証言によれば、昭和五四年に被告人竹久の要求でオリエント交易にソールエージェント権を取得させてやり同五五年三月以降コミッションベースの取引が始まった商品であり、その他の商品群をみても、必ずしも所論のように同五二年以前からの継続買付とは認められないものが相当あるうえ、当時からの継続買付と認められるものについても、オリエント交易の開発商品とは認められない。

また、弁護人らは、昭和五三年以降の展示会等における新規買付については、従前から買付けていたメーカーの新規商品に過ぎないから、その意味では継続買付の延長に過ぎないと主張する。

所論の商品が具体的にいかなるものを指すのかは必ずしも明らかではないが、例えばフランス三越関係でみると、証人天野治郎の証言によれば、竹久絡み商品となったメーカーは約二五〇社に上るところ、そのうち約八〇パーセントは展示会場での買付にかかり、これらは概ね単発的な買付分であって継続買付とは認められないから、所論は前提を欠いている。

また、弁護人らは、海外買付における柳田満の調査ないし商品開発への関与を強調するが、同人の海外活動の実質は、前記第一節の六において認定したとおりである。

2 バイヤー及び海外基地社員に対する要求

右のとおり、三越バイヤーの行う海外買付に被告人竹久が自ら同行した場合は勿論、昭和五二年三月以降は、同被告人の指示によりオリエント交易社員柳田満らが買付に同行することにより、竹久絡み商品の範囲が急速に拡大され、特に新規商品買付の重要な機会である各種商品展示会における買付についても被告人竹久又は右柳田らが買付に同行し、買付商品の数量・価格等をメモしたことから、これらがすべて竹久絡み商品とされるに至ったのであるが、右のような方式を維持・拡大させるについては、以下に述べるように被告人竹久の三越社員らに対する強力な働きかけないし要求があったものと認められる。

(1) 証人天野治郎の証言によれば、被告人竹久は、昭和五一年秋ころ、パリ三越副支配人であった右天野に対し、「これからはアクセサリーだけでなく、それに関連するファッション商品もどんどんやっていきます。私も忙しくて来れないこともあるし、オリエント交易社員が付かないこともあると思います。ただ一度オリエント交易に入れた商品については、その後買付があった場合には必ずオリエント交易宛に送って下さい。日本出発前のバイヤーにもそのことはよく言っておきますから」などと言い、また証人吉川政孝の証言によれば、ドイツ三越が輸出業務を開始した直後の昭和五四年八月ころ、被告人竹久は、ドイツ三越支配人代理であった右吉川に対し、「ドイツには良い商品があるようですね。今後も積極的に商品開発に頑張って下さい。私も協力しますから良い商品があったらどんどん情報を送って下さい」と言い、さらにその直後柳田満をして吉川に対し、柳田が同行した買付分についてはオリエント交易宛に商品を送って欲しい旨要求させた等の事実が認められる。

(2) また、関係証拠によれば、香港関係については、本章第一節三に認定したように、被告人竹久が昭和五一年八月の三輪達昌らの宝石買付に関し、ダイヤモンドの買付量の増加を要求し、同五二年一一月下旬の武田安民らの宝石買付について、フーハンからの買付量の増加を要求し、いずれも同人らをして買付増加に応じさせたほか、ヨーロッパ関係については、本章第一節六の(ニ)で認定したとおり、春秋の三越の定期買付けに同行した場合、毎晩のようにミーティングと称してホテルの自室に全バイヤーと基地の社員を集合させ、各バイヤーに当日の買付金額・数量等を報告させたり、翌日の買付について、どのバイヤーにオリエント交易社員を同行させるかなどを決定し、その際買付商品や数量・金額について増加するよう要求した事実も認められる。

これらの点について、例えば証人宇田真は、被告人竹久がミーティングの際、バイヤーの買付けについて、「もっと積極的に商品を大量に買付けなさい。新しい商品をもっといろいろ探しなさい」という指示が有ったことを証言し、さらに昭和五三年秋の定期買付の際、仕入本部婦人子供用品部長であった右宇田の行ったポール・ルイ・オリエの買付に関し、被告人竹久が「ポール・ルイ・オリエはこれから全国展開をしていくし、ショーもやって販売するんだからもっと買付を増やしなさい。こういう中途半端な買付ではだめだ。あなたができないなら私が買付ける」などと露骨に買付量の増加を求め、同人が買付計画自体において被告人竹久の意向を配慮し、売価で九〇〇〇万円の予算を立てていたのに、同被告人の要求で売価一億四〇〇〇万円に増加して買付を行わざるを得なかった旨証言し、また証人武田安民は、昭和五五年秋の定期買付の際、三越バイヤーの団長格であった同人に対し、被告人竹久が、輸入特選部課長川南盛充の買付けたハンドバッグの買付量の増加を要求し、武田がこれに消極的な意向を示すや、「大体買付をしないバイヤーなんてとんでもない。あなたはそれをきちんと言う指導力もない。バイヤーの買付についてあなたは口出しすることはありません。団長としての資格も降りなさい」などと高圧的な態度で買付量の増加を求め、翌日からは本来の買付の仕事をさせてもらえなかったほか、右定期買付においてイタリアの金製アクセサリーやスペインのアクセサリーについて、バイヤーの意向を無視して多く買付けるよう指示し、海外基地社員をして注文させたと証言している。

弁護人らは、右宇田証人及び武田証人の各証言が悪意に満ちた虚偽証言であり、各バイヤーは、海外出張計画の作成にあたり、具体的な買付数量・金額をも明示した買付計画書に基づき買付を実施しているのであり、被告人竹久の要求によって買付量を増加させた事実はないと主張する。

しかし、右証人らの証言を検討しても、同証人らは経験事実を概ね率直に供述していると認められる。宇田証言中、昭和五三年秋のポール・ルイ・オリエの買付に関し、被告人竹久の要求により売価九〇〇〇万円の買付予算を大幅に上回る一億四〇〇〇万円の買付を行ったとの点については、関係証拠、とくに、オリエント交易の仕入台張(甲二189)、アクセサリーたけひさの納品リスト(同184ないし187)等によって、インボイス年月日が昭和五三年一〇月下旬から同五四年四月上旬までの分で、三越の仕入れ原価を合計すると優に七〇〇〇万円を超えることが明らかであるところ、右買付分の買付計画(海外出張議案・甲二128)によれば、買付予定額はポール・ルイ・オリエとマックスレイを含めて売価で一億七〇〇〇万円、店出率がいずれも五〇パーセントとなっているから、宇田証言のようにポール・ルイ・オリエの買付予算が売価で九〇〇〇万円とすると、右買付において現実に買付けられた金額は売価で一億四〇〇〇万円を超えるものと認められ、宇田証言は信用できる。そしてバイヤーの海外買付にあたり作成される買付計画の段階においても、その内容は事前に被告人竹久において了知し、その段階で買付量の増加を要求したことがあることについては後記認定のとおりである。

(3) また、関係証拠によれば、前記のとおり、三越は、海外商品の取入れに関し、年間計画を策定し、春秋の定期買付などにおいて、右年間計画を踏まえた具体的な買付計画を立て、買付先、買付数量、金額、買付の日程、販売方法、販売予定価格等の明細を付して海外出張議案として社長決裁を得て買付を実施することになっていたところ、被告人竹久が三越バイヤーの行う海外買付に同行することが多くなった昭和五〇年以降、三越バイヤーらも海外買付に関する日程や買付計画の明細を被告人竹久に示して説明することが多くなり、例えば証人宇田真の証言によれば、被告人竹久が婦人服に進出を目論んだ昭和五二年春ころ、松本健太郎から、被告人竹久と海外買付に同行する場合にはあらかじめ買付予算書を同被告人に見せてその同意を取った方がよいと勧められ、同年秋の買付分からこれを実施しており、このようにして竹久絡み商品の拡大につれ、昭和五三年ころからは、前記第一節六の(ニ)記載のように、春秋の定期買付の際には、海外出張議案の決裁を受ける前に仕入本部の幹部社員がバイヤーを引率するなどして被告人竹久を訪問し、その際、出張議案書に添付された買付計画表等に基づき、竹久絡み商品のブランド名、バイヤー名、日程、買付先、金額等の説明を行い、被告人竹久からの具体的な指示や伝達を受けるのを常とするようになったことが認められる。そして、被告人竹久は、右の機会においても、買付計画の内容に関し、買付量の増加を求めたことがあり、例えば証人小林昭三郎の証言によれば、仕入本部呉服部長であった同人は、昭和五六年秋の羽毛布団の買付出張の際、被告人竹久に呼ばれて大手町のデザインルームに赴き、買付計画の明細について説明したところ、同被告人からもっと買った方がいいのではないかと言われ、同時にオリエント交易の柳田を買付に同行させる旨申し渡されたというのであり、また証人天野治郎の証言によれば、同人は、昭和五六年五月に帰国して営業統括室海外担当付部長となったが、以前から行われていたバイヤーらと被告人竹久との海外買付に関するミーティングに同被告人の指示で立ち会うようになったところ、被告人竹久は、バイヤーから示された買付金額について増額を求めるとともに、同席した天野にも同意を求めるなどし、その結果バイヤーらもその場で出張議案書の内訳となる買付計画そのものを増額修正せざるを得なかったことがしばしばあったというのである。さらに、証人宇田真の証言によれば、被告人竹久は、右のような打合せの機会に買付出張バイヤーの人選にも介入し、宇田の予定した者の何人かについて、積極性がないとか、買付が良くないなどと述べて出張者のリストから外させたりしたことが認められる。

弁護人らは、被告人竹久が三越担当者に種々意見を述べた事実があったとしても、それは、同被告人が三越の仕入機構の一員としての発言であるとか、竹久の発言を圧力としてとらえるならば納入業者はデパートに一切発言できないことになって不当であるとか主張している。

被告人竹久が三越の仕入機構の一員であるというのは、弁護人独自の事実観であるうえ、仕入機構の一員である者がどうして納入業者として三越に商品を納入し、売買差益を合法的に取得できるのかが説明されておらず、納入業者がデパートに強大な発言力を持つことが三越の仕入担当者の意思を拘束し、自由な判断で商品仕入業務を行うことができないという結果を招いていることは明らかである。

また、弁護人らは、三越においては海外基地が独立採算とされている等の事情から、海外基地側としては、三越本社からできるだけ多く買付けて貰いたいとする希望があって、被告人竹久は海外基地に利用されたに過ぎないかの如き主張をしている。

しかし、海外基地側において所論のような一般的要望があったことは否定できないが、海外基地と本社仕入担当部との関係は、既に述べたとおりであって、要するに当該商品をどの位仕入れるかの決定権限は本社側にあったのであり、海外基地の社員といえども三越社員として三越全体の利益をその行動の最終規範としていたことは明らかであるから、納入業者である被告人竹久の利益になるだけの商品を本社に強要してまで海外基地の業績を伸ばそうとは考えていなかったことは明らかであり、また証拠上そのような依頼を被告人竹久にした事実も存しない。

(4) さらに、三越バイヤーらの海外出張にあたっては、右(3)記載のほか、各担当バイヤーらとオリエント交易社員とくに柳田満らとの間でも細かい打合せが行われていたことが証拠上明らかであるところ、証人小林通暁の証言によれば、昭和五五年秋の定期買付にかかる買付計画策定の段階で、仕入の幹部社員らがオリエント交易の柳田と買付計画の内容等について打合せをした際、柳田からオリエント交易側の要求として、買付量を対前年比一四パーセント増にして欲しいとの要望があり、以後の買付計画の策定にあたっては、これを考慮せざるを得なかったこと、及び同証人の関与したその後の出張分については、常に柳田が買付計画の内容等をチェックしていたことが認められる。

弁護人らは、小林証人の証言は、同人が婦人子供用品部課長の地位にあった間、オリエント交易の貿易拡大に協力した者で、弁護人請求番号二〇一の書面にみられるように、同人はオリエント交易の柳田に対し、事前の調査を依頼するなどして、オリエント交易を仕入機構の一環として位置付けていた位だから、柳田から圧力を受けたとの部分は虚構であると主張する。

そこで検討すると、弁護人請求番号二〇一の書面は、三越営業統括室が昭和五七年度の海外出張買付に関し策定した社内用の計画案であることが内容自体から明らかであるところ、右書面が小林証人からオリエント交易側に参考資料として渡されたものと認められる。そして、右書面の「五七年下期各国の買付方針」と題する書面などには買付明細及び事前調査依頼という欄があることは所論のとおりであるが、右の事前調査の依頼は、三越の海外基地に対して行うべきものとして記載されていることは、右文書自体から明白である。証人柳田満の証言には、小林通暁から自己に対して事前調査の依頼があったとの部分も存するが、柳田の海外活動の実質は、前記認定のとおりであり、かりに同人が海外において何らかの調査を行うとすれば、結局三越の海外基地駐在員に依頼して調査して貰うことになるのであり、三越が海外基地との連絡に電話やテレックスを活用し、海外基地からの報告も詳細な書面によってなされていることが明らかである以上、三越担当者がわざわざ柳田に対し事前調査を依頼する必要は全くないのであって、これら事情を総合すれば柳田の右証言部分は措信できないものといわなければならない。

(5) 弁護人らは、(イ)竹久絡み商品について、準直方式とするかコミッション方式にするかの決定権は三越側バイヤー最終的には仕入本部長にあり、オリエント交易側にはなく、その要望すらしたことはない、(ロ)バイヤーらは、三越側の損益を計算し、一定の店出率を確保することを念頭に置いて決定していたのであり、いずれにせよ被告人竹久らの圧力によって決定されたものではないと主張する。

しかし、前記認定事実を総合すれば、被告人竹久ないしオリエント交易社員が買付に同行した場合は、常に買付商品を準直ないしコミッション方式によることとされ、しかも、いったん竹久絡み商品として、右のいずれかの方式によって仕入れることとされた商品については、その後の継続買付にあたっても、被告人竹久らの同行の有無に拘わらず、常に同様の方式によることとされたのであり、そのような取扱いが定着するに至った昭和五三年ころまでの間には、いわゆる竹久人事による三越社員への無言の圧力や被告人竹久による仕入担当者ないし幹部社員らに対する露骨な要求とこれに対する被告人岡田の積極的な支援があったことは先に認定したとおりである。したがって、三越担当者としては、いったん竹久絡み商品とされた商品については、被告人竹久ないしその関連会社に利益を与えない三越の純直輸入商品とすることはもちろん、準直方式からコミッション方式への転機についても被告人竹久の承諾を得ることが困難であり、心ならずも従前の方式を踏襲せざるを得なかったものと認められる。

そして、新規買付商品を準直方式とするかコミッション方式とするかの決定権は、それが三越の直輸入商品である以上、建前としては三越側担当者にあったというべきであることは所論のとおりであるが、前認定のとおり、被告人竹久は、被告人岡田の三越社長としての強大な人事権を背景に三越の仕入本部長以下の幹部社員らに対し、自己の勢力を誇示し、さまざまな要求や圧力を加えていたものであって、その具体例は、先に個々の商品について例示した明示的なものだけをみても、ポール・ルイ・オリエ、メンズバレンシアガ、アルニスなどの商品について被告人竹久が直接準直扱いを要求し、三越側担当者において同被告人の権力を配慮してこれを受けざるを得ない状態に追い込んだことが認められるし、また押収してあるEUROPE出張関係書類(甲二268)中のオリエント交易社員武藤登の被告人竹久に対する報告書中にあるように、同人が、昭和五四年九月に三越仕入本部紳士用品部バイヤー矢追秀一の買付に同行した際、イタリアのG・M・Cという紳士服について、武藤をして準直扱いを要求させた事実も認められる(その結果同商品は準直商品となった)のである。

もっとも、セルッティやバルトロメイなどのように被告人竹久から準直扱いの要求があったものの、結局コミッションペースによって仕入れることとなった商品もあるが、その決定の経緯をみると、三越担当者の共通の認識は、竹久絡みとせざるを得ない以上、準直方式かコミッション方式かの選択しか許されておらず、準直扱いとするよりはコミッションベースの方が三越にとって損害が少なくて済むというだけであり、そこには、所論のような三越の損益や店出率を十分に検討した結果の冷静な判断は認められない。そして、三越側担当者は、被告人竹久の準直扱いの要求をコミッションベースとする場合でも、常に被告人竹久に事情を説明してその了解を得てから実行したことが明らかであるが、そのような場合でも、被告人竹久から露骨に嫌な顔をされたことがあったことは、前記バルトロメイに関し認定したとおりである。なお、関係証拠によれば、被告人竹久が三越バイヤーの買付に同行し、展示会などで選んだ商品については、バイヤー側はその商品に関し、正確な販売予測などを考えることが不可能なまま仕入れざるを得なかったことが認められる(小林通暁証言など)。また、香港商品やバーゲン用商品の一部などのように当初から店出率を低くし、コミッションベースによって仕入れることを暗黙の前提としていたものもあるが、それらはいわゆる価格訴求品であることから、準直方式によったのでは三越の仕入単価が高くなり過ぎてしまうことが関係者にとって明白であったからにほかならない。

以上の次第であるから、準直方式によるか否かの決定権が、建前として三越側担当者にあったことは所論のとおりであるとしても、三越の社長たる被告人岡田の了解のもとに被告人竹久が右担当者の自由な決定権を行使できないようにしたことが明らかである。

五 まとめ(実行行為)

(一) 既に述べたとおり、準直方式及び香港コミッション方式による直輸入商品の仕入方式は、その構造自体において三越に無用の出費をもたらすもので、被告人岡田の三越代表取締役としての任務に違背するものであるが、同被告人は、自己の愛人である被告人竹久との共謀に基づき右準直方式を発足させ、本件対象期間中においても、右形態による仕入を維持・拡大させてきたのである。

(二) ところで、三越の直輸入業務は、前述したとおり、具体的な取入れについては仕入本部長を頂点とする仕入本部社員らが行うものであり、個々の買付商品についてそれを準直方式等によるか否か、コミッション方式による場合のコミッション率をどうするか等の決定は、原則的には仕入本部における決定事項ではあるが、被告人岡田は、被告人竹久の要請を受けて、アクセサリーたけひさ又は被告人竹久個人の利益を図るため、社長としての権限に基づき仕入本部長以下の社員らに対し、準直方式等による仕入を拡大するように一般的あるいは個別的な指示・発言を繰り返していたものであり、また被告人竹久は、自己の利益を拡大するため、被告人岡田の愛人たる地位を最大限に利用し、被告人岡田の社内における絶対的ともいえる権力を背景に、仕入担当者らに対し、個々の買付につき準直方式等によることを要求し社員らの買付けに自ら同行したり、オリエント交易社員らを同行させて、その関与を強調し、その要求に消極的な態度を示したり、準直方式等を批判した社員らについては、被告人岡田に地位の更迭を求め、被告人岡田もこれに応じてその人事権を行使したのである。

(三) もとより、仕入本部長以下の仕入担当社員らも三越の一社員として、それぞれ法人たる三越のため行動すべき規範を有し、三越から委託されたそれぞれの職責を全うすべき責任があることはいうまでもない。しかし、三越の社長の権限は、前述のとおり社内においては甚だ強大なものであり、これら社員らが社長の指示や意向に逆らってまで自己の職責に忠実であることを求めることは難きを強いるものである。しかも、三越の職制において、本社の仕入本部とりわけ海外商品の仕入を担当する部署は、当時の職場としては花形ともいえるものであり(このことは、弁護人提出の「金字塔」によっても明らかである)、三越に勤務する社員にとって極めてやり甲斐のある職場であるとともに出世コースの一つとも意識されていたものであるが、同時に本件においては、仕入本部の海外商品担当各部は、被告人両名とも接触する場面が多く、とりわけ被告人竹久の意向に逆らった等の理由でその地位から左遷または外された者があるなど被告人竹久の意向はすなわち社長たる被告人岡田の意向であると看做される状況にあったのであるから、右の地位にある社員らが、保身のため又は出世欲にかられるあまり、被告人竹久の要求を受け入れることによってその本来の職責を怠り、被告人両名の犯罪行為に加担したとしても、それは当該地位にある社員としては無理からぬことといわなければならない。

(四) そして、以上詳述した本件の全体的経緯を踏まえると、被告人岡田は、右のような全体的な状況を十分認識しつつ、被告人竹久との共謀に基づき、自己の社長としての権限を濫用して部下の社員らを道具として任務違背行為を実行したものであり、また、被告人竹久は、被告人岡田との共謀に基づき、仕入担当社員らに準直方式等による仕入を要求し、必要があれば被告人岡田に事前の了解を取るなどして右社員らに被告人岡田の任務違背行為の内容の一部となる具体的な買付行為をさせ、その実行行為に積極的に加功したものである。

第四節図利目的について

前記のとおり、準直方式については、三越の直輸入にかかる商品について、オリエント交易及びアクセサリーたけひさを経由して仕入れることにより被告人竹久の支配する会社、とくにアクセサリーたけひさに売買差益の形で利益を取得させる構造のものであり、また香港コミッション方式は、三越の直輸入品について、香港三越またはサプライヤーからの仕入価格に被告人竹久のコミッション分を上乗せすることにより同被告人個人に利益を取得させる構造のものであって、直輸入品仕入に関し右のような方式を採用すること自体、アクセサリーたけひさ、あるいは被告人竹久の利益を図る目的に出たものであることは明白といわなければならない。そして、被告人岡田は、前記のとおり、昭和四九年ころから被告人竹久の要望に応えて準直方式及び香港コミッション方式を相次いで採用し、その後右方式による直輸入仕入を維持・拡大して来たところ、その後アクセサリーたけひさの納入量及び竹久絡み商品の在庫増が顕著となり、労働組合等からも問題視されるようになるや、同五四年九月ころからは、準直方式からヨーロッパコミッション方式への転換を図り、担当者に切替えを指示し、一部商品について切替えが行われたが、さらに同五五年秋ころパリ三越の天野治郎に対し、コミッション方式への切替えが困難で、準直方式を維持する場合でも、海外基地と東京三越との間にオリエント交易、アクセサリーたけひさが介在する従来の準直方式を改め、メーカーから直接オリエント交易に商品を輸出するL/C・Dベースと呼ばれる方法(海外基地が裏になる)によって、従来被告人竹久側が取得していたのと同額の利益を得させるよう指示するなどして、殊のほか配慮していたことが明らかである。

ところで、被告人岡田は、検察官に対する昭和五七年一一月二〇日付供述調書(乙七)等において、「私は、三越の発展のため、この四年間身も心も捧げて家庭のことは殆ど顧みず働いて来ました。そんな緊張した生活の中で憩いの場が竹久との交際だったのです。そんな竹久がオリエント交易を作って(中略)私のことを頼りにしている様子だったので(中略)、香港三越と三越との一部の取引の間にオリエント交易を入れてやろうと考えた。私にとって心の安らぎを与えてくれる竹久にその位の援助をしても、まあいいだろうという気持ちになった」と述べており、また、同年一二月一日付供述調書(乙一七)において、「私の気持の中には、輸入品の仕入に際し、ろくな仕事もしないのに高い口銭を取っている商社もあるのだから、竹久に対し、少し位余計なコミッションやマージンを落としてやっても良いだろうという気持ちがあり(中略)、深く考えることもなく、ずるずると今日まで来てしまった」と述べているが、右は同被告人の心情を吐露したものとして信用できるものと認められる。

以上によれば、被告人岡田において、準直方式に関してはアクセサリーたけひさの、また香港コミッション方式に関しては被告人竹久個人の各利益を図る積極的な目的があったことは明らかである。

被告人竹久は、アクセサリーたけひさの代表者であり、同社の利益を図る目的で本件準直方式を推進したこと、及び香港コミッション方式について自己の利益を図る目的のあったこと、については事実自体明白である。

第五節三越の損害について

一 損害の把え方について

前記認定のとおり、本件において準直方式による取引は、三越が海外から直輸入する商品について、オリエント交易が輸入原価の平均約五パーセント、アクセサリーたけひさがオリエント交易からの仕入価格の平均約一五パーセントのマージンを取得していたもので、当該商品を三越が直輸入した場合と比べて、三越の仕入金額は、右二社の取得するマージン分だけは確実に高騰する関係にあったこと、また香港コミッション商品についても、三越が直輸入する商品について、支払うべき正当な理由がなく買付金額に上乗せされた被告人竹久個人のコミッション分について同様の関係にあったことは明らかである。

検察官は、準直方式においては、右二社の取得するマージンのうち、少なくともアクセサリーたけひさの取得した約一五パーセント分のマージン(具体的にはオリエント交易からの仕入価格と三越への納入価格との差額)、及び香港コミッション方式において被告人竹久の取得したコミッションを、被告人らの背任行為による三越の損害であると主張する。

これに対し、弁護人らは、まず、企業損益は、個々の商品毎の損益によって決すべきものではなく、営業の全体をマクロ的に把えるべきであり、この見地からみると、三越は、被告人岡田の社長在任中の昭和四七年以降一〇年間に経常利益で一八一六億円もの利益を上げ、その間経常収支が赤字となったことは一度もなかったのであるから、三越に損害を加えたことはないと主張する。

そこで検討すると、背任罪における損害とは、人の全体財産について、任務違背行為によってもたらされる財産価値の減少を来す場合のすべてを指称するところ、本件において、準直方式及び香港コミッションによる直輸入システムは、前記のとおリアクセサリーたけひさに支払うべきマージン分及び被告人竹久に支払うべきコミッション分だけは確実に三越の仕入価格が高騰する関係があり、しかも、これらは三越が直輸入業務を行ううえで全く支払う必要のない出費であったことが明らかであるからこれらの支払いは、三越の既存の全体財産の減少をもたらすものとして三越の損害となることは明らかである。

被告人岡田が三越の社長として在任中の一〇年間における三越の企業損益が終始黒字であったことは、弁護人主張のとおりであるが、背任罪における損害は、全体財産の減少として把えるべきであるからといって、所論のように企業損益が全体として赤字でなければ損害が発生していないとか、任務違背行為により生じた損害を販売による利益で差し引きして考えるべきものではない。本件においては、準直方式等による仕入が行われる際に無用の出費に基づく損害が発生しているのであるから、三越の他の営業による利益ないし当該準直商品等による販売利益があったからといって、右の損害が消滅したり減少したりする関係にはないのである。のみならず、以下に述べるように、準直方式及び香港コミッション方式において、三越の仕入価格が高騰した部分につき、三越がこれを販売価格に転嫁することができず、したがって右部分について、販売による回収も困難な関係にあったことが認められるのである。すなわち、

関係証拠を総合すると、百貨店業界などの流通業界における販売商品の売価は、百貨店独自に決定されるとはいっても、同業他店における同種の商品の売価を考慮し、これより著しく高い売価を設定し得ないという意味において、価格が横並びで決定される原則があることが明らかである。

弁護人らは、右の価格横並び論は、ナショナルブランド(N・B)商品には通用するが、プライベートブランド(P・B)商品ないし直輸入品には通用しない、本件準直商品等は非競合商品であり、自由な販売価格の設定が可能である、と主張する。

なるほど、P・B商品は、もともと右の価格横並び現象から来る利益率の低下を防ぎ、より高い利益率を確保することを志向して各百貨店等において独自に開発が行われており、被告人岡田も社長在任中にその開発に力を入れていたことが明らかである。しかし、P・B商品が、ある百貨店独自のものであり、同業他店に同一の商品が売られていないからといって、全く自由に価格設定が可能であるとはいえない。これら商品と同種又は類似の商品が同業他店に販売されている限り、その売価を考慮して価格設定をしなければ販売が困難となることは明らかである。直輸入商品についても同様のことがいえるのであって、同業他店における同種又は類似商品の売価による制約は当然に及ぶものである。関係証拠によると、本件準直商品の中に、同業他店において同種又は類似の商品が全く販売されていないという意味での非競合商品は存しなかったこと、したがって、三越の販売担当者は、すべて同業他店における同種又は類似商品の売価を考慮しなければならなかったことが明らかである。また、香港コミッション商品は、ヨーロッパのブランド商品と異なり、もともと価格訴求商品であり、僅かなコミッションによる仕入価格の高騰も販売価格に影響せざるを得なかったことが認められる。

弁護人らは、三越の買付計画(海外出張議案)、買付報告書、販売計画等によれば、海外商品買付にあたり、仕入部員・バイヤーらは計画段階から一定の店出率(売益率)を確保するよう努めていたものであり、その店出率についても竹久絡み商品については三越の純粋の直輸入品に比べてとくに低いことはなかったのであり、したがって、本件竹久絡み輸入方式により竹久関連会社等に一定のマージンを支払ってもなお、三越にとって一定の店出率が確保できたのであるから、三越の損害は発生しない、と主張する。

なるほど、三越の買付計画、買付報告書等の書類には、各商品毎に仕入価格及び販売価格が具体的に数値をもって記載され、準直商品の場合でも、三越の店出率(売価に占める利益の割合)は概ね四〇パーセントないし五〇パーセントとされており、その限度では三越の純粋の直輸入品の場合と店出率上の差異はなく、したがって、三越の仕入部員やバイヤーらは、原則的には計画段階から直輸入品一般に要求される一定の店出率を確保するよう義務づけられていたものということができるが、関係証拠によれば、具体的な商品ごとの上代設定にあたっては、右計画どおりの店出率を確保できなかったことはもちろん、一定の店出率を確保すべく上代設定をしても、価格が高いため札下げと称する値引販売を頻繁に行わなければならなかったことが明らかである。

さらに弁護人は、石井一美証人作成「直輸入残高の推移」及び「全三越の『売上・売場商品残高及び直輸入品の売上高・売場商品残高並びに正味商品残高』の推移表」、滝沢義朗証人作成の「直輸入と総仕入との対比表」によって、三越の昭和五四年二月期から同五七年二月期までの直輸入品販売による粗利益を推定すると、右四期合計の期中売上高は約七六四億四二〇〇万円、粗利益は三一九億四〇〇〇万円となり、粗利益率は約四二パーセントとなるから、これをみても現実に買付計画時における店出率は確保されている、と主張する。

弁護人主張の三越の昭和五四年二月以降四期通算の直輸入品全体にかかる粗利益を算出すべき的確な資料は存しないが、弁護人所論の証拠によれば、概ね期間粗利益が四二パーセント程度と認めることはできないわけではない。弁護人らは、準直商品を含む三越直輸入品全体の粗利益が右の割合であることをもって、それが直ちに準直商品及び香港コミッション商品の粗利益もこれと同率であると即断しているが、その推論は正しくない。すなわち、右期間中の直輸入品仕入高及び売上高のうち、三越の純粋の直輸入品にかかる部分といわゆる竹久絡み商品にかかる部分との割合を明確にする資料は存しないが、以下に述べるように、仕入高についてみても、竹久絡み商品の期中仕入高は、三越の全直輸入品仕入高の二分の一に満たないことが明らかである。

まず、所論滝沢証人作成の表によると、期中の準直商品の仕入額は約一一一億八〇一三万円で、直輸入品総仕入六一六億九二〇〇万円の一八・一二パーセントを占めるに過ぎず、また香港コミッション、ヨーロッパコミッションに絡む仕入高の直輸入品総仕入に対する割合は正確には計算できないものの、そんなに高率の割合を占めているとは考えられない。すなわち、コミッションベースの取引が多かったのは、関係証拠によれば、ヨーロッパ及び東南アジアが主なもので、その他の地域であるアメリカ、中国、台湾、韓国、イラン、南米などからの直輸入品については、コミッションベースの取引は全くないか、あってもごく僅かであったと認められるところ、①滝沢証人作成の表によれば、ヨーロッパ、東南アジア(香港、中国、台湾、韓国)を除くその他地域からの直輸入仕入高は約一一一億四一四二万円に上り、その直輸入品総仕入高に対する割合は、約一八・〇五パーセントに上っていること、②ヨーロッパ地域からの直輸入品の仕入額は、右四か年で一七四億五二〇〇万円余で、全直輸入品仕入高の約三四・六パーセントを占めているところ、そのうち、三越の純直輸入分をみると、例えばフランス三越関係仕入については、証人天野治郎の証言、フランス三越の輸出台帳六綴(甲二57)、フランス関係オーダーシート四箱(同200)、同一袋(201)、「FACTURE INVOICE」と題するファイル五綴(同202)、インボイス一箱(同203)等によれば、フランス三越関係の直輸入高のうち、昭和五三年分については、七一・二パーセントがいわゆるオリエント交易無関係、すなわち三越の純粋の直輸入分である。同様に昭和五四年分については五〇・二パーセント、同五五年分については二四・一パーセント、同五六年分については一三・五パーセントがそれぞれ三越の純直輸入商品である。したがって、滝沢証人作成の表におけるフランス関係の直輸入正味商品のうち、昭和五三年以降同五六年までの期中において少なくとも約三三億円分は、三越の純直輸入分である。③同様にイタリア三越関係でみると、証人中山勝彦の証言、取扱高及びコミッション集計表一箱(甲二16)、輸出台帳七冊(同205)、オーダーシート三袋(同204)、コミッション集計表二冊(同206)、オリエント交易関係書類二袋(同207)等によれば、イタリア三越関係の直輸入高のうち、昭和五三年分については八一・八パーセントがオリエント交易無関係の純直輸入分であり、同様に同五四年分については六四・七パーセント、同五五年分については四一・四パーセント、同五六年分については三〇・三パーセントがそれぞれ三越の直輸入分である。④また、証人吉川政孝の証言、同人の検察官に対する供述調書(同意部分)、三越ドイツ貿易関係書類ファイル六綴(甲二210)、同書類ファイル写し六綴(同211)、同書類ファイル二綴(同212)等によれば、ドイツ三越関係の直輸入高のうち、昭和五四年分については五二・八七パーセントがオリエント交易無関係の純直輸入分であり、同様に同五五年分については三六・九一パーセント、同五六年分については六一・〇二パーセントがそれぞれ三越の純直輸入分である。⑤香港三越関係の直輸入品のうち、三越の純直輸入分の割合を示す的確な証拠はないが、関係証拠を総合すると、前記認定のように、昭和五三年で五〇パーセント弱、同五六年で一〇パーセント弱となっていることが認められる。

以上を総合すると、弁護人所論の右四か年分の直輸入商品仕入高六一六億九二〇〇万円(準直分を含む)のうち、すくなくとも五〇パーセント以上が三越の純粋の直輸入分と推認できる。そして、右期間中の売上高九六四億四二〇〇万円のうち、その相当部分を三越の純直輸入商品で占めていると考えられるから、弁護人が斎藤証言により期中売上高のうち二〇〇億円を関連会社から円買い商品、ロエベ等の売上分として控除したうえでなお、四〇パーセントの粗利益が生じるというのは、マージン負担のない三越の純直輸入品によってもたらされた利益とみることも可能である。

竹久絡み商品の在庫が昭和五五年以降急増していたことは、前記認定のとおりであり、天野証人の証言によれば、かつてヘレン郭ファッションの在庫を処理するため、国内業者の仕入価格を下げさせ(差額返戻)、そこで浮いた金額を値引予算に充てることにより右商品の売益率を確保したことがあるといい、また証人根本邦彦の証言によれば、アクセサリーの在庫を処理するため、種々の伝票操作をしたことが認められるのであり、斎藤証人が、直輸入品の売益率について、純直輸入の紳士服地のように六十数パーセント取れるものもあるが、直輸入品全体としては、とても四〇パーセントも取れないと証言していることは、右事情を踏まえれば、あながち虚偽とはいえないのである。そして、竹久絡み商品については、準直商品は仕入価格において最低二〇パーセントは割高であり、香港コミッション商品についても、被告人竹久のコミッション分だけは割高となるものであるが、香港コミッション商品はいわゆる価格訴求品が多いところから、仕入価格が若干でも割高であれば、それだけでも商品の売行きに影響することが避けられないことは見易い理といわなければならない。

二 損害額の内容

1 準直方式における損害額について

前記のとおり、準直方式においては、三越の直輸入品につき、いったんオリエント交易がインポーターとなって商品を輸入し、これを形だけアクセサリーたけひさに転売して同社がオリエント交易から仕入れた価格に対し、さらに約一五パーセント程度の利益を乗せて三越に納入していたものであるが、アクセサリーたけひさには右差益を取得すべき根拠がなく、三越としては右アクセサリーたけひさの差益分だけ確実に仕入価格が高騰する関係にあり、その高騰分が三越の損害となることが明らかである。

その損害額の内訳は、検察官提出の証拠説明書Ⅱ(アクセサリーたけひさの納品リスト中婦人用品、紳士用品及びアクセサリー以外の雑貨類についてインボイス毎に納入年月日、サプライヤー名、品名、数量、アクセサリーたけひさの仕入原価、納入価格、三越の仕入計上日、納入先等を証拠に基づき整理したもので、同書記載の差益額が損害の内訳となる。以下同じ)、証拠説明書Ⅲ(アクセサリー類)、証拠説明書Ⅳ(貴金属、家電、呉服、家庭用品その他商品類)及び「証拠説明書の訂正について」(計算誤謬を訂正したもの)記載のとおりであると認められる。

以上によると、本件訴因(昭和五七年一二月一日付起訴状記載の公訴事実第一)における検察官主張の損害額一六億〇六五三万三三五七円より二九〇七万五八九〇円少ない一五億七七四五万七四六七円が、右準直方式による損害額となる。

2 香港コミッション方式における損害額について

前記のとおり、香港コミッション方式においては、三越の直輸入品につき、被告人竹久へのコミッションをシッパーである香港三越あるいはサプライヤーから仕入代金に上乗せして三越に請求させ、その請求金額を三越から香港三越またはサプライヤーに送金させたものであり、被告人竹久において、右コミッションを取得すべき根拠がなく、三越としては、代金額に上乗せされた同被告人へのコミッション相当分の損害を受けたことが明らかである。

その損害額の内訳は、香港三越の総勘定元帳(甲二9・符96)、香港三越コミッション台帳三冊(パーチェスレポート・甲二10・符97)、入金関係書類ファイル一冊(甲二11・符98)、コミッション関係ファイル一冊(甲二12・符99)等に基づき証人関根良夫が作成した表(関根証言資料⑤―ライエンサン名義受領分、⑥―メイヒン名義受領分)にまとめられているが、さらに、検察官提出の証拠説明書Ⅵにおいて、それぞれのコミッションにつき、右各証拠物のほか、決済ノート七冊(甲二301・符336)、決済ノート五冊(甲二458・符641)、通関ファイル一八箱(甲二457・符640)等と照合して、香港三越コミッション台帳のコミッション台帳のコミッションナンバー記載の商品につき、サプライヤー名、品名、数量オーダー金額、通関事実、三越の送金日、送金銀行、送金額を個別に確認した結果が表にまとめられている。

当裁判所は、これら証拠物を仔細に検討した結果、関根証言資料⑤の二枚目に記載されている①昭和五六年一一月五日、ウインフィールドファッションから入金されたとされる二万九八〇三・七香港ドルのコミッション分と②同年一一月六日イージーガーメントから入金されたとされる二万一四五七・七香港ドルのコミッション分については、これらに対応する商品の発注、船積及び送金の事実を確認することができず、したがって、同じサプライヤーとの間における他の取引及びそれに伴うコミッションの計上が二重になされた疑いが存する(この点については、後記所得税法違反事件について詳述する)ので、これを損害に含めないこととした。さらに後記認定のとおり、インターナショナルファーに支払われたコミッション六万五四八七・六一香港ドル、ロイヤルファーに支払われたコミッション四万九二三八香港ドル及び七万三八五三香港ドルの合計三口のコミッションの円換算の基準時の取り方に若干の異動を生じるので、これを調整する。

以上によると、本件訴因(前記起訴状の公訴事実第二)における検察官主張額二億六九三八万二二四二円より二〇六万二九二六円少ない二億六七三一万九三一六円が香港コミッション方式による損害額となる。

三 被告人らの損害についての認識

1 被告人岡田

関係証拠によれば、被告人岡田は、三越社長として竹久絡み輸入方式、就中準直方式において三越の仕入原価にオリエント交易及びアクセサリーたけひさのマージン分が加算されていること、及びコミッション方式において三越の仕入原価に被告人竹久のコミッションが加算されていることを知っていたことは明らかである。同被告人の右認識の存在を裏付ける事実は多く認められるが、さしあたり、検察官主張の以下の事実によっても裏付けられている。すなわち、

(一) 証人宮崎喜三郎の証言及び検察事務官作成の報告書(甲一180・国会タイムス)等によれば、前記二の(四)①2及び第四章第一節二の2で認定したとおり、本件準直方式の成立する以前における昭和四八年一二月の国会タイムス誌上に、被告人岡田がオリエント交易を通して三越に海外商品を取り入れたことに関して、被告人竹久側のマージンのため三越の仕入価格が二割位高くなっている旨の記事が掲載されていたところ、被告人岡田は右国会タイムスを一〇〇〇万円で回収したうえ、廃業する前に目を通し、「二割位あたり前じゃねえか」と感想をもらしたことが認められる。

弁護人らは、右国会タイムスは、ブラックジャーナルの根拠のない中傷記事であって、被告人岡田がその内容を信ずる筈もないし、したがって右宮崎証言にあるような感想を漏らす筈もないと主張する。

しかし、右国会タイムスの記事は、被告人岡田のスキャンダルに属する事実を暴露したもので、三越社内に情報提供者の存在が窺われたものであり、全くの虚構として一蹴できない性質のものであったからこそ、被告人岡田において、わざわざ大金を投じてこれを回収したものと認められるのであり、オリエント交易を通して三越が直輸入品を仕入れる形態及びその仕入方法によってオリエント交易が売買差益を取得していたことが、昭和四八年一二月当時の状況として存在していたことは、前記のとおり動かし難い事実であって、これによってオリエント交易に二割位の不当な利益を与えていると国会タイムスによって指摘されていることは明らかである。したがって、被告人岡田が右国会タイムスを回収したのちその記事を読んで右のような感想を漏らしたとの宮崎証言は、迫真性に富んでおり信用できる。

そして、被告人岡田は、右国会タイムスの記事の真実性等について特段の調査や改善策を取らなかったばかりか、その後オリエント交易の口座を廃止したのちの直輸入品の仕入方法について、前記のとおり、オリエント交易のみを経由した従来の方法よりマージンが低くなる必然性のない本件準直方式を指示したことが明白であるから、同被告人としては、準直方式による被告人竹久側のマージンが右国会タイムスの指摘する二割を下回らないことは知悉していたものというべきである。本件準直方式の維持・拡大の過程において、被告人岡田が仕入担当部社員らに対し、被告人竹久側の具体的なマージン率についてとくに質問した形跡がないのは、被告人岡田が毎晩のように被告人竹久の許を訪れ、これらの点について話し合う機会が十分あったからにほかならないと認められる。

(二) また、証人井上和雄、同藤村明苗及び斎藤親平の各証言等によれば、同証人らは、前記第二節五のとおり、昭和五二年から同五六年にかけて、三越の納入業者の取扱高順位を記載した「仕入高ベスト一〇〇」なる一覧表(甲一172・検察事務官作成の捜査報告書)を毎年被告人岡田に示して説明していたので、同被告人はアクセサリーたけひさの年間取扱高を把握していたことが認められる(被告人岡田も当公判廷において三正会幹事推薦にからんで右一覧表を見たこと自体は認めている)ところ、右一覧表によれば、アクセサリーたけひさの三越への納入高は、前記二背景事情(一)③記載のとおり逐年急激に増加しているのであるから、被告人岡田において、右アクセサリーたけひさのマージンがどの程度のものであったかは概ね認識していたものと認められる。

したがって、被告人岡田が、検察官に対する昭和五七年一一月二九日付供述調書(乙一四)において、「被告人竹久側のマージンは常識的にみて輸入金額の一五パーセントないし二〇パーセントであると思っていた」と述べ、同年一二月一日付供述調書(乙一七)において、「昭和五二年ないし五三年ころになると、三越の納入業者の中でアクセサリーたけひさの取扱高が上位を占めるようになってきて、竹久に余計な支払いをしているのではないかと考えたこともあるが、永い間親しい付き合いをしてきた竹久に対し厳格な態度に出ることがためらわれ、ついずるずると竹久の甘えを許してきた」と述べているのは、同被告人の気持ちを率直に吐露したものとして信用できる。

(三) 次に香港コミッション方式については、前記のとおり、被告人岡田は、宮崎総務本部長に対し、被告人竹久のために五パーセント位のバックマージンを乗せてやるよう指示し、同五四年九月ころ藤村明苗仕入本部長代理から、香港コミッションの率について二パーセントから五パーセントとなっていると告げられており、右程度のコミッションを被告人竹久が取得していることを知っていたことは明らかであるところ、被告人岡田は前記のとおり、昭和五四年以降香港コミッション方式を拡大するよう数々の指示を発しているのであって、これらの事実に徴すると、被告人岡田において、香港コミッション方式による被告人竹久の利益額すなわち三越の損害額が相当の額となっていたことは認識していたものというべきである。

2 被告人竹久

被告人竹久は、本件準直方式によって売買差益を取得していたアクセサリーたけひさの代表取締役であると共に、香港コミッション方式におけるコミッションの取得者であるから、これらにより取得したマージン及びコミッションの額について正確な認識を有していたことは明らかである。

弁護人らは、被告人竹久は、同被告人及びアクセサリーたけひさの取得した利益は、正当な商行為の対価であると思っていたのであるから、三越に損害を加えたとの認識はなかったと主張する。

しかし、被告人竹久及びアクセサリーたけひさの取得した利益は、とりもなおさず三越の損害にほかならないこと前記のとおりである以上、被告人竹久において損害(額)の認識に欠けるところはない。

第五章法令の適用についての補足説明

第一節特別背任罪の故意及び図利目的について

一  すでに詳述したとおり、本件における準直方式及び香港コミッション方式による三越の商品仕入は、アクセサリーたけひさ又は被告人竹久に不当な利益をもたらす反面、三越に損害を加える行為であり、被告人岡田は、三越の代表取締役社長としての任務に背いて部下の社員らをして右各方式によって商品仕入の行為をさせたものであることは明らかである。

二  弁護人らは、(イ)被告人岡田は、右各方式によって海外商品を取入れることが、三越社長としての通常の業務執行から逸脱しているとの認識はなく、その任務に合致すると信じていたものである。すなわち、被告人竹久らの貢献が客観的には存在しなかったとしても、被告人岡田としては、被告人竹久が海外商品の取入れに関し有用であると信じていたのであるから、かく信じるについて過失があったとしても任務違背の認識はなく、特別背任罪の故意を欠く。(ロ)仮に被告人岡田が、被告人竹久の無用性を認識していたとしても、マージン又はコミッションを与えることは商慣習上合法と信じていたから特別背任罪の故意を阻却すると主張する。

三  そこで判断するに、まず(イ)の点については、さきに認定したところから明らかなとおり、直輸入商品は、すべて買取仕入であるから、販売と連動した仕入方針が必要であると共に、回転率も高くはないから、商品の陳腐化や在庫の評価減等のリスクも大きく、ある程度高率の店出率を確保しないと収益を圧迫することになることは百貨店業界における常識ともいえる事柄であり、したがって、百貨店において、直輸入商品を仕入れるにあたっては、可能な限り、仕入に伴う無用の出費を避けることは経営者として当然の責務である。本件における準直方式及び香港コミッション方式は、その構造自体三越にとって無用の出費を伴うものとして通常の業務執行から著しく逸脱するものであるところ、前記のとおり、準直方式は、前記国会タイムス等で指摘された被告人岡田の任務違背行為を対外的に隠蔽するだけで実質をかえって悪化させているのであり、したがって、被告人岡田は、右準直方式発足の当初からその構造自体三越に無用の出費を強いるものであることを充分認識していたことは明らかである。また、その後の準直方式の拡大過程の中で、被告人竹久やオリエント交易社員らが、三越の海外買付に同行したり、買付担当者と種々の折衝をしたことについても、被告人岡田は、被告人竹久と海外出張を多数回共にし、被告人竹久らの右行為の実態が、自己の利得額を増やすために三越の買付量の増加を求めるに過ぎないもので、三越の立場を踏まえての行動とは無縁のものであったことを充分認識していたものと認められる。もっとも、被告人岡田は、前記のように、部下社員の前では被告人竹久の有用性を強調するような発言をしていることが認められるが、前記認定のような本件の全体的経緯を総合すれば、被告人岡田のこれら発言は、右準直方式等が被告人竹久側にもたらす利益を正当化することによって部下社員らに右方式を遵守させようとの意図に基づくものであって、したがって、被告人岡田は、被告人竹久の有用性を信じていたわけでなく、右準直方式等が通常の業務執行から逸脱するもので、社長としての任務に背くものであることを認識していたが、三越社内における権力を過信して違法行為を継続していたものと認められる。

次に(ロ)の点については、被告人岡田は、検察官に対する供述調書(乙七及び一七)において、「竹久の甘えを許してきた気持の中には、輸入品の仕入に際し、ろくな仕事もしないのに、高い口銭や眠り口銭を取っている商社もあるのだから、竹久に対し少し位余計なコミッションやマージンを落としてやってもいいだろうと思った」旨述べており、これらによれば、被告人岡田は、本件において被告人竹久側の取得したマージンやコミッションも商社の口銭等と同列に考え、商慣習上合法的に支払われるべきものと考えていたもののようである。しかし、右供述調書にいう商社の口銭というのは、例えばティファニーのような海外の有名ブランド商品等において、その独占的な輸入権を持つ商社等に対するものであり、この場合商社の取得する口銭が一定の役務の提供という実質を伴わないいわゆる眠り口銭であったとしても、当該商品をメーカーから買付けようとすれば、メーカーと商社の右のような特殊関係からして必然的にその商社を経由しなければ買付が不可能であるため、支払いが必要的となるというものであるが、本件におけるオリエント交易、アクセサリーたけひさ又は被告人竹久は、いかなる意味でも右の商社とは異なるものであって、三越固有の意思によりこれらの者にマージンや口銭をあたえることなくメーカーから買付けることが可能であったことは明らかであるから、被告人岡田の供述内容は、被告人竹久側に不当なマージンやコミッションを与えていたことを正当化するためにつけた理由に過ぎず、被告人岡田がこれらを本心から商慣習上合法であるとかやむを得ない支払いと考えていたわけでないことは明らかである。したがって、弁護人の主張は理由がない。

四  さらに弁護人は、本件において被告人岡田にアクセサリーたけひさまたは被告人竹久個人の利益を図る目的があったとしても、同被告人は、本人たる三越の利益を図ることを主たる目的として本件準直方式等を採用したのであって、右の第三者の利益を図る目的は付随的ないし従属的なものに過ぎないから、全体として背任罪の成立に必要な図利目的を欠くと主張する。

しかしながら、すでに詳述したとおり、三越において海外商品を取り入れ販売する場合には、本件準直方式等を採用しなくとも三越においてマージン等の負担のない直輸入により利益を確保することができるのに、本件においては準直方式等を採用し、三越の損害において第三者の利益を図ったものであるから、本件が本人たる三越の利益を図ることを主たる目的として行われたものでないことは明らかであり、所論は理由がない。

第二節特別背任罪の身分なき者の責任について

一  本件において、被告人岡田は、三越の代表取締役としてその委任事務を処理すべき任務を有することで刑法二四七条所定の背任罪の身分を有すると共に、会社の取締役たる身分を有することで商法四八六条一項所定の身分をも有するものであるところ、被告人竹久は、三越との関係において、右のいずれの身分をも有しないことは明らかである。被告人竹久は、三越の一納入業者たるアクセサリーたけひさの代表者であって、その立場は、三越の仕入業務の関係では取引の相手方として、利害がむしろ対立する関係にあったものである。

二  背任罪は、本人から委託された任務を処理する者が、任務違背の行為をすることにより本人に損害を加える犯罪であるから、身分者の任務違背行為により利益を受ける者が自己の利益を図るために身分者と意思を通じたからといって直ちに背任罪の共犯としての責任を負うわけではない。しかし、本件においては、被告人竹久は、被告人岡田の三越社長としての社内における絶大な権力に便乗し、同被告人の自己に対する愛情に甘えるあまり、竹久絡み輸入方式が三越にとって無用の出費を伴うもので被告人岡田にとって社長としての任務に違反するものであることを知りながら、同被告人に積極的に働きかけて共謀を遂げ、右方式を維持・拡大させ、自らも被告人岡田の権力を背景に社員らに対し、社長の指示ないし意向であるとして右方式による賀付を余儀なくさせ、被告人岡田の任務違背行為に積極的に加功しているのであり、右のような事情の認められる本件においては、被告人竹久は、背任罪の身分を有しないけれども、身分者たる被告人岡田の任務違背の行為につき共同正犯としての責任を免れないものというべきである。

三  なお、商法四八六条一項は、通常の背任罪につき身分を有する者が、同項所定の身分をも併有する場合に、その地位の重要性にかんがみとくに刑を加重する趣旨で設けられたものであり、右の加重的身分を有しない被告人竹久については、刑法六五条二項により通常の背任罪の刑をもって処断することとなる。

第六章被告人岡田の自宅改修費関係特別背任事件の争点に対する判断

一  弁護人の主張

弁護人の主張は、要するに、被告人岡田の自宅改修の工事代金を支払うために上乗せされたとされるリース料金は、三越の本店庶務部長五十嵐秀と兼六加工の代表者永瀬昭治が相談のうえ決めたことで、被告人岡田はこれに全く関与していなかったというのであり、さらに弁護人は、右主張を裏付ける事情として、自宅改修工事の代金は検察官主張の価額よりはるかに低額であったこと、工事を施工した兼六加工は被告人岡田から工事代金の支払いを受け、また三越からも別途支払いを受けていて損失を被っていなかったこと、のみならず最後の大改修工事では同社は利益を受けていることなどを指摘し、五十嵐及び永瀬の証言の信憑性、被告人岡田の供述調書の信憑性を争っている。そして、被告人岡田も当公判廷において、右の主張に添う供述をし、本件リース契約について「かねてリース産業に興味を持ち、百貨店としても手掛けていくべきであると考えていたところ、三越ビルサービスの倉持隆取締役から、リース業の将来性を訴えその取入れ方を求める意見書が提出されたことを契機に、関係者にリースの研究を指示し、また経営企画会議で進捗の遅れを問い質したことはあったが、その後の具体的なことは報告を受けておらず知らなかった」旨述べている。

二  判断

そこで以下において、被告人岡田の自宅改修工事の経過、本件リース契約が結ばれるに至った経緯、その内容等を検討し、弁護人主張の諸点について考察することとする。

被告人岡田の検察官に対する昭和五七年一一月五日付、同月九日付、同月一〇日付、同月一一日付各供述調書、証人五十嵐秀、同永瀬昭治、同竹内正勝の各証言、渡辺進の検察官に対する各供述調書(不同意部分を除く)等関係各証拠を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  自宅改修工事について

1 被告人岡田と五十嵐秀及び兼六加工(永瀬昭治)の関係

本件当時三越の本店庶務部長をしていた五十嵐秀は、昭和三〇年慶応義塾大学を卒業して三越に入社し、本店食器部配属となったが、所属していたボディビルクラブの部長に当時の本店宣伝部長の被告人岡田を迎えてその面識を得、その後同被告人の紹介により同被告人の旧制中学時代の恩師の娘と結婚したことから同被告人と親密の度を深め、その引立てもあって、昭和四六年三月本店庶務部副部長に就任し、被告人岡田が社長就任後の昭和四八年二月同庶務部長となり、昭和五三年一一月本店次長に昇格して庶務部長営業管理部長を兼務し、昭和五六年一一月には新宿支店長に就任するなど順調に昇進していった。五十嵐は、被告人岡田が統率力、決断力に優れ、部下に接する態度にも人を惹きつけるものを有していたことから、同被告人を深く尊敬し、すべてに手本として仰ぐほど同被告人に心酔し、仕事上では絶対に迷惑を掛けてはならぬと決意し、庶務部副部長に就任すると、毎日他人より早く出勤し、休日はすべて返上して仕事に励み、庶務部長になったころからは、出勤前に被告人岡田の自宅に毎日のように伺候し、種々の指示を受けるなどして重宝がられていた。

他方、本件リース契約の当事者として三越からリース料金の支払いを受けていた兼六加工株式会社の代表者永瀬昭治は、昭和二六年東京美術学校を卒業後三越に入社し、仕入部衣裳考案室などに勤務したのち、昭和三三年退職し、三越ビルサービス株式会社の前身である協力舎の下請けとして、プラスチック装飾品を三越に納入したり、三越の内装関係の仕事を担当していたが、昭和三六年四月室内装飾工事等を営業目的とする資本金一〇〇万円(のちに順次増額され一八〇〇万円となる)の右兼六加工を設立した。同社は、昭和四三年ころ三越本店宣伝部に取引口座の開設が認められ、独自にあるいは三越ビルサービスを通して、三越各店舗の内装・改造工事、店舗内外の催事場設置工事等を請負い、さらに昭和五二年ころからは商品陳列用のアクリル製のケースを製造して、三越各店舗及び提携店に多量に納入し、三越との取引は兼六加工の売上げのほとんどすべてを占めるに至っていた。

2 自宅関係の工事の内容及びその支払状況

(工事一覧表)

番号

工事時期

工事箇所

工事代金(円)

1

昭和四八年一二月

温室設置工事

一、二〇〇、〇〇〇

2

四九・  六

テラス鉄平石工事

一八九、三〇〇

3

一〇

洗面・便所工事

一、八九一、〇七〇

4

一一

浴室・洗面・脱衣所工事

四、五〇〇、〇〇〇

5

五一・  三

離れ入口扉廻り工事

二八二、〇〇〇

6

二階倉庫建増工事

一、五〇〇、〇〇〇

7

書斎一式工事

四、二四三、〇〇〇

8

五二・  七

応接内装工事

八、八七六、〇〇〇

9

一二

茶の間・食堂工事

五、五〇一、八四七

10

五三・  六

玄関内装工事

一、五一四、七五〇

11

一二

正面門工事一式

一、四六一、〇〇〇

12

五四・  二

別棟二階建内装工事

三、四八九、二五〇

13

五五・  二

アパート下倉庫工事

九〇〇、〇〇〇

14

五六・  五

裏門・勝手口門工事

三、一〇〇、〇〇〇

15

八~一二

新築工事

七四、九九三、一〇〇

合計一一三、六四一、三一七

被告人岡田は、昭和四七年ころ、庶務部副部長をしていた五十嵐秀に自宅寝室の欄間を塞ぐよう頼み、同人はこれをそのころ宣伝部副部長の紹介で知り合った永瀬昭治に依頼して行わせたが、右費用は実費一万円程度のものであったため兼六加工のサービスとして取扱われた。その後被告人岡田は、昭和四八年一二月ころ、自宅敷地内に温室を設置することとし、五十嵐の勧めで同人を通じ兼六加工に右工事を施行させたが、これを手始めとして昭和四九年六月テラス鉄平石工事、同年一〇月洗面・便所工事など次に記載するとおり、昭和五六年一二月までの間一五回にわたり、次々と自宅関係の工事を兼六加工に発注施行させ、最後の新築工事のあとも、これと同程度の大規模な母屋の建替工事が計画されていた。

兼六加工は、右の各工事を施行するにあたり、すべて下請業者を使用(なお1番の工事の一部は自社においても行っている)していたが、永瀬は、工事期間中本業を差し置いて毎日工事現場に赴き、これにかかりきりになって熱心に下請業者の指揮、監督に努めたので、永瀬の誠実な仕事振りや工事の出来具合は被告人岡田の高い評価を受けていた。このように兼六加工が請負い施行した一五回にわたる工事の代金は、前記一覧表記載のとおり(同記載の代金額は兼六加工の利益を含んでおらず、同社が下請業者に支払った金額を中心としたいわば実費に相当するものである)、総額一億一三〇〇万円に達するものであったが、これらの工事の代金額は施行の都度五十嵐を介し概算額が被告人岡田に伝えられていたにもかかわらず、同被告人は4番目の工事が終った時期になっても、工事代金を全く支払おうとせず、このため資金繰りに困った永瀬が五十嵐に抗議し支払いの催促方を強く求めた結果、その旨同被告人に伝えられ、ようやく五〇万円の支払いがなされるに至った。被告人岡田はその後も工事代金を全額支払わず、6番目の工事で四〇万円、7番目の工事で一五〇万円、8番目の工事で二五〇万円、9番目の工事で一五〇万円、11番目の工事で二〇万円、12番目の工事で五〇万円、15番目の工事で二〇〇〇万円の総合計二七一〇万円を支払ったに過ぎず、本件リース契約が開始される直前の昭和五四年末の時点においては工事代金の未払額は二七〇〇万円を超えていた。

他方、本店庶務部長をしていた五十嵐は、右の各工事において、被告人岡田の意向に従い、工事の計画を永瀬に伝え、また永瀬側の事情や工事代金額を被告人岡田に伝えるなど、両者の間に入り、工事が円滑に進捗するよう努めていたが、前記のとおり、4番目の工事が終ったころの昭和四九年一一月下旬ころ、永瀬から工事代金の支払いを懇請されたため、被告人岡田にその旨を伝え婉曲に支払い方を督促したところ、同被告人から「こういう工事というものは全額支払う必要はないんだ。一部支払えばいいんだ。税務署でも一部払えば通るんだ」と言われ、さらに「お前、庶務部長ならば頭を使って永瀬の面倒をみなくちゃだめじゃないか」と注意された。五十嵐は、被告人岡田から右のように言われ、同被告人が工事代金の全額を支払う意思のないことを知るとともに、その埋め合せのため兼六加工にもっと多くの仕事を発注しなければならないと考え、直ちに宣伝部の課長や庶務部の営繕担当者に対し、兼六加工には大事な仕事をしてもらっているので優先的に仕事を回してやってもらいたいと指示し、その後現実に兼六加工が三越から受注する仕事は増えていたが、7番目の書斎一式の工事が終った直後の昭和五一年七月下旬ころ、永瀬から「今度の工事では四〇〇万円位かかっている。下職に払う金もいる。支払いを受けなければ会社がつぶれてしまうので社長にお願いしてもらいたい」と訴えられ、やむなく被告人岡田に永瀬側の事情を伝え工事代金の支払い方を願い出たところ、同被告人からは「お前は庶務部長としてどういう面倒をみてるんだ。お前は庶務部長としての資格がないんじゃないか」と激しく叱責される始末であった。

被告人岡田の工事代金支払いに対する態度は以上のとおりであるが、弁護人の主張にかんがみ、これらの工事に関し、兼六加工がビルサービスに下請させた工事の支払い状況を明らかにしておくと次のとおりである。すなわち、兼六加工は、12番目の工事の一部(工事代金額三〇七万円)、13番目の工事(同九〇万円)、14番目の工事(同三一〇万円)、15番目の工事(同六九〇〇万円)につきビルサービス下請として用いたが、15番目の工事については、兼六加工は当初ビルサービスの取締役渡辺進から紹介された水沢工務店を下請に使おうとしたところ、同工務店が兼六加工の信用力を懸念し、直接下請となることを渋ったため、ビルサービスを中間に入れ、兼六加工を元請、ビルサービスを下請、水沢工務店を孫請として工事を施行したものである。そして兼六加工は、ビルサービスに対し、12番目の工事の代金は支払ったが、13番目、14番目の各工事の代金を支払わず、ビルサービスとしてはこれらを別の工事を利用して経理上の処理をした。15番目の新築工事(大改修工事)については、兼六加工の右工事代金支払いに不安を抱いていた前記ビルサービスの渡辺進が、ちょうどそのころ同社において施行していた三越習志野台エレガンス改築工事、同西河岸別館スタジオホリゾント工事、同本店補修工事に兼六加工が五十嵐の指示で形式上元請として加わっていたことを利用し、右エレガンス改装工事の代金に自宅改修工事の代金を上乗せして兼六加工へ請求し、三越の負担において自宅改修工事の代金の回収を図ろうと考え、エレガンス改装工事につき一九七八万一七五〇円ホリゾント工事につき九〇〇万円、本店補修工事につき七〇一万九〇〇〇円、その他で二三六万円及び九五〇万円をそれぞれ上乗せして兼六加工へ請求し、合計四七六六万七五〇円を取得した(なお、兼六加工はエレガンス改装工事等の元請として一〇パーセントの利益を得たが、この分はビルサービスの右上乗せ分の請求に応じて同社に支払っているので、兼六加工の利得はない)。したがって、ビルサービスとしては、自宅改修工事の請負代金六九〇〇万円から右の額を差し引いた二一〇〇万円余が兼六加工からの未受領分となり、他方孫請の水沢工務店へは工事代金の全額(六〇〇〇万一八五〇円)を支払っているので、自社の利益九〇〇万円を除けば一二〇〇万円余が実質負担となっており、この分も前同様の方法で経理上の処理をしている。また兼六加工は、昭和五七年三月ころ被告人岡田から自宅改修工事の代金二〇〇〇万円を受領しているが、他方同工事の追加ないし付帯工事に使用した下請四社に対し、合計六〇〇万円弱を支払っている。

(二)  本件リース契約について

1 三越とビルサービスとのリース契約

五十嵐は、昭和五一年ころ流通経済視察団の一員として渡米した際、米国の百貨店で使用されていたアクリル製の陳列ケースの優秀さを知り、三越においても従来のステンレス製等のケースに替えて右のアクリル製ケースを取入れることとし、当初これを兼六加工に製作、納入させようと考えたが、同社が被告人岡田の自宅の工事を請負っていることが社内外に知られていたため、誤解を招かないよう数社に見本を製作、提出させ、被告人岡田に採否の決裁を求めたところ、兼六加工製作のケースが品質的に優れ、かつ価格も低廉であったことから結局同社のケースが採用されることになり、昭和五二年以降三越各店舗において同ケースが導入され、被告人岡田の積極的な指示もあって、兼六加工のアクリルケースは三越の陳列ケースの主力を占めるようになり、同ケースは三越内部で通称「兼六ケース」と呼ばれていた。

ところで、かねてリース産業に関心を持っていた被告人岡田は、昭和五四年夏ころビルサービスの取締役倉持隆から、リース業の将来性とこの取入方を求める意見書を受け取ったことを契機に、庶務部長五十嵐及び同部什器担当課長竹内正勝らに対し、リース会社の設立を含め三越の什器、備品類をリースで利用する方法を研究するよう命じ、右竹内及びビルサービスの常務取締役岡安浩らを中心に、リースの実務やリースに適する対象物件の検討がなされたが、経済的メリットに乏しくリースの導入には否定的になっていたところ、同年一〇月に開催された三越の経営企画会議において、右岡安がビルサービスの営業報告ををした際リース業務に全く触れなかったことに対し、被告人岡田から「リースの件はどうなっているんだ。何をもたもたしている。早くしないとだめじゃないか」と叱責されたことから、さらに岡安らにより検討が加えられた結果、兼六ケースがリースの物件として選ばれることとなり、岡田には五十嵐を通じて報告されその了承を得た。

五十嵐、岡安らが考えたリースの形態は、従来三越が買い取っていた兼六ケースをビルサービスが買い取り、これを三越にリースするというものであったが、その後永瀬も加わり、リースの実施に向けて実務的な協議が重ねられ、リース料金については、リース係数一・三八を用いて算出すればビルサービスとして採算がとれると判断され、兼六ケースの中で最も多く使用されている「三B型角型片面ケース」の場合、一台あたり月額二五〇〇円が採算価格と試算された。右のリース係数の決定にあたっては、通常のリース業者の場合一・三二から一・三四の係数が用いられるところを、本件の場合ビルサービスの企業規模や三越との関係を考慮し、これより高めの一・三八の係数を採用することを決めたものである。五十嵐は、こうしてリース料金が算出されるや、被告人岡田に報告し承諾を求めたところ、同被告人から「二五〇〇円は高過ぎる。一〇〇〇円以下でできる」と値下げを指示され、このため岡安に再検討を求めたが、その報告から値下げはとうてい不可能であることを知り、被告人岡田に事情を説明し、結局前記料金でリースを実施することの決裁を得た。

右の経緯を経て、ビルサービスでは昭和五四年一一月から兼六ケースのリースを開始し、三越各店の店長宛に本店次長兼庶務部長五十嵐秀名義で、リースによる兼六ケースの使用を勧める文書を配付するなどし、次に述べる兼六加工によるリースが開始されるまでの間、二〇〇台ないし三〇〇台の兼六ケースがリースに供された。

2 三越と兼六加工とのリース契約

ビルサービスがリースを始めて少し経った昭和五四年一二月上旬ころ、永瀬が五十嵐とともに被告人の自宅に伺候していた際、突然同被告人から「兼六さん、リースは君の所でやれよ」といわれ、驚いた五十嵐が同被告人にリースはビルサービスで既に始めている旨告げたにもかかわらず、被告人岡田は「ビルサービスなんてろくな仕事できやしない」といって再び永瀬に兼六加工でリースをするよう勧めた。唐突な話に当惑した永瀬は、その場では、「検討させて下さい」と答えたに止まったが、同月下旬ころ、いつものとおり五十嵐と一緒に被告人岡田の自宅に伺候した際、同被告人に対し、リースをするには大量の資金を必要とし兼六加工のような小企業では到底無理であること、もしリースを実行するとなるとビルサービスのような額ではできずもっと高くなる旨説明したところ、被告人岡田は、「高くたっていいじゃないか。かまやしないよ」と言い、さらに応接間を見渡しながら五十嵐に向かって、「兼六さんにはこれで大変世話になっているし、支払いでも迷惑をかけているからな、そういうのを含めて五十嵐君面倒みてやれ」と言い、次いで永瀬の方を見て、「永瀬さん、ひとつ新しいケースをどんどん作って本店に入れろよ。それで古くなったやつはどんどん支店に回せばいいんだよ」と述べ、永瀬がリースとレンタルの違いを説明し、そういったことは出来ない旨強調しても、これを無視し、「リースとレンタルをごっちゃにしてうまくやりゃいいじゃないか」と語気を荒らげるばかりであった。五十嵐は、被告人岡田の右の言動に接し、岡田が兼六加工にリースをさせたうえリース料金に自宅の工事代金を上乗せして支払わせることを自己に指示しているものと理解し、同被告人宅から帰る途中のタクシーの中で、永瀬にリースをするよう勧めるとともに、その機会に同人が「未払い分の工事代金をリース料金に入れて支払ってくれるとありがたいんだがな」と言ったことに対し、積極的に同意した。

このように被告人岡田から強い要請を受けた永瀬は、その後資金の借り入れについて銀行と接衝を重ね、その間リースの開始を促す同被告人から資金を三越で融通してもよいと言われたこともあったが、結局独自で銀行から借り入れる段取りをつけ、他方、リース料金についても検討した結果、主力機種の三B型ケースの場合、基礎となるケースの原価を従来の売価が一〇万九〇〇〇円であったのを材料費の値上りなどを考慮して一三万二〇〇〇円とし、リース係数も高めの一・五を用い、一台当たりの月額料金を三三〇〇円とすれば兼六加工として採算が取れると判断し、五十嵐にその旨伝え、リース担当の前記竹内課長にも説明した。そして、昭和五五年二月中旬ころ、三越庶務部応接室において、五十嵐と永瀬の間でリース料金を決めるにつき話し合いが持たれ、その際五十嵐は、永瀬から申し出のあった「社長が高くたっていいとは言うものの部長の立場もあるから二五〇〇円の倍を超すことはまずいんじゃないか」「工事代金というのは一〇〇〇円から一五〇〇円くらいをいただければありがたいんだが」という意見を取り入れ、さらにレンタル料金をも勘案し、兼六加工として採算の取れる前記三三〇〇円に工事代金分を上乗せし、これにもっともらしい端数をつけて四八一〇円という金額を案出し、永瀬に提示してその了解を得、これを竹内課長に伝えこの料金で兼六加工とリース契約を結ぶよう指示した。

五十嵐は、右のとおりリース料金が決まると、翌日一人で被告人岡田の自宅に赴き、同被告人に対し、「昨年来御指示いただいておりました兼六のリース料金は四八一〇円でやらせていただきたいと思います」と述べてその承諾を求めたところ、同被告人から「兼六はそれでいいのか」と聞かれ、これに対して五十嵐が「これは社長の言われているものはすべて含んでおります」と答えて、右料金中には工事代金分が上乗せされている旨伝えると、同被告人は「兼六はそれでいいんだな」と念を押すように言って、五十嵐が申し出た金額でリースを実施することを承諾した。また、被告人岡田は、同月末ころ、五十嵐と一緒に自宅に来た永瀬から「おかげさまでうちでもってリースをやらせていただく運びとなりました。ビルサービスよりも高くなりましてご迷惑をかけます」との挨拶を受けたのに対し、「ひとつうまくやってくれよ」と答えた。

右の経緯を経て、昭和五五年三月一日付で兼六加工と三越との間にリース契約に関する覚書が取り交わされ(他方ビルサービスのリース業務は中止された)、同日から逐次三B型ケースを始めとする各種陳列ケースが兼六加工から三越に対しリースされていったが、三B型以外のケースのリース料金についても、永瀬と五十嵐との合意に基づき、概ね三B型と同様の基準で算出された金額にそれぞれ千数百円の工事代金分が上乗せされていたものである。

なお、被告人岡田の検察官に対する供述調書によれば、ビルサービスから兼六加工へリースを切り替えさせ、自宅の工事代金分を上乗せしたリース料金を支払わせるようになった動機、経緯について、同被告人は、「五十嵐の報告によれば、ビルサービスはリース事業に積極的ではなく、事業がスムーズに行っていないということでした。私はそれならば、リースに出す陳列ケースを製造販売している兼六加工に直接三越の各支店にリースをさせたらいいと考えました。兼六加工は普段の仕事ぶりを見ても誠実な仕事をする会社でしたから、リース事業もうまくこなしてくれるだろうし、兼六加工にとってもリース料収入が増えそれだけ利益も増すことになるので、自宅の工事代金未払い分の穴埋めにも役立つと考えた訳です。そこで、私は昭和五四年一二月ころ五十嵐と永瀬が揃って私の自宅に立寄った機会に永瀬に対し、『陳列ケースのリースを直接兼六でやったらいいじゃないか』と話しました。すると永瀬は『私の所でリースをやる様になれば、リースに出す陳列ケースの製造代金を相当借入れなければならずその金利だけでも大変です。弱小資本の当社がリースをやることになればビルサービスよりリース料を高くしなければやって行けません』といって断って来たのです。私はこの言葉から永瀬がリース事業をやりたがっていないことを知りました。しかし、私としては、兼六加工の工事を大変気に入っており、今後も兼六加工に自宅の改装工事を頼むつもりでいましたし、前に話した様にこの当時ざっと二、〇〇〇万円位の工事代金の未払い分があり、永瀬に対しすまないと感じておりましたので、ビルサービスに代れるリース業者を選定するこの機会に何とかその埋め合わせをするとともに永瀬を喜ばせてやりたいと思いました。そして、そのためには通常のリース取引によってリース業者が得る利益よりも高い利益を兼六加工が得られる様リース料を上乗せしてうま味を持を持たせてやってもいいと考えたのです。これまでは、兼六加工に対し、三越との通常の取引によって儲けさせることにより工事代金の埋め合わせをして来たのですが、この時は工事代金の未払い分が二〇〇〇万円にものぼっており、何んとかこの際その埋め合わせをしてやろうと考え、通常の取引よりも少し高い利益が出る様本来のリース料に若干の上乗せをした高いリース料金を兼六加工に支払ってやり、兼六加工を喜ばせてやろうと考えてしまった訳です」(昭和五七年一一月一〇日付供述調書)と述べている。

3 リース料金の値上げ

こうして始まった兼六加工によるリースは、当初本店を対象に行われたが、同年五月ころ開催された経営企画会議において、被告人岡田が全国の支店長に対しリースによるケースの導入を促したこともあって、その後各支店においてもリースのケースを使用するようになり、それにともない三越から兼六加工へ支払われるリース代金も次第に増え、リース開始時月額二百数十万円程度であったのが、半年経過時(八月分)で四七八万円余、一年経過時(昭和五六年二月分)で七二〇万円余となっていた。

ところで、被告人岡田は、兼六加工によるリースが開始されたのち、昭和五六年五月ころ前記工事一覧表14番の裏門・勝手口門工事を、次いで同年八月ころから同15番の新築工事(大改修工事)を施行させているが、右の大改修工事は前年暮ころから計画し、永瀬に設計図を書かせるなどして着工を楽しみにしていたところ、永瀬は、同工事がかなり大規模で相当の費用がかかることが予想され、被告人岡田がどのくらい払ってくれるか不安であったうえ、リースの拡大にともない借入金が増え、財政的にも苦しい状態にあったため、五十嵐にこれらの事情を話し、早期の着工には消極的態度を取り続けていた。五十嵐は昭和五六年二月末ころ被告人岡田から、永瀬がどうして積極的でないのか理由を聞かれ、今度の工事は相当大きく七、八千万円かかり金策に苦しいようですと説明したところ、一日か二日あと、同被告人から「兼六は大変らしいじゃないか。リース料金を少し上げてやったらいいじゃないか。一割ぐらい上げてやったらどうか」と言われた。そこで五十嵐は、被告人岡田が自宅の改装工事で相当金がかかるし、兼六も金に困っているので何とか救済しなければと考えていると思い、直ちに竹内課長にリース料金を五〇〇円値上げするよう指示し、永瀬にもその旨伝えられたが、その必要はないという同人の意見を押し切り、結局同年三月一日以降の新規のリース分から五〇〇円値上げされることになり、三B型ケースの場合従来四八一〇円であったのが五三一〇円となった。そしてそのころ、五十嵐は、被告人岡田の自宅に赴いた際、同被告人に対し「この間の御指示の兼六のリース料金については五〇〇円上げさせていただきました」と報告した。

なお、被告人岡田は、右のリース料金値上げについて、検察官に対する昭和五七年一一月一〇日付供述調書において、「その工事はざっと見積っても三、四千万円になることが予測されたのです。丁度そんな工事が具体化して来た昭和五六年三月ころ、五十嵐から兼六加工が資金繰りに苦しんでいるという話を聞きましたので、私は兼六加工がこれからこの大改装工事をするについては、資材の購入資金も必要であろうし、労賃の支払いもかさむであろうから、必要ならばもう少しリース料金を上げてやってもよかろうと考えました。私は五十嵐が自宅に来た機会に『兼六が資本的に苦しい様なら少しリース料を上げてやってもいいじゃないか』と指示してやりました。すると前の時と同様五十嵐が永瀬と相談してリース料を上げて来たのです。」と述べている。

以上の事実が認められる。被告人岡田は前記のとおり当公判廷において、リース価格の上乗せには全く関与していない旨供述するが、右供述は五十嵐及び永瀬の各証言に照らし信用できない。そして右の各事実によれば、被告人岡田は、兼六加工に請負わせた自宅関係の各種工事の未払い代金の支払いを三越の負担において免れようと考え、三越がビルサービスと締結していたリース契約を兼六加工に切り替えさせたうえ、兼六加工が採算のとれる料金として提示する金額に工事代金分を上乗せした金額をリース料金と定め、これを三越から兼六加工に支払わせたもので、かかる行為が三越の代表取締役社長としての任務に違背することは明らかであり、その結果三越に対して右上乗せ分に相当する額の損害(総額八七四二万一九〇〇円)を加えたことが認められるから、被告人岡田の所為は商法四八六条一項(昭和五六年法律第七四号による改正前のもの)に該当するというべきである。これに対し、弁護人は、右事実及び証拠の信用性を争い、特別背任罪の成立しない理由を種々主張するので、若干説明を加える。

(イ) まず弁護人は、被告人岡田宅の改修工事はかなり杜撰で不完全であり、工事費は永瀬がいうよりずっと低かったと主張する。

しかし、前記認定のとおり、被告人岡田に伝えられた本件各工事の代金額は、兼六加工の利益を含めない実費に相当する額(なお、弁護人は、12番の工事代金について、永瀬はビルサービスに支払った工事代金が三〇七万円であるにもかかわらず、工事代金は三四八万九二五〇円であるとしており、兼六加工が岡田宅の工事で相手の利益を上げていた旨主張するが、右差額は、経師、じゅうたんなどの関係で兼六加工がビルサービスとは別の下請に直接支払いをした金額に相当することが認められる。)であり、しかもその額の大半は下請ないし孫請に現実に支払われ、かつ工事の出来具合には同被告人も満足していたことが認められるから、たとえ工事の施行につき部分的に不十分な点があったとしても、本件の判断には何ら影響を及ぼさない事柄である。

(ロ) 次に弁護人は、被告人岡田は工事費について兼六加工に損をさせない程度の支払いをしていたし、不足分があったとしても、兼六加工は三越から架空工事などで支払いを受けていたと主張する。

しかし、本件工事代金として被告人岡田が兼六加工へ支払った額は、前記認定のとおり費用合計一億一三〇〇万円余に対し合計二七一〇万円、兼六加工によるリースが始まる直前の昭和五四年末の時点で費用累計三四六〇万円余に対し累計七一〇万円であって、この程度の支払いでもって兼六加工に損をさせない程度の支払いをしたといえないことは明らかである。所論は、兼六加工が工事を施行させた下請業者に対し三越の工事をしたように請求書を書かせた点を捉えて、兼六加工は三越から工事代金の支払いを受けていたともいうが、そのような推論自体合理性がないし、永瀬の証言によれば、下請業者に内容を偽った請求書を出させたのは、五十嵐から岡田宅の工事をしたことを税務署を含め外部の者に知られないようにしろと強くいわれていたため、取引の大半を占めていた三越に関する工事をしたように仮装したものであり、これらの請求書を利用して三越から工事代金の支払いを受けた事実はなかったことが認められる。

(ハ) また弁護人は、リース料金の水増しは岡田邸の工事代金とは全く関係がなかったと主張し、その理由として、リース開始後に行なわれた最初の工事である14番の工事はリース開始後一年以上経ってのものであり、しかも兼六加工は損失を被っておらず、とりわけ15番の大改修工事では、三越の習志野台エレガンスや西河岸別館工事費の水増しや架空工事などで三越から支払いを受けた金員で十分まかなわれており、そのうえ被告人岡田から二〇〇〇万円受領しているという。

そして、ビルサービスは、13番ないし15番の工事代金について、兼六加工から支払いを受けずに社内処理をしたり、習志野台エレガンス等の工事費の水増し等によって支払いを受けるなどしているが、リース料の水増しで岡田宅の工事代金に充当するというのであれば、兼六加工がリース料の水増し分で工事代金を支払っているはずであり、被告人岡田も、15番の工事代金の一部として二〇〇〇万円という大金を永瀬に支払うはずはないという。

しかし、被告人岡田が兼六加工にリースを行なわせてリース料金を水増しし、さらに値上げをするに至った動機、経緯は前記認定のとおりであり、いずれも岡田邸の工事代金が直接の原因となっているのである。もっとも15番の工事に関しては、兼六加工は、付帯工事等をした下請業者に対しては、その全額合計五九九万円余を支払っているが、ビルサービスには全く支払いをしておらず、同社の請負工事代金六九〇〇万円余のうち四七六六万円余は習志野台エレガンス等の工事費の水増し等により三越の負担において支払われており、他方、兼六加工は被告人岡田から工事代金として二〇〇〇万円を受領するとともに、リース代金の上乗せ分として右自宅改修工事が完成するころまでに累計五〇〇〇万円余を取得していることが認められるけれども、習志野台エレガンス等の工事はリースが開始されて相当期間経過後偶々自宅改修工事と同時期に行なわれたに過ぎず、しかも右の工事の水増しによる支払いは前記認定の経緯のとおり五十嵐、ビルサービスの渡辺、永瀬の三名の関与でなされたもので、被告人岡田はこの事実を知らなかったことが認められる(同被告人の検察官に対する昭和五七年一一月一一日付供述調書)のであり、また、ビルサービスが13番、14番の工事代金及び15番の工事代金の一部について同社の負担で社内処理をすることについては、事前に永瀬に知らせることなく、ビルサービスの渡辺の判断で行なわれたものであって、兼六加工がこうした被告人岡田の関知しない後発的・偶発的事情によって結果として利益を受けたとしても、本件犯行の成否に影響を及ぼすものではないし、また弁護人のいうようにリース料金の水増しと自宅改修工事の結びつきを疑わせる事情とみることもできない。さらに、被告人岡田が二〇〇〇万円を工事代金の一部として支払ったことについても、15番の工事代金額が多額であることや、リース料金の水増しをするに至った動機、経緯などからみて、不自然ということもできない。

(ニ) また弁護人は、被告人岡田の自宅改修工事や本件リースの問題に関与した五十嵐及び永瀬の各証言の信憑性並びに被告人岡田の捜査段階の供述(自白)の信憑性を論難する。

しかし、右五十嵐及び永瀬は、長い経過にわたる工事の内容、工事の施工にあたった兼六加工(永瀬)側の対応、リースが結ばれるに至った事情などについて、詳細、具体的に相互に矛盾することなく証言しており、とりわけ両名が被告人岡田に応接する時の状況に関する証言部分は迫真的で、強大な権勢を有していた社長とその意向に逆うまいとする庶務部長及び出入業者の雰囲気をよく伝えており、各証言の信用性は疑うべくもないと思料される。弁護人が証言の信用性を批難して縷々述べるところは、信用性の判断に関連性の薄い証言の瑣末部分に関することか、あるいは根拠に乏しい独自の考えに基づくものであって、採るを得ない(なお、弁護人は永瀬の証言に関し、岡田から入金された工事代金のうち表にしたという部分が兼六加工の帳簿に記帳されていないと指摘するが、甲二442の各帳簿を検討すると、いずれも記帳されていることが認められる)。

被告人岡田の供述調書について、弁護人は、同被告人が逮捕、勾留という生活環境の急変した中で長時間にわたる取調べを受け、肉体的、精神的に疲労困憊し、捨てばちな気持になって調書に署名、押印したと主張し、同被告人もこれに添う供述をしているが、被告人岡田の供述調書の内容は、永瀬や五十嵐の証言内容とよく符合し、記憶のないところはないとして供述しており、取調べにあたった検事との対応状況について述べる場面は、供述調書の任意性、信用性を肯定させるに十分である。

以上のとおり、弁護人の主張はいずれも理由がない。

第七章所得税法違反事件の争点に対する判断

被告人竹久の弁護人は、同被告人が海外で取得した種々の収入について、その帰属、計上時期、ほ脱の犯意を争い、また必要経費、雑損控除の存在等を主張するので、以下に各論点ごとに検討を加えることとする。

一  ワールドファッション宛デザイン料名目の収入

(一)  弁護人は、被告人竹久がオーキッドファッションからワールドファッションの名義を利用して取得したデザイン料名目の収入は、すべて受領名義人であるワールドファッションに帰属すると主張する。すなわち、ワールドファッションは、三越のP・B商品である婦人服「カトリーヌ」を生産するために香港で稼動していたオーキッドファッションのデザイン業務を行う目的で設立された会社で、オーキッドファッションの工場長である工藤武敏がワールドファッションの責任者を兼ね、両社の連絡業務やファッション情報の収集を行い、ワールドファッションは同人に給料を支払い、同人や被告人竹久のデザイン業務遂行のための出張旅費を負担し、香港政庁に税金も納め、日本において八戸縫製企画株式会社が設立されデザイン業務を担当するようになってからは、デザイン料の一部を同社に移すなどしていたのであって、検察官主張のようにワールドファッションは単なるペーパーカンパニーではなく、企業体として独立した権利能力を有し、取引行為、法律行為を行っていたのであるから、本件デザイン料収入は被告人竹久ではなくワールドファッションに帰属するというのである。

(二)  そこで検討すると、被告人竹久の昭和五七年一一月三日付検察官に対する供述調書(乙32)、証人内田春樹、同藤村明苗、同粕谷誠一、同岩関務、同志村好英、同原敏治の各証言、検察事務官作成の捜査報告書(甲一208)、登記簿謄本(甲一302)、「W・F・D・C」と題するファイル一綴(符109・甲二4)、元帳四冊(符110、113・甲二5、8)、バンクステートメントのファイル二綴(符111、112・甲二6、7)、損益勘定元帳二冊(符36、38・甲二18、20)、総勘定元帳一冊(符37・甲二19)等によれば、オーキッドファッション及びワールドファッションの設立経緯、デザイン料支払いの事情等について次のとおり認めることができる。

1 三越では、被告人岡田の発案主導のもとに、商品の差別化政策の一環として、オリジナル婦人既製服の生産を香港において行うことになり、経理本部次長内田春樹を実務面の担当者としてその手続きを進め、昭和五四年六月ころ、香港三越において香港在来の休眠会社ブルーミングサクセス社を買収し、社名を「香蘭時装有限公司」(オーキッドファッション)と変更したうえ、現地の縫製会社テクスレイの工場部門を買収し、同工場において「カトリーヌ」というブランド名を付した婦人服を製造し、これを香港三越を経由して直輸入することとなった。

他方、被告人竹久は、ファッションデザインの経験はほとんどなかったものの、アクセサリーデザイナーであったことから、三越がオリジナル婦人服の製造という企画を実現させる機会に、ファッションデザイナーあるいはスタイリストとしての仕事をしてみたいとの気持を抱くようになり、オーキッドファッションの操業準備の段階から再三香港に赴き、工場の内装、従業員の採用などにつき前記内田やオーキッドファッションの社長に就任していた仕入本部長代理藤村明苗に種々指示し、さらに自己と取引関係のあった婦人服製造販売業者の工藤武敏を被告人岡田に推挙してオーキッドファッションのデザイナー兼工場長に就任させるなどしたほか、香港において開催されたオーキッドファッションの役員会に役員ではないのに被告人岡田とともにしばしば出席して積極的に発言するなどオーキッドファッションの運営に深く関与していた。

2 オーキッドファッションでは、前記工藤のほか、三越から出向した粕谷誠一が経理関係の担当者として、同じく竹並紘司が生産管理関係の担当者として、それぞれ香港に常駐し、昭和五四年七月から操業が開始されたが、被告人竹久は同年五月ころ香港において内田に対し、オーキッドファッションのデザインを担当するには経費がかかるのでオーキッドファッションの売上高の七パーセントを支払ってくれるよう求め、同年七月ころ藤村にも同様の要求をした結果、デザイン料名目で右の七パーセントが支払われることとなった。このように被告人竹久は、内田らに働きかけてオーキッドファッションから収入を得る途を確保する一方、工藤に対してオーキッドファッションのデザイン企画の業務を香港で会社を作り行う考えを示し、これを受けた工藤は香港においてデザイナーを募集しようとしたものの人を得られず、結局被告人竹久の構想は何ら具体化せず経過していたところ、オーキッドファッモョンが操業、出荷を始め、これにともないデザイン料が入ることになったため、香港在住の陳谷峰に依頼し、同年八月三一日付で、工藤を実務経営者、陳を共同経営者とするいわゆるパートナーシップの形態をとった「世界時装設計中心」(ワールドファッションデザインセンター)を設立し、オーキッドファッションからのデザイン料を右ワールドファッション宛に支払わせることにし、この支払いは同年九月一二日を初回に以降昭和五七年八月まで継続して行われた。

こうした経過を辿り、オーキッドファッションにおいて「カトリーヌ」の生産が行われていったが、工場長の工藤はデザイナーとしての役割を担っていながら、自らデザイン画を描くことができず、被告人竹久も同様であったため、「カトリーヌ」のデザイン企画は実質的には東京における三越の専属デザイナーや婦人服関係のスタッフにより行われていたといってよい状況にあったところ、被告人竹久は、オーキッドファッションのデザイン企画を充実させる目的で、昭和五五年五月一日日本において、工藤を代表取締役とする資本金三〇〇万円の「八戸縫製企画株式会社」を設立し、三越の別館(大手町デザインルーム)を事務所に、デザイナー数名を三越のデザイナーの指導のもとに養成して「カトリーヌ」のデザイン企画を行わせるようにし、その経費を賄うため、オーキッドファッションがワールドファッションに支払っていたデザイン料の一部を八戸縫製企画に分配することとし、最終的にはその割合は八戸縫製企画が五パーセント、ワールドファッションが二パーセントとなっていた。

3 ところで、右の経緯で設立されたワールドファッションは、設立費用、資本金はすべて被告人竹久の負担において支払われており、また登記上営業目的として「ファッションデザイン及び紳士、婦人衣料の貿易」を掲げているものの、事務所の所在地は前記陳の自宅であり、設立以来デザイナー、パタンナー、事務員等の従業者を雇ったこともなければ、事務所等もなく、したがって、一般事務費も文具代、用紙代程度に過ぎず、結局ワールドファッションに関係した人物は、次に述べるとおり被告人を除けば、ワールドファッションに支払われたデザイン料を管理していたオーキッドファッションの前記粕谷とその後任の岩関務及び小切手のサイン権者に指定された工藤ぐらいであった(陳はワールドファッション設立の手続をとったこととパートナーとして名を連らねただけで、ワールドファッションの金員の保管等には関与していない)。ワールドファッションにおけるデザイン料の受領、保管の任には前記内田の指示を通してオーキッドファッションの粕谷があたり、同人はオーキッドファッションの製品の出荷額をもとに七パーセントのデザイン料を算出し、その金額(八戸縫製企画に一部を支払うようになってからは配分額)の小切手をワールドファッション宛振出し、これを自ら(時には他の社員が)上海商業銀行チムサーチョイ支店に設けたワールドファッション名義の当座預金口座に入金し、この手続に対応して、ワールドファッションからオーキッドファッション宛のデザイン料に関する請求書(インボイス)及び小切手の受領書を作成し、工藤のサインを得てオーキッドファッションの立場でこれを受領していた。さらに同人は、ワールドファッションに入金された金額がある程度溜まるとこれを同支店のワールドファッションの定期預金に移し変え、また総勘定元帳を整えて収支の状況を明確にし、被告人竹久が香港に来た時にはこれらの書類をみせて預金の推移、出納の状況を説明し、確認了承を得ていた。粕谷は昭和五六年五月三越営業統括室に転出し、ワールドファッションとの関係も切れたが、後任の岩関務がそのまま引継ぎ、粕谷と同様ワールドファッションの右事務に従事していたものである。

ワールドファッションの収入としては、オーキッドファッションからのデザイン料及びこれを原資とする定期預金の利息のみであり、他方支出としては、工藤への月額四〇〇〇ないし六〇〇〇香港ドルの給料、ボーナス及び同人の東京などへの旅費、陳へのボーナス名目の謝礼、被告人竹久及び高橋カメラマンの香港への旅費、滞在費、税金等が主たるものであるが、被告人竹久が個人的に購入したブラウス等の支払いや麻雀大会の景品代の支払いもみられる。なお、被告人竹久は、オーキッドファッションの昭和五五年度の決算に際し、役員会に出席したあと、顧問料ということで同社から陳に対する顧問料に上乗せしたかたちで仮装して一万三〇〇〇香港ドルを受取り、これで純金地金を購入している。

以上の事実に基づいて考えると、被告人竹久は工藤と共に香港においてオーキッドファッションのデザイン企画を担当する業務を会社を設立して行おうという考えは有していたかもしれないが、自らはデザイナーとしての経験に乏しく、香港駐在の工藤はオーキッドファッションの工場長として任える身であるうえ、デザイン画も満足に描けないほどの者であり、現地でデザイナー等業務に必要な人材は一人も得られなかったというのであるから、香港において被告人竹久が会社を興し独立してデザイン企画を行える客観的な状況には全くなかったといってよい。オーキッドファッションにおける生産が軌道に乗り出した昭和五五年五月被告人竹久が日本において八戸縫製企画を設立し、人員をそろえて「カトリーヌ」のデザイン企画を現実に行うようにしたのも、香港においては被告人竹久の構想を実現するのが困難であると考えたからにほかならない。また、八戸縫製企画の設立後はワールドファッションにおいてデザイン企画を行う必要性は失われたというべきであるが、右設立までの間においても、オーキッドファッションのデザイン等は実質的には東京の三越のスタッフによって行われていたというのが実情であり、被告人竹久や工藤がこの分野で有用な働きをしたとも認められず、デザイン企画における被告人竹久らの行動を通してみても、ワールドファッションの存在価値をうかがわせる事情は見当らない。かえって、八戸縫製企画設立以降も二パーセントとはいえデザイン料が引き続きワールドファッション宛支払われていたということは、もともとワールドファッション宛の支払いがデザイン業務と関係のないことを示すものであろう。この点はワールドファッションの実態面をみると一層明白である。すなわち、前記認定のとおり、ワールドファッションは設立以来事業所も従業者もなく、備わっていたものといえば、紙袋ないし皮バッグに収まる程度の総勘定元帳、預金関係の書類、その他の書類であり、その事務内容もオーキッドファッションの社員の粕谷あるいは岩関が本来の業務のかたわら若干の労力を費して行うデザイン料の受領、保管等の前記事務のほか、サイン権者の工藤が必要な都度小切手や書類にサインする程度のことに過ぎない。従って、ワールドファッションの経費の面においても、一般事務費にあたるものは微々たるもので、しかもオーキッドファッションのためのデザイン企画に直接必要と思われるような費用はなく、かえって被告人竹久の個人的用途のための支出がみられるところである。

以上のとおり、ワールドファッションはオーキッドファッションのデザイン企画はもとより何らの事業活動も行っておらず、被告人竹久がオーキッドファッションからデザイン料名目の収入を得るための手段として設立され利用されていたことは明らかである。被告人竹久は、昭和五七年一一月三日付検察官に対する供述調書において、ワールドファッションがいわゆるペーパーカンパニーであってデザイン料を取得するための受皿として作ったこと、この収入を被告人竹久の裏金としてプールし所得税の申告において除外したことを自白しており、右供述は香港におけるワールドファッションをめぐる当時の客観的諸状況にもよく合致し、十分信用できると考えられ、これに対し、弁護人の主張に添う被告人の当公判廷における供述は信用できない。したがって、本件デザイン料名目の収入は被告人竹久に帰属するものと認められ、これがワールドファッションに帰属するという弁護人の主張は採用できない。

なお、本件デザイン料名目の収入が被告人竹久に帰属すると認められる結果、これを原資とするワールドファッション名義の定期預金の利息収入も被告人竹久に帰属することになる。

取得年月日

サプライヤー名

コミッション額(香港ドル)

邦貨換算額(円)

1

56・9・17

ワイダーファッション

五、四一三・二〇

二〇三、三七三

2

56・11・5

ウィンフィルド・ファッション

二九、八〇三・七〇

一、一七〇、三九一

3

56・11・6

イージー・ガーメント

二一、四五七・七〇

八五九、三八〇

合計

五六、六七四・六〇

二、二三三、一四四

二  香港コミッション

A  ライエンサン宛小切手三通によるコミッションの受領について

(一) 弁護人は、被告人竹久がライエンサン宛横線小切手で取得したとされる次のコミッション三口は、コミッションの受領代理人陳谷峰が小切手を受取る毎に記帳していた金銭出納帳にその記載がなく、かつライエンサン名義の預金口座にも入金された形跡がないので、右三口のコミッションの授受はなかったと考えるべきであり、これを被告人竹久の昭和五六年分の所得に計上すべきではないと主張する。

(二) よって検討すると、いわゆる香港コミッションの性格、支払い方法等については前記第一章第一節二(四)②及び第四章第一節において判示しているところであるが、それらの関係各証拠によれば、被告人竹久の香港における右コミッションの受領、管理、運用の概略について次のとおり認めることができる。

被告人竹久が取得する買付価額の二パーセントないし五パーセントのコミッションには、香港三越から支払われるものと、サプライヤーから支払われるものがあること、またその中には陳谷峰と共同で受取るものと、被告人竹久が単独で受取るものがあることは既に認定したとおりである。そして、このコミッションの支払いは小切手で行われ、唯一の例外は、被告人竹久単独取得分のはじまりとみられる昭和五三年三月から翌五四年二月までの間に香港三越の開発先であるサクセスエンタープライズ等からダイヤモンド等を買付けた際のコミッションで、後述するライエンサン名義の預金口座が未だ設けられていない時期のことであり、この時には香港三越の副支配人関根良夫がコミッションをプールしていた右サクセスエンタープライズから現金で受取り、昭和五三年夏ころ一万四一〇〇・二一米ドル、昭和五四年一月一七日九九一二・六〇米ドル、同年三、四月ころ三六六六・六三米ドルを被告人竹久に直接渡している(なお、後二者が昭和五四年分の雑所得中コミッション現金分として構成されているものである)。

被告人竹久は、受領したコミッションを香港において銀行預金として蓄積し、コミッション受け入れの手段として以下に説明する香港在住の他人あるいは法人名義の預金口座を利用していた。

(イ) 万達洋行(ベンダーカンパニー)

昭和五〇年一〇月二一日設立された陳谷峰経営にかかる貿易会社で、初期のころのコミッションは共同取得であったため、右会社宛の小切手で受領していたが、パゴダ設立以後はあまり利用されておらず、昭和五五年に二回、昭和五六年に一回共同取得した分から被告人竹久の取得分をライエンサン宛に入金している(関根証言資料⑤No.3参照)。

(ロ) 宝達実業公司(パゴダインダストリアルカンパニー)

ベンダー固有の収支と右コミッション収入を区別するため、共同コミッションの独立した受皿として、昭和五二年八月ころ被告人竹久と陳とが相談のうえ設立した会社で、ベンダーの場合と同様陳がコミッションを集金し、上海商業銀行銅鑼湾支店に開設した右パゴダ名義の当座預金口座に入金し、ライエンサンの口座ができるまでは、被告人竹久の取得分を林錦雪名義の普通預金口座に入金し、ある程度溜まると右林名義で定期預金として保管していた。

(ハ) 黎燕珊(ライエンサン)

被告人竹久が単独で取得するコミッションが増加し始めたのを契機に、この受入れのため陳に依頼し、昭和五四年七月ころベンダーの社員の妻ライエンサンの名義を用いて普通預金口座を上海商業銀行銅鑼湾支店に開設し、以後被告人単独のコミッションはライエンサン宛の小切手で支払われた。この単独コミッションは香港三越の社員がサプライヤーから集金して関根を通じて陳に届けられ、陳はこれをライエンサンの口座に入金したうえ適宜陳名義で定期預金にしたり税金その他の支払いにあてるなどして管理していた。陳との共同コミッションは次第に少なくなっていっているが、この分は従前どおり陳において集金してパゴダの口座に入金し、そのうちの被告人竹久の取得分をライエンサンの口座に入金している(関根証言資料⑤No.3参照)。

(ニ) 美興公司(メイヒンカンパニー)

コミッションが次第に増大していくのに対処し、法人化してこれを管理するため、陳、工藤らを共同経営者として昭和五六年九月設立した会社で、以後ライエンサンに代えて右会社宛の小切手でコミッションを受取ることになったが、コミッションの受領管理にはオリエント交易の社員大原明を香港に滞在させ、あるいは同社員樫村武を派遣して行わせていた。大原らは香港三越の社員が集金してきたサプライヤーの小切手及び香港三越の小切手を主として香港三越の諏訪部勇課長を通じて受取り、これを永隆銀行銅鑼湾支店のメイヒン名義の当座預金口座に入金し、まとまると陳に依頼し同人らの名義で定期預金として保管してもらっていた。

以上の事実を前提に弁護人主張の小切手三通の授受について考察する。

1 ワイダーファッションの小切手について

関根良夫の証言等によれば、メイヒンが設立されてから、香港三越の担当社員を通じ、各サプライヤーに対し、従来ライエンサン宛振出していた被告人竹久のコミッション分の小切手を以後メイヒン宛にするよう依頼していたが、連絡の不徹底等もあって、サプライヤーの中には依然ライエンサン宛の小切手を振出すところが時々あり、これらの小切手もメイヒン宛の小切手と同じように大原あるいは樫村に引き渡され、この分についてはさらに同人らからライエンサンの口座を管理していた前記陳に届けられていたことが認められる。そして、本件ワイダーファッションの小切手や次のウインフィールドファッション、イージーガーメントの各小切手は、このようにメイヒン設立後の一時期メイヒン宛の小切手にライエンサン宛の小切手が少数ながら混じっていた時のものである。

ところで、関根良夫の証言等によって明らかなように、ライエンサンの預金口座を管理し、同人宛の小切手を受け入れていた陳は、金銭出納帳を備えて収支を明確にし、小切手を受取る時には併せてその明細を示す書類の交付を受けていたところ、同人が保管していた「コミッション関係書類ファイル」(符99・甲二12)に綴られた書類を検討すると、ライエンサン宛小切手の写しやコミッションの明細を記載したと思われる書類がそれぞれ独立して相当数あるほか、ライエンサン宛の小切手と支払い明細を示す書面が一体となって一枚の用紙にコピー(複写)されたものが一一枚存し(メイヒン宛のものも一〇数枚存する)、さらにその書類群の中に、一九八一年九月一七日付ワイダーファッション振出しのライエンサン宛一一、一七三香港ドルの横線小切手とライエンサン宛五四一三・二〇香港ドルのコミッション支払いを示すクレジットノート(支払明細書)が一緒に一枚の用紙にコピーされた書類(関根証言資料⑫の九枚目参照)が存在している。この書類では小切手金額がクレジットノートのコミッション額を大幅に上回っているが、同群の他の書類において両者の数額がすべて一致していることを考えると、右書類のコミッション額は小切手金額の内容を示しているものと解される。そうすると、同書類の一万一一七三香港ドルの小切手は、クレジットノート記載の五四一三・二〇香港ドルのコミッションのほかに、コミッション関係書類のファイルになく支払明細の明らかでない他の何らかのコミッションとを併せて支払うために振出されたものと認めるのが相当である(なお、右のクレジットノートに表れているライエンサン宛のコミッションに対応する香港三越のコミッション額一万三五三三香港ドルの記載及びシップメントの日付一九八一年七月三一日の記載を手掛りに、符97・甲二10香港三越のコミッション台張―いわゆるパーチェスレポート―の一九八一/一九八二の台帳を検討すると、右のコミッションのもとになった契約は、同台帳番号一九〇のワイダーファッションの分であると考えられ、香港三越はこのコミッションを受領していることが認められ、さらに右一九〇の契約が記載されている甲二12在中のコミッション管理表一九枚目の該当部分にはコミッションがメーカーからメイヒンへ渡る旨の記載がある)。そして、右小切手及びクレジットノートのコピーが陳のもとにあったことは、被告人竹久のコミッション受領の代理人としての陳が右小切手を受領していたことを示しているから、被告人竹久は右小切手金額に含まれているクレジットノート記載の五四一三・二〇香港ドルのコミッションを取得したというべきである。もっとも、陳が記帳していた金銭出納帳(前記コミッション関係書類ファイル在中。関根証言資料⑪参照)には右小切手入金の記載がなく、ライエンサンの口座(関根証言資料⑭参照)にもこれが入金された形跡がないことは弁護人主張のとおりであるが、金銭出納帳の記帳は昭和五六年七月三日を最後に中断されている(陳が同日以降もライエンサン宛の小切手を受領していることは、コミッション関係書類ファイル在中の小切手写しや預金口座への入金の事実から明らかである)ので、本件小切手の受領が金銭出納帳に記載されていないのは当然であり、またライエンサンの口座に入金されていない点も、その理由は詳らかではないけれども、陳が本件小切手を受領した後の事情に属する事柄であって、小切手の授受の認定に影響を及ぼすものではない。

2 ウインフィールドファッション及びイージーガーメントの各小切手について

関根良夫の証言等によれば、香港三越においては被告人竹久からコミッションの受入状況について聞かれた時正確に答えられるようにコミッション管理表(前出甲二12コミッション関係書類ファイル在中)を作成して、サプライヤー名、契約内容、コミッションの内容、入金状況を明らかにし、初めは香港三越の支配人萩原秀彦、次いで関根が右作業に従事していたが、関根は、メイヒンが設立され大原らが香港に派遣されて被告人竹久のコミッションの受領、保管を担当するようになってから、同人らがその任務を全うできるように、コミッション管理表と同じような内容を記載した各月ごとの入金予定表「黒色ファイル(美興公司)」(符101・甲二35)を作成し、初めのころは大原らを指導しながら自ら記帳し、その後同人に引継継いだことが認められる。そして、右の黒色ファイル中の一一月入金予定表には、番号039、055、056(香港三越のパーチェスレポートの買付整理番号と同一)、サプライヤーがウインフィールドファッションの三口の契約にともなうコミッションに関し、入金状況の欄に関根の筆跡で「一一/五 二九、八〇三・七〇入金」との記載及び大原の筆跡で「ライ済」との記載があり、同様番号256イージーガーメントのコミッションに関し、入金状況の欄に関根の筆跡で「一一/六 二万一四五七・七〇入金ずみ」との記載及び大原の筆跡で「ライ入金」との記載があるところ、関根の証言によれば、同人はウインフィールド振出、ライエンサン宛二万九八〇三・七〇香港ドルの小切手を昭和五六年一一月五日に、イージーガーメント振出、ライエンサン宛二万一四五七・七〇香港ドルの小切手を同月六日に大原に渡し、同人に記帳の仕方を教える意味で自ら右のように記入したうえ、大原らが後で整理する時メイヒンの小切手と混同しないように同人に指示して「ライ済」等と書かせたというのであるが、関係証拠によれば、香港三越のパーチェスレポート整理番号039の買付額五三万五三五〇香港ドルの二パーセントコミッション合計一万七〇七香港ドルは、

① 昭和五六年八月一九日 ライエンサン入金の五九〇一・六〇香港ドル

② 同年八月二六日 ライエンサン入金の一七三六・四〇香港ドル

③ 同年九月二一日 メイヒン入金の一八九〇香港ドル

④ 同年一〇月八日 メイヒン入金の一一七九香港ドル

以上合計一万〇七〇七香港ドルと一致する。

また、056の買付額二九万七六四〇・五〇香港ドルの二パーセントコミッション合計五九五二・八一香港ドルは、

① 同年七月三日 ライエンサン入金の三七八五・五二香港ドル

② 同年七月二三日 ライエンサン入金の二一六七・〇三香港ドル

以上合計五九五二・五五香港ドルとほとんど一致する。

また、055の買付額合計六八万九二八九香港ドルの二パーセントコミッション合計一万三七八五・七八香港ドルは、その全部を完全に確認できないものの、少なくとも、

① 同年七月三日 ライエンサン入金の一四六〇香港ドル

② 同年八月一三日 ライエンサン入金の一九一二・一二香港ドル

③ 同年七月二二日 ライエンサン入金の五八二香港ドル

④ 同年九月三〇日 メイヒン入金の二六九七・六八香港ドル

が右コミッションの一部として入金されたことが確認できる。

そうすると、関根良夫が、右039、055、056の買付に関し、同年一一月五日、ウインフィールドからライエンサン宛の二万九八〇三・七〇香港ドルの小切手入金を確認して、右一一月入金予定の入金状況欄に記載したという証言は、何らかの誤りであり、したがって、右一一月五日分の入金は、二重計上の疑いが残る。

次に、関根証言が入金の根拠としている前記一一月入金予定表により同年一一月六日イージーガーメントから入金があったとされる二万一四五七・七〇香港ドルについても、これは香港三越パーチェスレポート256に記載のある取引で、買付け金額が八万二一三九・七九USドル(香港ドル換算で四五万一七六八・八四ドル)の五パーセントコミッション二万二五八八・四香港ドルの一部であると認められるところ、右コミッションは、

① 同年八月二〇日 ライエンサン入金の一万六七八七・八九香港ドル

② 同年九月一七日 ライエンサン入金の四六七〇・五七香港ドル

以上合計二万一四五七・四六香港ドルとほとんど一致する。

取得年月日

サプライヤー名

コミッション金額(香港ドル)

邦貨換算額(円)

1

56・12・31

インターナショナルファー

六五、四八七・六一

二、五〇八、一七五

2

56・12・17

ロイヤルファー

四九、二三八・〇〇

一、八七八、九二二

3

56・12・17

ロイヤルファー

七三、八五三・〇〇

二、八一八、二三〇

合計

一八八、五七八・六一

七、二〇五、三二七

そうすると、関根良夫が、右256の買付に関し、同年一一月六日、イージーガーメントからライエセサン宛の二万一四五七・七〇香港ドルの小切手入金を確認して、右一一月入金予定の入金状況欄に記載したというのは何らかの誤りであり、右時点における右①②の入金を単に入金ずみと記載した疑いが残る。

以上によれば、検察官主張の

(一) ウインフィールドから昭和五六年一一月五日二万九八〇三・七〇香港ドル

(二) イージーガーメントから同年一一月六日二万一四五七・七〇香港ドル

のコミッション収入があったとは認められないから、この点に関する弁護人の所論は理由がある。

B  メイヒン宛小切手三通によるコミッション収入の計上時期について

(一) 弁護人は、被告人竹久のコミッションの受領代理人である大原明らが昭和五六年一二月中にメイヒン宛小切手三通により取得したとされる次の三口のコミッションは、同人らが記帳していた金銭出納帳の受入日及び同人らが管理していたメイヒンの預金口座の預入日がいずれも翌五七年一月であることに徴すると、右のコミッション収入は昭和五七年分の所得として計上すべきであると主張する。

(二) そこで検討すると、前記認定のとおり、メイヒン設立後香港に派遣されて被告人竹久のコミッションの受領、保管の任務に従事していた大原らは、関根の指導のもとに、入金予定表(前出甲二35黒色ファイル)を作成してコミッションの受入状況を把握するとともに、メイヒン宛の小切手を受領すると、これを永隆銀行銅鑼湾支店の当座預金口座に入金し、金銭出納帳にもその旨記帳していたところ、右金銭出納帳(符138・甲二32)及び当座勘定元帳控(符102・甲二40)の各記載をみると、インターナショナルファー振出の六万五四八七・六一香港ドルの小切手は、昭和五七年一月七日預金口座に入金されてその旨金銭出納帳に記載され、ロイヤルトレーディング(ロイヤルファー)振出の四万九二三八香港ドルの小切手及び七万三八五三香港ドルの小切手は、同月一八日入金され記帳されており、入金、記帳の点については弁護人主張のとおり認めることができる(このほか、大原あるいは樫村が記帳していた符137・甲二31受取小切手ノート及び符142・甲二41コミッション記載ノート等にも同様の受入の記載がある)。他方、検察官主張の根拠となる証拠を検討すると、まずインターナショナルファーの小切手については、入金関係書類ファイル(符98・甲二11)中に、インターナショナルファーのメイヒン宛昭和五六年一二月三一日振出の六万五四八七・六一香港ドルの小切手及び同昭和五七年一月二〇日振出の一〇万香港ドルの小切手が併せて一枚の用紙にコピーされた書類が存し、これとともに右二通の小切手の金額を合算した額をコミッションとするその内訳を示したメモ書(買付整理番号C―二八七、C―三一〇、C―三九〇、C―二三で表わされた契約のそれぞれのコミッション額が記載されている)が添えられており、さらに前記入金予定表(甲二35)をみると、五六/〇二三の契約を記載した項の入金状況欄には、右メモ書中の「C―二三 六三、一二二・六三香港ドル」の記載に対応するとみられる「一二/三一 六三一二二・六三入金」の記載があることが認められる。これらの証拠からすると、本件インターナショナルファーの小切手は振出日である昭和五六年一二月三一日に大原に渡されたと認めるにも相当の理由があり、従って、関根証言資料⑥中右の証拠に依拠して記載された本件小切手によるコミッション支払日を一二月三一日とする部分も信用できるかのようである。しかし、小切手の振出日が一二月三一日であることは、その小切手がそのころサプライヤーから集金されていることを示すとしても、これが大原まで渡っていることを証するものではない。メイヒンの出費について樫村が記帳していた金銭出納帳(符139・甲二33)の昭和五七年一月二一日欄には「大原日本出張分一二/二八~一/二一」の記載があり、さらにメイヒンに関する領収証等綴(符141・甲二39)中の「東京出張精算分」と題するメモに「一二/三〇タクシー成田―渋谷」の記載があることからすると、大原は昭和五六年一二月三〇日に香港から日本へ帰った公算が強く(なお樫村がこの時期香港に在留していたことをうかがわせる資料は全くない)、そうすると、本件小切手はサプライヤーから一二月三一日に集金されたものの大原に渡されず、香港三越の社員の許に留め置かれ、翌年になって預金口座に入金されたと考える余地が十分ある。昭和五七年一月のどの時期に大原、樫村が香港へ行ったかについては必ずしも明確ではないけれども、前記金銭出納帳の記載の上で、一月一五日まで日常の雑費の支出がないことや、一月一五日に樫村のみが香港で打合せ等をしていること、前記「東京出張精算分」のメモに「一/一四箱崎―成田出国税」の記載があることを考えると、樫村ひとりが一月一四日に香港へ行ったものと推測され、したがって、本件小切手の一月七日の入金は香港三越の社員が不在の大原らに代って行ったのではないかと思われる。このように、本件インターナショナルファーの小切手が、昭和五六年一二月三一日にコミッションの受領代理人である大原あるいは樫村に渡されたと認めるには種々疑問があり、被告人竹久は本件小切手が預金口座に入金された翌五七年一月七日にコミッションを取得したと考える余地が十分にあるから、本件小切手によるコミッション収入を昭和五六年分の所得に計上すべきでないという弁護人の主張は理由がある。

次に、ロイヤルトレーディングの二通の小切手についてみると、検察官の主張に添う証拠としては、前記メイヒンの入金関係書類ファイル(符98・甲二11)中のコミッションの内訳を書いたロイヤルトレーディングのコミッションステートメント(及びこれに基づき書かれた関根証言資料⑥の該当部分)がみられるぐらいである。右のコミッションステートメントは、昭和五六年一二月七日付でパゴダ宛に作成された形式のもので、五口の契約のコミッション額がパゴダ宛とメイヒン宛にそれぞれ区別して書かれ、合計で前者は四万九二三八香港ドル、後者は七万三八五三香港ドルとなっており、この原文に対しコミッションの宛先のパゴダがメイヒン宛に手書であとで訂正され、さらに各契約に対応した香港三越の買付整理番号並びに二通の小切手の番号、金額(前記合計額と同じ七万三八五三香港ドル及び四万九二三八香港ドル)が書き加えられている(小切手の振出日は不明である)。関根証言資料は、このコミッションステートメントの作成日の一二月一七日ころ本件二通の小切手が振出され、かつ大原らに渡されたとするもののようであるが、コミッションステートメントの作成日ころに必ずしも小切手が振出されるとは限らないうえ、右に記載の買付整理番号(C―二八五、C―二八九、C―二九〇)を辿り入金予定表(甲二35)をみると、前記インターナショナルファーの小切手と異なり、本件小切手に関連するコミッションの入金日はすべて昭和五七年一月一八日となっているのである。関根証言資料のように、大原が一二月一七日本件小切手を受領したとすると、同人はなぜ一か月間も入金しなかったのか疑問が持たれるのであり、この疑問は解消されていない。他のほとんどの小切手が受領後直ちに入金されていることからすると、特別の事情があれば格別、入金日に近接した時点で小切手の授受があったと考えるのが普通であり、小切手の振出日が判明していない本件においては、これと異なり、右のコミッションステートメントの作成日を根拠にそのころ小切手が振出され授受がなされたと認めるには十分でないといわざるを得ない。なお、関根証言等によれば、本件二通の小切手は、サイベリアンファーの小切手三通(入金日昭和五六年一二月二一日、昭和五七年一月一九日、同年三月一七日)とともに、もとはパゴダ宛に支払われるべき陳谷峰との共同コミッションであったところ、陳は何もしていないので払う必要はないとの被告人の意向に従い、メイヒンにおいて全額取得することとし、サプライヤーと交渉してこれらの小切手をメイヒン宛に振出して貰ったことが認められ、コミッションステートメントと本件小切手の振出しとの間に隔りがあるとすれば、こうした事情が背景にあったものと理解されるが、詳細は判然としない。以上のとおり、本件ロイヤルトレーディングの二通の小切手についても、これを昭和五六年中に取得したものと認めることはできず、同年分の所得として計上することはできないから、この点に関する弁護人の主張も理由がある。

三  ハッセンフェルドコミッション

(一)  弁護人は、三越が米国ハッセンフェルド社からダイヤモンドを買付けた際発生したコミッションに関し、昭和五三年六月一四日買付にかかる代金六七万九七二八・三八米ドルに対するコミッション一万三五九四・五六米ドル及び同年九月一一日買付にかかる代金一三二万二六六〇・五九米ドルに対するコミッション二万六四五三・二一米ドルは、香港コミッションの場合と異なり、買付時点で収入すべき権利が確定しているというべきであるから、被告人竹久の昭和五三年分の所得として計上すべきものであり、同被告人が右のコミッションの支払いにかえてダイヤモンドを受領した時点をとらえて昭和五四年分の所得として構成すべきでないと主張する。

(二)  そこで検討するのに、被告人竹久がハッセンフェルドからコミッションを受取るようになった経緯並びにコミッションの支払いにかえてダイヤモンドを受取るようになった事情等については、被告人竹久の検察官に対する昭和五七年一〇月二四日付、同月二五日付各供述調書(乙26、27)、関根良夫(昭和五七年一〇月二一日付)、山懸憲一の検察官に対する各供述調書(甲一117、418)、証人武田安民、同鈴木賢治の各証言、検察官作成の昭和五九年六月二三日付捜査報告書(甲一420)等によれば、次のとおり認めることができる。

三越仕入本部貴金属部長武田安民は、就任して間のない昭和五二年六月ころベルギーでダイヤモンドを買付けた際、被告人竹久を通さずコミッションの支払いもしなかったことが被告人竹久の知るところとなって問題となり、上司から注意や忠告を受けるなどしたうえ被告人竹久に謝罪するという経験をしたことから、その後の買付にあたっては被告人竹久に予め話しコミッションを支払うようにしていたところ、貴金属部では昭和五三年春ころアメリカの良質のダイヤモンドを取入れることを決め、商品チェックをした後ニューヨークの宝石業者ハッセンフェルドシュタイン社(以下「ハッセンフェルド」という。)から買付けることとなったが、武田は被告人竹久に対し事前にその経過を報告し、二パーセントのコミッションを支払うことで了解を得た。

同年六月の第一回の買付には、武田とその部下の鈴木賢治がニューヨークに出張して行い、被告人竹久も同行したが、武田はハッセンフェルドの社長との交渉において「竹久は三越にとって有力な人であり、コミッションを支払うことによって取引がスムーズになる。ダイヤモンドの買付金額に三越が二パーセントのコミッションを上乗せして支払うので、このコミッションをハッセンフェルドから竹久に支払ってもらいたい」旨申し入れてその承諾を取りつけ、その際被告人竹久は同社長からコミッションを現金で持ち帰るか否かを聞かれたのに対し、ハッセンフェルドのほうにプールしておいて欲しいと答え、了承された。

ハッセンフェルドとの取引は以後昭和五六年一一月までの間一二回にわたり行われ、武田、鈴木、田丸ら仕入本部貴金属部の社員がその都度ニューヨークに赴き買付を行ったが、昭和五六年一月以降の買付において税金上のことから被告人竹久の意向によりオリエント交易が販売代理店としてコミッションを受取っている。

被告人竹久のコミッションは、第一回目の買付で一万三五九四・五六米ドル(インボイス金額六七万九七二八・三八米ドル)、昭和五三年九月の第二回目の買付で二万六四五三・二一米ドル(同一三二万二六六〇・五九米ドル)、昭和五四年一月の第三回目の買付で一万八三六六・四八米ドル(同九一万八三二四・二三米ドル)となり、ハッセンフェルドには合計五万八四一四・二五米ドルが蓄積されていたところ、同年三月中旬ころ、武田が被告人竹久を同道してハッセンフェルドで第四回目の買付を実施した際、被告人竹久は、同社々長から、ダイヤモンドの価格が上昇し続けているので現金で持っておくよりダイヤモンドで持っていたほうが得であると勧められ、これに従い同社からコミッション額に見合ういくつかのダイヤモンドを見せて貰ったが気に入ったものがなく、他の高額のものを求め、結局一一万七〇〇〇米ドル相当の三カラットのダイヤモンド一個を取得することとし、右価格からそれまでに蓄積されたコミッション額を差し引いた不足分については、四万七〇〇〇米ドルを陳谷峰に依頼し、同人が管理していた被告人竹久の香港コミッションの預金を取り崩し、香港の宝石会社サクセスエンタープライズを通してハッセンフェルドに送金し、残りの分は今回の買付で発生するコミッションで支払うこととし、同月二六日ころ右ダイヤモンドをサクセスエンタープライズ宛送付して貰って取得した。なお、この第四回目の買付で発生したコミッションは、インボイス作成日を基準にして、三月二九日七二七五・一四米ドル、四月一〇日一四五二米ドル、同月一六日四五四・〇四米ドル、同月二〇日一九〇六・〇七米ドル(合計一万一〇八七・二五米ドル)であり、それぞれその時点でダイヤモンドの不足分の支払いに充当されている。

被告竹久は、このようにコミッションの支払いを受けるかわりに三カラットのダイヤモンドを取得したのを始めとして、続いて第七回目の買付時の昭和五五年一月一四日ころ、三万一四一五米ドル相当の一・〇三カラットのダイヤモンド一個を、第五回目(昭和五四年七月)の買付時のコミッション九〇〇八・三四米ドル、第六回目(同年一二月)の買付時のコミッション一万七二九九・一二米ドル及び第七回目の買付時のコミッション五八四六・八一米ドルの合計三万二一五四・二七米ドル中対等額の支払いを受けるに代えて取得し、次いで第九回目の買付時の昭和五五年四月一七日ころ、三万四六八〇米ドル相当の一・〇二カラットのダイヤモンド一個を、第八回目(同年三月)の買付時のコミッション一万八一二七・三一米ドル、第九回目の買付時のコミッション四三四五・七〇米ドル及び第七回目買付時の残りのコミッション七三九・二七米ドルの合計二万三二一二・二八米ドルの支払いを受けるのに代え(不足分は後の買付で発生するコミッションで充当することとし)て取得し、さらに第一一回目の買付時の昭和五六年一月一三日ころ、四万八一五〇米ドル相当の二・一四カラットのダイヤモンド一個を、第一〇回目(昭和五五年一一月七日)買付時のコミッション六万〇〇五四・五五米ドルから前回取得時の不足分一万一四六七・七二米ドルを控除した四万八五八六・八三米ドル中対等額の支払いを受けるのに代えて取得している。

以上によれば、本件ハッセンフェルドコミッションは、三越がダイヤモンドの買付金額に二パーセントを上乗せしてハッセンフェルドに支払い、同社からこの二パーセント分が被告人竹久に支払われるという方法がとられていたもので、本件コミッションの実質的負担者は三越であったことは明らかであるが、この取引においては買付先の選定からダイヤモンドの選別に至るまですべての過程を三越自身の活動によって行っており、被告人竹久が何らか有用な働きをしたとは認められない。三越の担当者としては、岡田社長の意向と勢威を背景にした被告人竹久を除外しては本件取引を行うことができず、合理的な理由がないことを承知しながら、やむを得ず被告人竹久にコミッションが支払われるよう処置していたというのが実情であり、したがって会社経理の上でコミッションの支払いを表面化することができず、右のようなコミッション支払いの形式をとらざるを得なかったのみならず、コミッション支払いに関して、三越、ハッセンフェルド、被告人竹久の間において文書で明確化する方法もとることができず、ハッセンフェルドは交渉にあたった武田の求めに対し事実上これに応じてきたものと認められる。

このように、被告人竹久は本件コミッションを取得するにつき正当な理由を有しておらず、したがって、三越、ハッセンフェルド、被告人竹久の三者の関係からみても、ハッセンフェルドが現実に支払いをするか否かは不確実なものであり、ハッセンフェルド側の支払いも言わば口約束に基づく事実上のものであったに過ぎないから、現実にダイヤモンドの買付が行われコミッションの支払いがなされ得る状態になっても、被告人竹久としては、その受領を期待し得る立場を越えて、何らか法的保護に裏打ちされた確たる権利を有していたとは認められず、右の段階では、同被告人に担税力ある経済的利益が生じたものとすることは妥当ではない。そうすると、本件ハッセンフェルドコミッションはいわゆる香港コミッションの場合と異なるところはなく、これが現実に被告人竹久の許に移転した時に収入すべき金額が確定したというべきである。これを本件についてみると、ダイヤモンドの買付がなされた時に被告人竹久に支払うべきコミッションの額は確定するが、その段階では未だ権利が確定したとは言えず、既に発生したコミッションの支払いに代えてダイヤモンドを取得した時にそのコミッション額相当の収入を得た(権利が確定した)と認められるとともに、ダイヤモンドを取得した時点で、既発生のコミッションでは足りず、後で発生するコミッションが充当されることになっていた場合は、そのコミッションが発生した時点でコミッション額相当の収入を得たものと認められる。そして、昭和五三年中に行われた第一回目、第二回目の買付により発生したコミッションは、同年中に支払われず、昭和五四年三月二六日被告人竹久においてこの支払いを受けるのに代えて三カラットのダイヤモンドを取得したことは前記認定のとおりであるから、この収入が同被告人の昭和五四年分の所得を構成することは明らかである。したがって、これが昭和五三年分の所得として計上されるべきであるという弁護人の主張は理由がない。

なお、右のダイヤモンドにつき、昭和五四年四月二〇日買付分のコミッションが充当された段階で、なお四九八・五〇米ドルが不足していることとなるが、ハッセンフェルド側ではこの時点でダイヤモンドの収支計算を締め、右不足分は被告人竹久に取得させたものとして処理しているので、同日右不足分に相当する額につき同被告人の収入が確定したものと認むべきである。

四  パリ三越からの送金にかかるコミッション(認定賞与)

(一)  弁護人は、被告人竹久はパリ三越に蓄積されていたオリエント交易のコミッション二三万九七一七・〇八フランスフラン(邦貨換算九五九万一〇八〇円)がパリ国立銀行香港支店のワールドファッション名義の普通預金口座に送金されたことを知らなかったから、納税義務が存在することにつき認識がなかったと主張する。

(二)  そこで検討すると、被告人竹久の当公判廷における供述、検察官に対する昭和五七年一一月三日付供述調書(乙32)、証人天野治郎、同黒川徹、同粕谷誠一の各証言等を総合すると、オリエント交易のコミッションがパリから香港へ送金された経緯について次のとおり認めることができる。

香港三越の子会社である前記オーキッドファッションが生産していた三越のオリジナル婦人服「カトリーヌ」の生地は、昭和五四年春ころから三越仕入本部の担当者がヨーロッパ各地に出張して買付を行ない、三越の海外基地を通して当初香港三越宛、次いでオーキッドファッション宛に輸出していたが、この買付においても、オリエント交易が輸出金額に上乗せされた五パーセントのコミッションを取得し、シッパーとなった海外基地から支払いを受けることになっていたところ、パリ三越においては、オリエント交易との間に送金に関する契約がなく、為替管理上コミッションをオリエント交易へ送金する手段がないため、コミッションはそのままパリ三越に蓄積され、その額は昭和五五年末ころには二三万九七一七・〇八フランスフランに達していた。

ところで、昭和五五年初めころ、パリ三越支配人代理であった天野治郎は、オリエント交易のコミッションが増え続けていくため、オリエント交易社員柳田満に対し送金契約を結ぶよう申し入れたが、同人から契約は結べないとの被告人竹久の意向が伝えられた。その後天野は、同年六月ころ、パリに立寄った被告人竹久から、日本でも香港でもどこでもよいから送金できるようにしてもらいたいとの指示を受け、社内で検討したもののやはり送金契約が不可欠の前提となることから、その旨同被告人に連絡したところ、送金方法を何とか考えるよう強く指示された。そこで天野は、再度検討を加えるとともに、パリ三越社長トレイユが頭取と親戚関係にあるというパリ国立銀行に相談したところ、同銀行の本支店間であれば送金が可能であることが判明したため、被告人竹久にその旨伝え、同銀行の支店における口座開設方を依頼した。天野は同年秋ころ一時日本に帰国した際、被告人竹久から、プールしてあるコミッションは香港のパリ国立銀行香港支店に開設したワールドファッション名義の口座に振り込んで貰いたい、口座番号はあとで知らせるといわれ、帰仏後口座番号を知らされると直ちに送金手続に入ったが、フランスの為替管理が厳格で送金理由を説明した上申書等の書類の提出を求められるなどしたため手続に手間取り、その間昭和五六年一月ころパリにきた被告人竹久に送金の遅れを叱責されたこともあったが、同年二月一三日パリ国立銀行から同銀行香港支店のワールドファッション名義の預金口座へ一一万九六三七・六三フランスフラン及び一二万〇〇七九・四五フランスフランの二口合計二三万九七一七・〇八フランスフランの送金手続を了し、同月一六日右口座に入金がなされた。

一方、香港側の受入状況をみると、オーキッドファッションの工場長でワールドファッションのサイン権者であった工藤武敏が、被告人竹久の指示を受け、パリ国立銀行香港支店にワールドファッション名義で、昭和五五年一〇月二七日ワールドファッションから出金された一万香港ドルを預入して香港ドル口座を開設し、さらに同月二八日やはりワールドファッションから出金された二万六〇〇〇香港ドルに相応する五一〇八・〇五米ドルを預入して外貨建口座を開設し、パリからの送金を後者の外貨建口座で受入れている。そして、右送金の時期がワールドファッションの決算時期(三月末)に近く、受入の科目も判然しないため、ワールドファッションの経理を預かっていた粕谷誠一は、決算処理に困り工藤に苦情を申し入れていたところ、工藤は被告人竹久と相談のうえ、パリ国立銀行香港支店に同人名義の口座を開設し、同年四月一日右送金分を同人名義の口座に移し変え、その後この預金はすべて引出され、陳谷峰のもとで定期預金として保管されていた。

右認定の事実によれば、被告人竹久は、パリ三越に蓄積されていたオリエント交易のコミッションがパリ国立銀行香港支店のワールドファッションの口座に送金されたことにつき、十分認識を有していたことは明らかである。被告人竹久は当公判廷において、柳田から何回かパリ三越が送金に困っているのでどうしたらよいか相談を受けたが、柳田にはその金はオリエント交易ではいらないから香港のオーキッドファッションに戻しなさいと返事しておいたもので、ワールドファッションの口座に送金されたことは検察官の取調べで初めて知った旨供述するけれども、被告人竹久から送金の要請を強く受けて送金方法を検討し、同被告人とも何回か連絡を取り合ったうえワールドファッションの名前やパリ国立銀行香港支店の預金口座番号を知り、その指示のもとに送金したという天野証言は、明確かつ具体的で信用するに足りるし、工藤が被告人竹久の指示や承諾もなくパリ国立銀行香港支店にワールドファッションの口座を開設することはあり得ず、又その必要もないこと、被告人竹久はしばしば香港に出向き陳から定期預金の内容等について説明を受けていることなどを考えると、被告人の右供述はたやすく信用できない。被告人竹久は、検察官に対する昭和五七年一一月三日付供述調書において、前記認定に添う供述をしており、その信用性は十分である。

以上のとおり、被告人竹久はオリエント交易のコミッションをワールドファッションの口座に送金させてこれを受領したことが認められるところ、ワールドファッション名義で取得した収入は被告人個人の所得と認むべきことは前記第七章の一において説明したとおりであるから、被告人竹久が右の経緯で取得した本件収入はオリエント交易からの臨時収入であり、役員賞与に該当するものと認められる。したがって、この点に関する弁護人の主張は理由がない。

受領年月日

サプライヤー名

コミッション金額(香港ドル)

邦貨換算額(円)

1

56・5・31

インターナショナルファー

一二二、六二一・九〇

四、九七五、九九六

2

56・5・31

インターナショナルファー

四、九〇二・七四

一九八、九五三

合計

一二七、五二四・六四

五、一七四、九四九

五  雑損控除

(一)  弁護人は、被告人竹久がライエンサン宛小切手で受領した次の二口のコミッションは、同被告人の代理人陳谷峰の金銭出納帳には入金の記載はあるが、ライエンサンの口座に預入された形跡がないので、陳が小切手を受領したのち盗難にあったか、他に流用したかのいずれかであり、所得税法七二条(雑損控除)により所得から控除すべきであると主張する。

(二)  そこで検討すると、関根良夫の証言、上海商業銀行のライエンサン名義の預金通帳写し(関根証言資料⑭)、金銭出納帳写し(符99・甲二12コミッション関係ファイル在中)によれば、右の二口のコミッションの入金に関する記帳、預入の点については、弁護人主張のとおり認められる。しかし、これらのコミッションないし小切手が盗難にあったとか流用されたという事実をうかがわせる証拠は全くない。関係証拠によれば、陳谷峰は被告人竹久と古くからの知り合いで、三越が香港を中心にしたアセアン地域から商品を輸入するにあたり被告人竹久と共同でコミッションを取得するなど被告人竹久から多大の恩恵を受ける立場にあり、同被告人との取引上の接触を通じてその高い信用を得、香港における被告人竹久のコミッションの受領、管理を全面的に任せられていたもので、問題となっている本件小切手を受領した時期の後も含め、陳がコミッションを管理していた全期間中、被告人竹久の信頼を損ねるような行動をしたことは一度もなかったこと、陳は被告人竹久が香港にきた時には金銭出納帳や預金通帳を見せてコミッションの入金状況、預金の出入、現在高等を説明し同被告人の確認と了承を得ていたこと、さらにコミッションの受入状況については関根良夫ら香港三越の社員に対し容易にその真偽を確かめることができ、陳がほしいままに行動できる余地は少なかったことが認められ、したがって、受領した小切手が入金前に盗難にあったというようなことがあれば、当然その顛末が被告人竹久に報告されることはもちろん、小切手を届けていた関根にもその事実が伝えられるはずであるが、被告人竹久の供述や関根の証言にはそのような経過は一切あらわれていない。また、陳が小切手の受領を記帳しながら、これを勝手に流用するというのも不自然であるし、もともと同人がそのようなことのできる立場、状況でなかったことも明らかである。このように、本件小切手については盗難、流用の事実はなかったものと認めるのが相当であり、右事実を前提に前記二口のコミッションにつき雑損控除を求める弁護人の主張は理由がない。

六  必要経費

(一)  弁護人は、被告人竹久が支出した次の各費用は必要経費として認めるべきであると主張する。

A ワールドファッション関係

(イ) 香港政庁に昭和五六年中に納付した昭和五五年分の所得税二四万五九〇二香港ドル

(ロ) ワールドファッションの代表者でデザイン業務を担当していた工藤武敏に支払った給料合計一五万八〇〇〇香港ドル(昭和五四年分三万四〇〇〇香港ドル、昭和五五年分七万六〇〇〇香港ドル、昭和五六年分四万八〇〇〇香港ドル)及び旅費合計四万一九二八・六二香港ドル(昭和五四年分一万二八〇三・六二香港ドル、昭和五五年分二万九一二五・〇〇香港ドル)

(ハ) ワールドファッションのデザイン業務の企画指導に従事していた被告人竹久に支払った旅費合計七万七八四四・六一香港ドル(昭和五四年分五六一九・二〇香港ドル、昭和五五年分三万七六三四・五〇香港ドル、昭和五六年分三万四五九〇・九一香港ドル)

(ニ) ワールドファッションの経理を担当していた粕谷誠一に昭和五五年中に支払った謝礼四〇〇〇香港ドル

B メイヒン関係

(イ) 昭和五六年中に支出した事務所の賃料管理費(一万一三四八・四八香港ドル)、什器備品購入費(一万五二七八・〇〇香港ドル)、ガス、水道、電気代(九三六・〇〇香港ドル)合計二万七五六二・四八香港ドル

(ロ) メイヒンの集金、管理業務に従事していた大原明に昭和五六年中に支払った給料(一万六〇〇〇香港ドル)及び旅費(一万〇二七五香港ドル)合計二万六二七五香港ドル

C ライエンサン関係

(イ) 香港政庁に昭和五六年中に納付した昭和五五年分の所得税二三万八〇〇一香港ドル

(ロ) ライエンサンに昭和五六年中に支払った名義借用料六〇〇〇香港ドル

(二)  そこで検討すると、検察官は、これらの支出の大部分は、いずれも香港コミッションあるいはデザイン料収入を獲得するために要した費用ではなく、それらの収入を、香港で他人名義あるいはペーパーカンパニー名義で取得して管理するという所得秘匿行為をするために要した費用であって、脱税経費ともいうべき性格のものであり、被告人竹久の渡航旅費も、デザイン料収入がそもそも同被告人の役務の提供の対価ではない以上、それを秘匿するためワールドファッション名義で受預していたその取得形態に照らせば、その取得のために要した費用であるとは認められないと主張する。

所得税法三七条一項は、「所得の総収入金額に係る売上原価、その他当該総収入金額を得るために直接要した費用の額及びその年における販売費、一般管理費その他これらの所得を生ずべき業務について生じた費用の額とする。」と定めているところ、被告人竹久の香港における収入は、主として、三越直輸入商品に関するコミッション収入、オーキッドファッションからのデザイン料名義の収入、パリ三越から送金させたオリエント交易コミッション収入(役員賞与)及びこれらを原資とする預金利息であって、これらの収入が、もともと被告人竹久の正当な役務の対価たる性格を有しないことは、検察官所論のとおりである。しかしながら、右のような性格の収入についても、所得税法上は、課税収入となることは、後記のとおりであるところ、右のコミッション収入、デザイン料収入は、被告人竹久の事業として行われたものとは認められないが故に所得税法三五条により雑所得の対象と認めるべきものではあるが、法は所得計算上の必要経費の範囲について事業所得の場合と右のような雑所得との間に特段の区別を設けていないから、雑所得の計算上も事業所得の場合に準じて必要経費の有無を定めるのが相当である。

これを本件についてみると、被告人竹久のコミッション収入及びオーキッドファッションからのデザイン料名義の収入に関し、これらを獲得するために直接支出した費用及びその収入を管理するために要した費用と認められるものは必要経費となるが、右の関係が認められない支出及び同被告人の収入を税務当局に秘匿するため収入の帰属主体を偽る等不正行為をするために支出した費用の如きは、必要経費を構成しないものというべきである。

弁護人主張の費用について、個別に検討すると

(1) ワールドファッション及びライエンサンの名義でそれぞれ香港政庁に納付した所得税なるものは、いずれも被告人竹久が、自己の所得税として納付したものではなく、同被告人が香港における収入を隠匿するため、収入の帰属主体を仮装したことに伴い、それぞれの名義で納付したものであり、このような支出は所得税法四六条の予想しないものというほかはないから、必要経費に算入することはできないものというべきである。

(2) ワールドファッションの名義上の代表者であった工藤武敏に支払った給料及び旅費についてみると、関係証拠によると、同人は、オーキッドファッションの工場長として同社から給料を得ているものの、被告人竹久のデザイン料名義の収入を獲得するためにも、またそれを管理するためにも必要な活動を全くしていないことが認められる。そしてワールドファッションの実態はさきに認定したとおり、被告人竹久の収入の受け皿換言すれば同被告人の収入を秘匿するための仮の帰属主体にほかならないのであって、同被告人が自己の収入から工藤への給料等の名目で金員を支払ったとしても、それは、右のような仮の帰属主体における名義上の代表者となることを依頼したことに伴い支払われた名義料的性格のものであると認められる。したがって必要経費とは認められない。

(3) ライエンサンに支払ったとされる名義借用料なるものも、右(2)と同様に被告人竹久の収入の帰属主体を仮装するための費用であり、必要経費とは認められない。

(4) 香港三越社員粕谷誠一に支払った謝礼金については、関係証拠によれば、同人がオーキッドファッションの業務のかたわら被告人竹久のため、その収入を記帳したり管理したりしたことの対価たる意味合いをこめて支払われたものと認められるから、右謝礼金は、被告人竹久の雑所得計算上必要経費となるものと認めるのが相当である。

(5) メイヒン(美興公司)関係で、大原明に対し支払った給料及び旅費についてみると、関係証拠によれば、大原はもともとオリエント交易の社員であったが、昭和五六年九月以降、オリエント交易から出向の形で香港三越等の業務に従事するかたわら、被告人竹久のコミッション収入の管理等の仕事も担当することになったと認められ、同人に対し、オリエント交易からの給料のほか、被告人竹久のメイヒン名義の収入から給料及び旅費が支払われたのは、右のような被告人竹久個人の事務を担当したことに対する報酬等の意味合いも含まれていると認められる。したがって、右は従業員に対する給料・旅費としての性格をもつものとして必要経費と認めるのが相当である。

(6) 弁護人主張の事務所経費等についてみると、関係証拠によれば、大原明の香港駐在に伴い、メイヒンの事務所が同人の住居を兼ねて設けられたものとされるところ、事務所の賃料、什器備品購入費、水道光熱費は、同人の家事関連費用のようでもあるが、被告竹久の個人収入から支払われているので、これも一般管理費的性格を有するものとして必要経費に算入するのが相当である。

(7) ワールドファッション関係で、被告人竹久が自らの旅費を支出した分についてみると、同被告人が香港への往復等に支出した旅費は、同被告人のコミッション収入、デザイン料収入等収入の全般に亘って、その獲得になんらかの関連性が認められるので、これも必要経費として算入するのが相当である。

そこで、証拠に基づき、必要経費と認められるものの金額を確定する。

(4)については、証人粕谷誠一の証言、ワールドファッションの総勘定元帳四冊(符110・113、甲二5、8)等によると、粕谷に対する謝礼金の支払は、昭和五五年五月五日、四〇〇〇香港ドル(以下たんにドルと略称する。円換算一八万九五二〇円、円未満切捨て、以下同じ)である。

(5)については、メイヒンの金銭出納帳二冊(符138、139、甲二32、33)等によれば、大原に対する給料・賞与の支払は、同五六年分(12/27)で、一万六〇〇〇ドル(六一万九五二〇円)であり、旅費等の支払は、同年一一月二日、五八〇〇ドル(二二万七一二八円)、同月二三日、一万〇二九二・一〇ドル(三九万〇八九三円)、同年一二月二七日、一三〇一・一五ドル(五万〇三八〇円)及び同日のチケット変更代六八一ドル(二万六三六八円)であるが、他に大原の旅費に含まれるか否か不明であるが、同年一一月二日の航空券代一万〇五七八ドル(四一万四二三四円)の支出があり、これを被告人に有利に経費として加算する。

右の給料及び旅費等の合計額は、一七二万八五二五円となる。

(6)については、右金銭出納帳等によれば、いずれも昭和五六年分のものであるが、

(イ) 賃料・管理費等として、九月一六日(一万三四七二・五ドル)、九月三〇日、二口(二五〇ドル)、一〇月一六日(三五〇〇ドル、税金分控除)、一〇月三一日、二口(三〇〇ドル)、一一月二五日(一〇ドル)、一一月二八日(三五〇〇ドル)、一二月二一日(一五〇ドル)、一二月二二日(三五〇〇ドル)の支出があり、その合計は二万四七七二・五ドル(九三万六〇六九円)である。

(ロ) 什器・備品費等(便宜通信費も含める)として、九月二九日(一六五・八ドル)、九月三〇日(三三一二・六ドル)、一〇月四日(一四ドル)、一〇月一一日(六四六・五ドル)、一〇月一六日(一万五二七八ドル)、一一月二六日(五一・二ドル)の支出があり、その合計は一万九四六八・一ドル(七三万六二三〇円)である。

(ハ) 水道光熱費として、九月三〇日(一〇〇ドル)、一一月三日(二二三ドル)、一一月二六日(七〇ドル)、一二月一二日(三ドル)、一二月二一日(五二ドル)の支出があり、その合計は、四四八ドル(一万七二九七円)である。

(7)については、(4)掲記の証拠によれば、被告人竹久の旅費等として、

(イ) 昭和五四年分が一二月一七日分三口、合計五六一九・二ドル(二七万五五〇九円)

(ロ) 昭和五五年分が一月一八日、二月二九日(二口)、五月八日、五月一九日、九月一五日(高橋分を除く)、一二月六日、一二月九日に各支出があり、その合計は三万七五九七・三ドル(一六七万三〇一八円)

(ハ) 昭和五六年分が九月一九日(四口)、九月二四日、一〇月二九日(二口)に支出があり、その合計は、三万五三〇一・九一ドル(一三三万七五四一円)

である。

七  所得税ほ脱の故意

(一)  弁護人は、香港のコミッション収入につき被告人竹久には所得税ほ脱の故意がなかったと主張し、その理由として、コミッションの源泉が香港にあり、これを香港で受領し、香港政庁に税金も納めていたので、日本に持込まない限りは納税義務は発生せず、日本に持込んだ時点で申告すればよいと考えていたのであって、納税義務に対する認識がなく、かつそう誤認するにつき相当の理由があったというのである。

(二)  そこで検討すると、なるほど被告人竹久は、当公判廷において、コミッションによる収入は日本に持ち帰った段階で申告すればよいと思っていた旨弁護人の主張に添う供述をしている。しかしながら、所得税の申告時期をコミッション収入の持ち込みという申告者の自由な判断に委ねるという考え自体はなはだ不合理なことであり、単なる家庭の主婦と違い、事業者として長期間営業を主宰し納税も行ってきた被告人がこのような認識を有していたとはとうてい考えられない。被告人竹久が自己の所得税の申告事務を手伝って貰っていたアクセサリー学院の黒沼千代子やオリエント交易社員の市川吉昭さらに顧問税理士らにコミッション収入を秘していたことは被告人自身の認めるところであるが、真実申告の意思があれば、ありのままを述べても差支えないはずであるし、少なくとも税理士に対し申告の要否を尋ねる位はしてもよいと思われるが、その形跡は全くない。証人宮崎喜三郎、同内田春樹の各証言等によれば、昭和五〇年五月東京国税局の担当官が香港に赴き香港三越の税務調査を実施した際、被告人竹久は、岡田社長の命を受けた総務部長宮崎喜三郎の指示で香港に派遣されることになった経理本部経理部長内田春樹に対し、「香港に行ったら陳という人に会って書類が出ないようによく頼んで下さい」と指示を与えるなど、自己のコミッション収入が税務当局に知られるのを恐れていたことが認められ、またパリ三越からワールドファッション宛コミッションの送金を受ける過程で、パリ三越支配人代理天野治郎に対し、ワールドファッションの口座は二、三の人しか知らないので秘密にしておいて欲しいと頼むなどしていた事実(天野治郎の証言)をも併せ考えると、被告人竹久にはもともとコミッション収入を申告する意思がなかったのではないかと強く推測されるところである。このことは、被告人岡田が昭和五七年九月二二日三越社長を解任され、三越との取引も停止されるなど事態が一変し、マスコミ等により被告人竹久の利得の構造が報道されるや、同年一〇月一二日それまで放置していた香港のコミッション収入について、急遽概算で税額一億九〇〇〇万円を増額する修正申告をしていることによっても裏付けられている。このほか、被告人竹久の当公判廷における弁解と相容れない同被告人自身の行動として、昭和五四年三月ころから昭和五六年一月ころまでの間ハッセンフェルド社からコミッションの支払いにかえ受取ったダイヤモンド四個(三カラットのダイヤモンドについてはその代金の一部を香港コミッションの中から支払っている)のうち三カラットの分を含む三個を、通関手続を経ず関根良夫及び鄭発霖を介して日本で受取り、申告しないままにしていたこと、また、被告人竹久は、香港における預金利息が高率であったことから、自己資金を日本から香港に持ち込み定期預金として陳谷峰に管理させていたところ、これらの預金は香港コミッションを原資とする定期預金と適宜合体されていて、預金を取り崩して日本に持ち帰った場合、香港コミッション分がどれだけであるか判然しない状態になっていたこと、また被告人竹久は、現在住んでいる目黒区八雲所在の土地と旧家屋を取得した際借り入れたローンの残額約五五〇〇万円を返済するにあたり、前記関根、陳及び鄭と相談のうえ、被告人所有の藤沢市片瀬海岸所在のマンションを鄭に売却したように仮装し、陳をして昭和五七年五月同人に管理させていた定期預金六口を解約させ、約六九〇〇万円を日本に送金させている事実を指摘することができる。

このように被告人竹久の当公判廷における弁解は信用するに由ないものといわなければならない。これに対し、同被告人は、検察官の取調べに対し、逮捕当日は所得税法違反の行為を否認したものの、それ以降はほぼ全面的に自供し、香港のコミッション収入を所得として申告しなければいけないことは判っていた旨一貫して述べており、右供述は十分信用できると判断される。

以上のとおり、香港のコミッション収入につき被告人竹久に所得税ほ脱の故意があったことは明らかであるから、弁護人の主張は理由がない。

八  特別背任による利得の課税所得性

(一)  弁護人は、被告人竹久に対する所得税法違反の公訴事実のほ脱所得のほとんどは、同被告人が特別背任により利得したものでもあるとして、特別背任の罪としても起訴されているが、特別背任による利得は同被告人の課税所得を構成しないと主張する。

(二)  しかし、所得に対する課税は、現実に経済的な利益を享受している状態に着目し、これに担税力を認めて税の負担を求めるものであって、利益を生じこれを保持する原因となった行為の適法性や有効性とは直接の関連性を有せず、ただ所得を認むべき基礎となる利益享受の事実状態の確実性、安定性を考えるにあたって、右の収入の基因となる行為の性質、態様が斟酌されるに過ぎないと解される。そして、本件においては、判示のほ脱所得を構成する被告人竹久の特別背任による利得は、昭和五四年から同五六年にかけて香港三越等からコミッションとして取得した収入に関するものであり、三越が香港を中心とする東南アジア地域から商品を買付けるに当たり、香港三越あるいは香港在住の納入業者らをして被告人竹久に支払うコミッション名下の金額を本来のコミッション又は納入価格(三越の仕入価格)に上乗せして請求させ、右上乗せ分を被告人竹久においてコミッションとして取得していたというものであって、右利益の取得は、いずれも行為の外観において通常の商取引行為を利用して長期間にわたり平穏かつ公然と行われ、被告人竹久は、少くとも被告人岡田が昭和五七年九月二二日三越の代表取締役社長の地位を解任されるまでその利益を確実に保持し享受していたことが認められるから、前記利得も被告人竹久の課税所得を構成することが明らかである。そして、被告人竹久のほ脱所得のうちワールドファッション名義及びメイヒン名義の預金として留保されていたものについては、その後香港三越が財産保全の訴を提起し、現在では同社が管理していることが認められるが、このような事後的な事情により前記利得の課税所得性が否定されるとすることも妥当ではない。

よって、弁護人の主張は採用できない。

九  ほ脱税額算定の基礎となる所得金額

(一)  弁護人は、判示各ほ脱対象年分の被告人竹久の申告所得は、いずれも非犯則所得であり、不可罰部分であるから、ほ脱税額算定の基礎となる所得金額から控除すべきものであり、実際総所得金額から申告所得金額を控除した金額を課税所得金額として所得税法八九条所定の税率を乗じ、ほ脱税額を算定すべきであると主張する。

(二)  しかし、現行所得税法のように累進課税の場合、弁護人主張のような算定方法によりほ脱税額を算定することは、当初から適正な申告、納税をする場合に比し、被告人竹久にとって極めて有利で妥当性を欠くことは明らかである。よって、弁護人の主張は採用できない。

一〇  ほ脱所得額のまとめ

以上によって明らかなとおり、検察官主張の所得額の一部について、所得を構成しないものが認められるので、これを減額・調整した結果は、以下のとおりである(上段・検察官主張額、下段認定額)。

昭和五四年分

(ほ脱所得額) 六九三七万九五五八円 六八五四万〇六九〇円

(脱税額) 五〇三一万五五〇〇円 四九六八万六二〇〇円

昭和五五年分

(ほ脱所得額) 一億一二一五万二五一八円 一億〇九八八万二三〇二円

(脱税額) 八四一五万三二〇〇円 八二四五万〇七〇〇円

昭和五六年分

(ほ脱所得額) 一億九四〇七万八三一四円 一億八〇〇八万七五五四円

(脱税額) 一億四一六二万六二〇〇円 一億三一一三万二九〇〇円

第八章量刑の理由

本件は、被告人両名の直輸入商品関係特別背任事件、被告人岡田の自宅改修費関係特別背任事件及び被告人竹久の所得税法違反事件から構成されている。当裁判所は、昭和五七年一一月五日付、同月一六日付及び同年一二月一日付で右各事件の公訴を受理し、翌五八年三月三〇日第一回公判を開廷して以来、昭和六二年一月三〇日までの間九七回にわたり公判審理を重ね、検察官、弁護人の申請・提出にかかる膨大な証拠を慎重に検討した結果、各事件について有罪の結論に達したものであるが、その理由については先に詳細に判示したとおりであり、被告人両名に対する量刑の基礎となる事実も右の説示の中に現れているが、以下において各事件ごとにその情状の要点を述べることとする。

(一)  直輸入商品関係特別背任事件について

本件は、我が国の代表的百貨店の代表取締役社長が愛人と共謀し、長期間にわたり、会社の海外商品取入の過程に愛人を関与させ、同人及びその関係会社に巨額の利益を取得させるとともに、会社に損害を加えたというものであり、犯行の動機、規模、期間、損害額等いずれの点においても、この種事案としては他に類を見ないほど悪質、重大な事件であると考えられる。

すなわち、被告人岡田は、宣伝部長時代の昭和三〇年代半ばころから被告人竹久と愛人関係にあり、同四四年被告人竹久がアクセサリーたけひさを設立し、本格的にアクセサリーを三越に納入するようになって以来同被告人のために種々便宜を図り、同四七年社長就任と相前後し、被告人竹久が貿易業務を行うオリエント交易を設立するや、直ちに三越に取引口座を開設させ、仕入部社員を香港等に出張させて商品を買付けさせ、これをオリエント交易経由で三越に納入させるなどし、さらに同社が外国為替取引契約を結ぶのに三越で保証をし、被告人竹久やオリエント交易と三越との関係に対するマスコミ等の批判が高まり、側近の取締役がオリエント交易との取引中止を進言するのに、耳を傾けることなく、昭和四八年末ころから同四九年春ころにかけて準直方式及び香港コミッション方式を導入して三越の海外商品仕入システムの中に組み込ませ、爾来九年近くにわたり被告人竹久及びその関係会社の利益を図ってきたものである。本件の舞台となった三越は、創業以来三〇〇年余の歴史と伝統を誇る百貨店業界有数の老舗であり、多数の社員の熱意と努力によって多くの顧客と高い信用を得てきたものであって、かかる組織の頂点にある社長としては、高度の倫理性、廉潔性が求められることは当然である。しかるに、被告人岡田は、長期間にわたり被告人竹久と不倫の関係を継続したばかりか、両名の関係を三越社員に対し公然と示し、その結果被告人竹久をして三越幹部社員ですらその意向に逆らえないほどの強大な力を保持させ、三越の被害を拡大させることとなったものである。こうした観点から被告人岡田の社長在任期間中の行動を見るとき、まさに公私を混同し、企業を私物化してきた歴史であったといっても過言ではない。そして、本件犯行により、被告人竹久及び関係会社に一八億円余という巨額の利益を与え、三越に対し同額の損害を加えたばかりか、三越が永年にわたり築き上げてきた社会的信用を著しく失墜させたのであって、右の有形、無形の損害は本件において看過し難い重要な情状であると考えられる。

本件犯行の手段、方法となった竹久絡み輸入方式は、被告人竹久ないしその関係会社が、三越の海外商品取入の過程において、何ら経済的対価を得るに値する活動をしていないのに、被告人竹久らにコミッションないし売買差益を与えるというもので、その不合理性は誰の目からみても明らかなところであるが、被告人両名があえてこの方式を導入したのは、前述したとおり、三越と被告人竹久との癒着に対するマスコミ等の批判をかわしつつ同被告人の利益を図ろうという意図に基づくものであり、このため準直方式においては、必要もないのにオリエント交易をインポーターとし、アクセサリーたけひさを経由して三越に海外商品を納入するという正常な取引の外観を装い、又香港コミッション方式においては、三越が直輸入する商品の代金額に被告人竹久個人のコミッション分を上乗せし、香港において同被告人に右コミッション分をバックさせるという外部から露見しにくい方法を取っていたものである。被告人両名がこのように両方式を巧みに三越の直輸入システムの中に組み込み運用した結果、長期間にわたる大規模な犯行を可能にし、三越の被害を拡大させたものと認められ、かかる犯行の巧妙さ、計画性、組織性も決して無視できない。

また、本件犯行の特徴として、被告人岡田が社長としての最大の権限である人事権を濫用し、被告人両名において三越社員がサラリーマンとして当然有する人事に対する恐怖感、期待感を巧みに操り、竹久絡み輸入方式を維持・拡大するのに努めてきたことを指摘しなければならない。すなわち、竹久絡み輸入方式の不合理性を最も身近にかつ深刻に感じていたのは仕入業務に携わっていた三越社員であり、これら社員の間に右方式に対する批判が生じたのも当然のことであるが、被告人岡田は、右方式に批判的、消極的な社員や被告人竹久が嫌う社員を左遷・降格させたり他の部門へ異動させ、逆に右方式に協力的で被告人竹久の気にいる社員を竹久絡み商品を扱う部門に集中させ、優遇するなどして、遮二無二右方式の維持・拡大を図ってきたものである。こうした結果、被告人竹久は、社長の権力を背景に、社員に対し絶大な権力をもって君臨するようになり、ひたすら自己の利益を確保するため三越社員を道具のように利用してきたことが認められる。通常の感覚をもってすれば、本来一介の納入業者に過ぎない者が、巨大な取引先の社員から下へも置かぬ扱いを受け、かつ自ら人事を左右する程の力を持つことの異常さにたやすく気付くはずであるのに、被告人竹久がこれらを当然の如くに受け止め、社員に対し傲岸・不遜の態度で接していたことは驚くべきことである。被告人両名が行ったいわゆる竹久人事の行使は、三越の海外商品に関する仕入業務を著しく歪めただけでなく、社員の士気を低下させ、右人事の犠牲になった社員に浅からぬ傷痕を残したものと思われる。さらに、被告人岡田についていえば、古くから苦楽を共にし、良きにつけ悪しきにつけ、社長防衛を最大の任務と心得、永年にわたり被告人岡田のために働いてきた腹心の部下たる総本部長宮崎喜三郎に対してまでも、被告人竹久の言を信ずる余り、疑心暗鬼を生じさせ、ついに同人を放逐するまでに至っており、この状況を見るとき、右宮崎がいみじくも当公判廷で証言する如く、「一将功成りて万骨枯る」との述懐部分は、己が立場を忘れ被告人竹久の利益のために竹久人事に狂奔する当時の被告人岡田の姿を伝えるものとして、まことに迫真的である。

また、本件において、竹久絡み輸入対象商品が拡大する過程での被告人両名の同商品買付に対する執拗、強硬な指示・発言も指摘しなくてはならない。竹久絡み輸入方式は、被告人竹久あるいはその関係会社は商品リスクを全く負わず、輸入商品が増えれば増えるだけ同被告人らに利益が落ちる仕組になっていたことは既に述べたが、被告人両名の右指示等は三越の販売能力や買付計画を無視したもので、その結果、三越に膨大な過剰在庫の発生、商品回転率の低下、売上総利益率の低下という一連の現象を生ぜしめた。海外商品は事の性質上完全買取制とならざるを得ず、商品の陳腐化、在庫の評価減等の商品のリスクもそれだけ高いのであるから、販売能力とバランスの取れた商品の買付が必要であることは言うまでもなく、被告人岡田は、仕入本部長が度々過剰在庫について報告し、取入の抑制を進言していたにもかかわらず、全く耳を貸さず、終始異常とも思える程の買付増大を指示していたのであり、他方被告人竹久も竹久人事を背景に仕入部社員に買付の増加、強要を行っていたものである。このように、被告人岡田が三越の販売能力、在庫等を考慮することなく海外輸入商品の推進を図っていた背景事情としては、被告人岡田の経営戦略や被告人竹久の利益確保という観点があることもさることながら、被告人岡田が宣伝畑出身であり、大ナポレオン展の成功や銀座店の業績の飛躍的向上という経験を持ったことから、百貨店の販売は独創的なアイデアにより無限に伸ばせるという考えを抱き、企業の財務や在庫・商品回転率という百貨店業務の基礎的要素に対する理解を欠いたか、あるいはこれを軽視したことによるものであろう。同様に、被告人岡田の総務・人事に対する無理解が、組織における人の活用の方法を誤り、竹久人事の実行に結び付いていったものと思われる。

右のほか、昭和五七年四月に至り、一部週刊誌が三越の海外商品の在庫等を報道し、三越と被告人竹久との関係に対する批判が再燃するや、被告人岡田は、商品本部長に対し、資料の漏洩ルートの徹底調査を命じるとともに、直輸入品の構成比等を半分以下に圧縮した資料の作成を指示してマスコミに公表するよう指示し、被告人竹久においても、三越と取引関係にある会社の口座を利用して商品を納入したり、新たにダミー会社を設立するなど犯行隠蔽工作を行っている。

(二)  自宅改修費関係特別背任事件

本件は、被告人岡田が三越出入りの取引業者に永年にわたり自宅の改修工事をさせながら、工事代金の支払いを僅かしかせず、このため多額の未払代金が累積したことから、三越の負担において右代金の支払いを免れようと考え、右業者と三越との間に陳列ケースのリース契約を結ばせたうえ、三越から不当に高額のリース料金を支払わせ、約八七〇〇万円もの損害を三越に加えたというもので、典型的な私利私欲に基づく犯行であり、一流企業の社長としてまことに恥ずべき行為といわなければならない。

右の自宅改修工事を担当した業者は、三越出入りの業者としての弱い立場から次から次へと来る被告人岡田の工事の依頼を断ることができず、僅かの工事代金の支払いを受けるだけで、本業を差し置いて一心不乱に工事の遂行に努めており、この間被告人岡田は、業者との連絡調整役を担っていた庶務部長が代金の支払いを催促したのに対し、叱責したり工事代金の全額を支払う意思のないことを公言し、支払いをしないで済ませる方法を考えるよう指示するなど、公私を混同する態度が顕著に見受けられ、本件犯行の手段となったリース契約も消極的であった業者に被告人岡田が強く働きかけて締結させたものであり、本件犯行は終始被告人岡田の主導のもとに行われたことが認められる。また、被告人岡田は、右工事の前にも別の業者に自宅の工事をさせて代金を支払わず、東京国税局の係官から、業者が右代金を工事代金に上乗せして三越から支払いを受けていることを指摘され、ようやく支払ったという過去を持っており、こうした社長の立場を利用して利得しようという姿勢は以前から続いていたものと認められる。そして、本件犯行により三越に加えた損害は多額であり、これに対し現在に至るも弁償は全くなされていないことを考えると、本件の犯情もまた悪質といわなければならない。

(三)  所得税法違反事件

本件は、ほ脱額が三年分合計で約二億六〇〇〇万円と巨額であり、正規の税額に占めるほ脱の割合も通算して約八〇パーセントと高率であって、既にこの点において犯情甚だ悪質である。

本件において申告を除外した所得は、前述したとおり、三越が香港を中心とした東南アジア地域から商品を直輸入するにあたり取得したコミッション、三越の関係会社が香港で生産したプライベートブランド婦人服「カトリーヌ」を三越に輸出するにあたり取得したデザイン料名義の収入、三越が米国で宝石を買付けるにあたりダイヤで取得したコミッション収入、右カトリーヌの生地をヨーロッパで買付けた際オリエント交易が取得しパリ三越に保管していたコミッション及びこれらを源資とする利子収入であるところ、被告人竹久は、これらの収入が我が国の税務調査の及びにくい外国において取得したものであることから、脱税を企図したものであって、犯行の動機に酌むべき事情が認められない。そして、ダイヤのコミッションを除くその余の収入は、受皿あるいは保管の手段としてペーパーカンパニーや他人名義を利用しており、収入秘匿の方法も悪質・巧妙といわなければならないし、コミッションとして受け取ったダイヤは第三者をして通関手続を経ず密かに国内に持ち込ませ、さらに香港で定期預金として蓄積していた預金のうち約六九〇〇万円(但し、このうちには日本から持ち込んだものもある)は、昭和五七年五月自宅のローンの返済のため、自己のマンションをタイの知人に売却したようにして香港から送金させ、外国における収入が捕捉されないよう努めるなど、収入確保の手段・方法も芳しくない。また、香港コミッションによる収入は、昭和四〇年後半から取得するようになったのに継続して申告を除外していたものである。なお、被告人竹久は、本件所得税法違反事件の強制調査が開始される直前の昭和五七年一〇月一二日、三年分合計で約一億九〇〇〇万円増額の修正申告をしているが、現在まで一〇〇〇万円を納付しているに過ぎない。

以上本件各犯行の情状について概観したが、被告人両名のために斟酌すべき事情としては、次の諸点を指摘することができる。

被告人岡田については、何よりも、社長就任前に残した数々の業績を挙げなければならない。すなわち、戦後間もなく三越を揺るがした大争議を収拾した手腕、戦後の暗い世相下人々に明るい夢を与えたファッションショーの企画・演出、文化催事と商品フェアーを組合せ大成功を収めた大ナポレオン展の立案・実行、的確な顧客動向の把握と大胆な発想に基づき銀座店を再生し業績を飛躍的に高めた経営能力等、これらはいずれをとっても戦後の三越の歴史を語るとき特筆さるべき事柄であり、被告人岡田の三越に対する右の貢献は決して軽視さるべきでない。それにしても、愛人のためとはいいながら、被告人岡田のこれらに示された非凡な才能が社長在任中正しく発揮されなかったことは被告人のためまことに惜しむべきことと思われる。社長在任中においては、種々の外国フェアー、直輸入推進等を通じて国際文化の交流に寄与したことも指摘できる。また、本件犯行により三越に加えた損害は巨額であり、弁償もされていないところであるが、三越の経済的基礎がしっかりしていたため、右損害の影響が三越だけに止どまったことは不幸中の幸というべきであろう。そして、直輸入商品関係特別背任事件により、被告人岡田は一切利得していないことも考慮されなければならない。このほか、被告人岡田は、既に年齢七〇年を越え、本件公判中軽度の脳梗塞を患い、現在健康状態は十全でないこと、社長解任後相当の社会的制裁も受けていること等の事情が存する。

次に被告人竹久については、昭和三〇年ころヌーベルアクセサリー研究所を開設して以来、我が国のアクセサリーデザイナーの草分けとして地歩を築き、オリジナルアクセサリーの製作・販売、アクセサリー学院における生徒の指導・育成等を行ってきた事業家であり、アクセサリーの分野における活動を通じて相応の社会的貢献をしている。本件直輸入商品関係特別背任事件においては、右犯行によって得た利益をすべて取得し、弁償もしていないが、本来三越に対しては納入業者として利害が対立する関係にあり、三越のためにその任務の処理を委託された者ではないから、被告人岡田と比べると刑事上の責任には自ら限度があるといわなければならない。このほか、被告人竹久は、家庭においては、女手一つで長女を養育・成長させ、老母の支えともなっていること、前科・前歴はないこと、社会的制裁も受けていること、本件公判中体調を損ねたこと等の事情がある。

当裁判所は、右にみてきた諸般の情状を総合考慮した結果、被告人両名に対しては、主文掲記の刑が相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小泉祐康 裁判官田尾健二郎及び同石山容示は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 小泉祐康)

〈以下省略〉

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